琥珀色の残滓
赤金横丁の正午時。
石畳を叩く荷馬車の音と、仕事を急ぐ商人たちの怒鳴り声。
その喧騒の中心にある『彷徨える勇者の休息亭』の重い扉を、キロはいつも通り、眠たげな目を擦りながら押し開けた。
「……やあ、ガルバン。いつものやつを」
キロは定位置である最奥の革張り寝椅子に、吸い込まれるように身を沈めた。
服装は昨日と同じ、黒の貫頭衣に細身の黒い穿袴。
昨夜、ビディの熱い指先がその下を這い、白い網長靴下が腰に絡みついていたことなど、微塵も感じさせない、いつもの怠惰な盗賊の姿だ。
「盗賊様のお帰りか。昨夜は遅くまで散歩してたのかい、キロ」
付け台越しに、店主のガルバンが苦笑いしながら麦酒を注ぐ。
キロは片目を細め、悪戯っぽく肩をすくめた。
「まあね。昨夜の月は、独りで寝るには少しばかり眩しすぎたのさ」
その時、酒場の扉が再び開き、清涼な風が吹き込んだ。
店内の荒くれ者たちが一斉に、そして畏怖を込めて動きを止める。
入ってきたのは、大聖堂の意匠を凝らした、清楚で厳格な司教服に身を包んだビディだった。
金髪は一筋の乱れもなく整えられ、その瓜実顔には慈愛と理知の光が宿っている。
昨夜、キロの下で「抱いて下さいな」と熱く喘いでいた、牝の面影は、その毅然とした立ち振る舞いのどこにも見当たらない。
「あら、ガルバンさん。こんにちわ。皆様も、ごきげんよう」
美しく、凛とした声。
ビディは周囲の冒険者たちに優雅に会釈しながら、迷うことなくキロの座る寝椅子へと歩み寄った。
男たちの視線が、憧憬と共に彼女を追う。
「キロさん、昨日は大変でしたわね。冒険者組合への報告書、拝見しましたわ」
ビディはキロの前に立つと、事務的な、それでいてどこか距離感のある微笑を浮かべた。
キロは筒杯を傾けたまま、薄く目を開けて彼女を見上げる。
「司教様自らお出ましとはね。俺みたいな端っこの盗賊に、何か御用かな?」
「ええ。あなたが迷宮から持ち帰った古代の魔石、聖典の解読に必要だと思いまして……。少し詳しくお話を伺えますか?」
ビディはそう言って、当然のようにキロの隣に腰を下ろした。
酒場中の男たちが「羨ましい野郎だ」と心の中で毒づく。
だが、彼らが目にしているのは、高貴な聖女がしがない盗賊に公務を遂行している『平然とした』図だ。
しかし、寝椅子の下。
誰の目にも触れない場所で、ビディの白い足が、キロの脹脛に執拗に絡む。
「(……昨日の今日でどうしたんだいビディ?)」
声には出さない、視線だけの問いかけ。
キロは顔色一つ変えず、麦酒を喉に流し込む。
そして、側卓の下に垂らした自分の左手で、隣にある彼女の、司教服の裾に隠れた膝を、そっとなぞった。
一瞬、ビディの肩が微かに跳ね、頬にほんのりと赤みが差した。
だが彼女は即座に表情を引き締め、手にした書類に目を落とす。
「……それで、キロさん。その石の反応はどうでしたの?」
「そうだね。……手に入れるのは少し骨が折れたが、中身は実に『熱かった』よ。司教様」
キロはわざとらしく口元を緩めた。
周囲から見れば、それは仕事の話に興じる冒険者と司教の姿でしかない。
だが、混じり合う視線の裏側には、昨夜の甘美な秘め事の残熱が、琥珀色の麦酒のように揺らめいていた。
「……ふふ、そうですか。では、詳しい続きは、またいずれ『居心地の良い場所』で伺うことにしましょう」
ビディは優雅に立ち上がると、一礼して酒場を去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、キロは再び深く背もたれに沈み込む。
(「……やれやれ。『またいずれ』ときたか。」)
彼は幸せな溜息をつき、再び怠惰な盗賊として、柔らかい寝椅子の微睡みへと戻っていった。




