第五話 エルフの村
エルピアの村は、森の中にあった。
いや、正確には、森そのものが村になっていた。
巨大な樹々の幹に沿うように家が作られ、枝と枝の間には細い橋が渡されている。 木を切り倒して場所を作るのではなく、木の形に合わせて暮らしを重ねているようだった。
窓は丸く、扉は小さく、屋根には苔や草が薄く生えている。 ところどころに吊るされた透明な実のようなものが、淡く柔らかな光を放っていた。
魔導灯とは違う。
王都の魔導灯は、もっとはっきり明るい。 街路を照らし、夜を押しのけるための光だ。
けれどここにある光は、夜を追い払うというより、森の暗さにそっと寄り添っているように見えた。
綺麗だった。
悔しいくらいに。
「すごい……」
思わず声が漏れた。
王都の高い塔や、魔導列車の駅舎を初めて見た時も驚いた。 けれど、それとはまったく違う驚きだった。
人間の街は、自然の上に作られている。
この村は、自然の中に溶け込んでいる。
どちらが優れているとか、そういう話ではない。
ただ、私が今まで知っていた世界とは、根本から違うのだと思った。
「リーネ」
前を歩くエルピアが、小さく私の名を呼んだ。
「うん」
「後ろ」
「分かってる」
私は慌てて半歩下がる。
村に入る前から、エルピアは何度も言っていた。
私の後ろにいて。
勝手に喋らない。
変なことをしない。
最後の一つだけ範囲が広すぎる気もしたけれど、今は素直に従うべき場面なのだろう。
私は外套の裾を握りしめ、なるべく目立たないようにエルピアの後ろを歩いた。
もっとも、目立たないようにしても無駄だった。
村に入ってすぐ、何人かのエルフがこちらを見た。
最初の視線は、エルピアへ向けられたものだった。
安堵。
驚き。
少しの心配。
けれど、その視線が私へ移った瞬間、空気が変わった。
ざわり、と葉が鳴った気がした。
いや、実際には風なんて吹いていない。
変わったのは、村の空気そのものだった。
近くで籠を抱えていた女性が足を止める。 木の橋の上にいた男性が、手すりに置いていた手を強く握る。 根元に腰かけていた老人が、ゆっくりと顔を上げる。
子どもはいない。
見える範囲にいるのは、みな大人のエルフばかりだった。
長い耳。
銀や淡い金の髪。
静かな目。
エルピアと同じ種族なのに、その表情はまったく違って見えた。
私を見る目に、好奇心はほとんどなかった。
あるのは、警戒。
それから、もっと硬い何か。
「エルピア」
低い声が聞こえた。
声の主は、近くの木の根元に立っていた年配の女性だった。 年配と言っても、人間の感覚でそう見えるだけで、実際の年齢はまったく分からない。 長い銀髪を後ろで結び、手には細い杖を持っている。
女性はエルピアを見つめ、それから私を見た。
その目が、わずかに細くなる。
「その者は?」
森の言葉だった。
私はそう理解した。
理解してしまった。
エルピアがわずかに前へ出る。
「森で倒れてた。 魔獣に襲われてた」
「それで、連れてきたの?」
「うん」
女性の眉が少しだけ動いた。
「人間を?」
その言葉に、周囲のざわめきが大きくなった。
人間。
その単語が、村の中を鋭く滑っていく。
私は喉の奥がきゅっと狭くなるのを感じた。
エルピアは小さく頷く。
「リーネは、帰りたいだけ」
「……リーネ」
女性は私の名前を口にした。
それだけなのに、背筋が冷える。
私は思わず頭を下げた。
「あ、あの。 リーネ=レインです。 突然すみません。 私は、王国の魔術学院の試験中に事故でここへ飛ばされてしまって……」
そこまで言った瞬間、周囲が静まり返った。
しまった。
勝手に喋らない。
エルピアの言葉を思い出した時には、もう遅かった。
女性の表情が、はっきりと変わっていた。
恐怖ではない。
怒りでもない。
もっと深い、理解できないものを見る目だった。
「……なぜ」
女性が呟く。
「なぜ、人間が森の言葉を話している」
その言葉で、周囲の空気が一段冷えた。
私は言葉に詰まる。
そうだった。
私は今、普通に話しているつもりだった。 けれど、ここにいるエルフたちには、私の言葉が森の言葉として聞こえている。
人間が森の言葉を話す。
それが、この村にとってどれほど異常なことなのか、私はまだ分かっていなかった。
エルピアが私の前に立つ。
「リーネは、分からずに話してる」
「分からずに?」
「うん。 人間の言葉を話しているつもりみたい」
「そのようなことがあるものか」
女性の声は硬かった。
けれど、その奥にはかすかな震えがあった。
彼女だけではない。 周囲のエルフたちも、私を遠巻きに見ている。
まるで、私がただの迷子ではなく、森に入り込んではならない何かになってしまったみたいだった。
その時、遠くから別の声が響いた。
「何の騒ぎだ」
低く、深い声だった。
村のざわめきが、すっと引いていく。
エルフたちが道を空ける。
その奥から、一人の老人が歩いてきた。
老人。
そう思った。
けれど、人間の老人とは違う。 背筋はまっすぐ伸び、足取りに衰えはない。 長い白銀の髪は背中まで流れ、額には木の枝を編んだような飾りをつけている。
目が、怖かった。
静かなのに、奥に火がある。
その目が、エルピアを見て、次に私を見た。
「エルピア」
「……長」
エルピアの声が、少しだけ小さくなった。
村長。
たぶん、この人がそうなのだろう。
村長は私を見据えたまま、ゆっくり口を開いた。
「その人間から離れなさい」
短い言葉だった。
けれど、命令だった。
エルピアは動かなかった。
「リーネは、危なくない」
「お前は知らない」
村長の声が、少しだけ低くなる。
「人間が何をするのかを」
その言葉に、エルピアの耳がわずかに伏せられた。
私は、何も言えなかった。
昨日まで、旧大戦は教科書の中にある歴史だった。
人間と魔族が争い、長い戦いの末に停戦し、互いの領域を分けた。
授業ではそう習った。
試験に出るなら、年代と主要な戦場を覚えればよかった。
でも、目の前の村長やエルフたちの声は違った。
それは歴史ではなく純然たる記憶。
脳裏にこびりついて忘れられないものだった。
「長」
エルピアが静かに言う。
「リーネは、帰りたいだけ」
「人間は、いつもそう言う」
村長は私を見た。
その視線は冷たかった。
けれど、ただ憎んでいるだけではないように見えた。
警戒。
不信。
それから、長い時間をかけて固まった傷。
「迷っただけだ。 助けてほしいだけだ。 話を聞いてほしいだけだ。 そう言って、かつて人間は森に入った」
周囲のエルフたちが、わずかに目を伏せた。
誰かが杖を握りしめる音がした。
私は唇を噛む。
ここで何か言えば、きっとまた空気を悪くする。
でも黙っていることも怖かった。
言葉は通じている。
なのに、一歩も近づけていない。
むしろ、話せば話すほど警戒される。
これが、断絶の向こう側。
私はそのことを、ようやく実感し始めていた。
「リーネ」
エルピアが小さく私を呼んだ。
振り向かずに、ほんの少しだけ手を横に動かす。
黙っていて。
そう言われているのだと分かった。
私は小さく頷いた。
村長はその様子を見て、さらに目を細める。
「エルピア。 なぜ庇う」
「助けたから」
「それだけか」
「……うん」
エルピアの返事は短かった。
でも、ほんの少しだけ迷いがあった。
村長はそれを見逃さなかったようだった。
「お前は、大戦を知らない」
静かな声だった。
けれど、その一言で周囲の空気が変わった。
エルピアの表情が、わずかに固まる。
「この村で、ただ一人。 お前だけが、あの日の森を知らない」
私は息を呑んだ。
分かっていた。
エルピアが大戦後に生まれた子だということは、聞いていた。
けれど、その事実が村の中でどう扱われているのかを、私はまだ知らなかった。
大戦が終わってから、もう百年近くが経っている。
人間にとっては、十分に昔の出来事だ。
けれど、長く生きるエルフにとって、その百年は遠い昔ではないのかもしれない。
この村のエルフたちは、それを覚えている。
森が焼けた日のことを。
人間が来た日のことを。
失ったもののことを。
そしてエルピアだけが、それを知らない。
村長は、エルピアを責めているようには見えなかった。
むしろ、守ろうとしているようだった。
けれど、その言葉はエルピアを孤独にしていた。
「だからこそ、近づいてはならない」
村長は再び私を見た。
「その人間は、お前の知らぬものを連れてくる」
私は何も言えなかった。
自分が何を連れてきたのかなんて、私自身にも分からない。
ただ帰りたい。
それだけだった。
でも、この村にとって、私はそれだけでは済まない存在らしい。
「長」
エルピアは静かに言った。
「でも、リーネは私の言葉を分かる」
「それが最も危うい」
村長の返答は即座だった。
「人間が森の言葉を話す。 それが偶然であれ、術であれ、放っておけるものではない」
術。
その言葉で、周囲の視線がまた鋭くなる。
私は思わず顔を上げた。
「ち、違います。 私は術なんて使ってません。 本当に、ただ普通に話しているだけで――」
「リーネ」
エルピアの声。
私ははっとして口を閉じた。
またやってしまった。
村長は私をじっと見ていた。
怒鳴るわけでも、近づくわけでもない。
ただ、静かに見ている。
それが一番怖かった。
「……自覚もないのか」
村長が呟く。
そして、少しだけ視線を下げた。
何かを考えているようだった。
長い沈黙の後、村長は周囲のエルフたちへ目を向ける。
「この人間を村の奥へ入れるな」
私は息を止めた。
「ただし、追い出すな。 森の外へ一人で出せば、魔獣の餌になるだけだ」
「長」
「エルピア、お前の小屋へも戻すな。 すでに森の言葉を聞かせすぎている」
エルピアの表情がわずかに動いた。
「じゃあ、リーネは?」
「見張り小屋を使う」
見張り小屋。
その響きだけで、あまり歓迎されていないことが分かる。
いや、最初から歓迎されてはいなかった。
分かっていたことだ。
それでも、胸の奥が少しだけ沈んだ。
「私は……」
声を出しかけて、止める。
言えばこじれる。
今はたぶん、そういう場面だ。
村長は私を見た。
「リーネ=レインと言ったな」
「……はい」
「お前が本当に迷い込んだだけなのか。 それとも、森に害をなすものなのか。 それを見極めるまでは、この村から出すことも、奥へ入れることも許さない」
「私は、帰りたいだけです」
今度は、できるだけ静かに言った。
村長の目がほんの少しだけ細くなる。
「ならば覚えておけ」
村長の声は、森の奥から響くように低かった。
「言葉が通じることと、信じられることは違う」
その一言が、胸に刺さった。
言葉が通じるなら、何とかなるかもしれない。
少しだけ、そんな期待をしていた。
でも、それは甘かった。
言葉は届いている。
それでも、信じてもらえない。
私は初めて、その事実の重さを知った。
「連れていけ」
村長がそう言うと、近くにいた二人のエルフが前へ出た。
武器を向けられたわけではない。
けれど、逃げられる雰囲気でもなかった。
エルピアが一歩踏み出そうとする。
「私も行く」
「ならん」
村長の声がそれを止めた。
「お前は長の家へ来なさい」
「でも」
「エルピア」
その一言だけで、エルピアは黙った。
私はエルピアを見る。
エルピアもこちらを見た。
表情はいつも通り静かだった。
でも、外套の裾を握る指に、少しだけ力が入っているのが見えた。
「リーネ」
「うん」
「変なこと、しないで」
「さすがに今はしないよ」
「たぶんする」
「信用が低い」
こんな状況なのに、少しだけ笑いそうになった。
でも笑えなかった。
エルピアも笑わなかった。
ただ、小さく頷く。
「あとで行く」
「……うん。 待ってる」
そう言うと、私はエルフたちに促されるまま歩き出した。
村の中を通る間、視線が刺さった。
誰も大声を出さない。
誰も私に触れない。
けれど、誰も私から目を離さない。
美しい村だった。
木と共に生きる、静かで優しい光に満ちた村。
でも今の私には、その美しさが少しだけ遠かった。
見張り小屋へ向かう途中、私は一度だけ振り返った。
エルピアは村長のそばに立っていた。
銀色の髪と長い耳。
大戦後、長いあいだ新しい命が生まれなかったこの村で、ようやく生まれたただ一人の子。
その子が、私を見ていた。
何かを言おうとしているようにも見えた。
けれど、その声は届かなかった。
言葉なら、きっと分かるはずなのに。
今は、何も聞こえなかった。




