天使の勘といつもの昼下がり
ビディが優雅な足取りで階段を上がり、ヴェリティたちの輪に加わった後。
「彷徨える勇者の休息亭」の一階、最奥の寝椅子には、再びそこそこの盗賊であるキロの、締まりのない寝顔が戻っていた。
だが、その平穏は長くは続かなかった。
「――ねえ、キロ」
不意に頭上から降ってきたのは、涼やかだが、どこか鋭い刃のような響きを含んだ声。
キロが薄目を開けると、そこには円卓に腰を下ろし、自慢の長い脚を組み直した「魔剣の天使」ルーシーがいた。
白と黒の連体着衣に包まれた美しい肢体が、窓から差し込む光を弾いている。
「……なんだよ、ルーシー。今、いいところだったんだ。お日様がちょうどいい具合に……」
「あんたとビディ、今さっき何話してたんだい?」
ルーシーは手にした麦酒の筒杯を置くと、身を乗り出してキロの顔を覗き込んだ。
その瞳は、酒場での馬鹿騒ぎを見守る時のそれではなく、迷宮の暗闇で獲物の気配を察知した魔法剣士の鋭利さを帯びている。
「挨拶だよ。聖女様は礼儀正しいからな」
「嘘だね。今のあんたたち、空気が妙に『密』だったよ。言葉にしなくても、何かが通じ合ってるっていうか……。あたしが入り込めないような、嫌に落ち着いた空気さ」
ルーシーはサバサバとした性格で、ドロドロとした情念とは無縁の女だ。
だが、帝都で三本の指に入る剣士としての直感、そしてキロと身体を重ねる女としての勘が、彼ら二人の間に流れた異質な静寂を逃さなかった。
ルーシーは、キロとビディの秘められた関係を知っている唯一の人物である。
知っているからこそ、そういった『秘められた男と女の関係』とは違う『密なる何か』を、敏感に感じ取ったのだ。
「買いかぶりすぎだよ。俺みたいな平凡な盗賊が、あんな高貴な司教様と何を通じ合えるってんだ」
「ふーん……まあ、いいけどさ」
ルーシーはそれ以上深く追求せず、キロの脇腹を高踵靴を履いた足の先で、軽く、だがしつこく突き回した。
「あんた、時々あたしの知らない顔をするだろう? 昨日ヴェリティと迷宮に行った時も、何か隠してたんじゃないのかい? あの魔女様、あんたのこと随分買ってるみたいだし」
「ただの運だよ。俺は逃げ足と罠を見つけるのだけは、得意だからさ……。」
「……ま、いいや。あんたがどんな秘密を持ってようが、あたしには関係ないことだしね」
ルーシーは快活に笑い、キロの頭を乱暴に撫で回した。
彼女にとって、キロが隠し事を持っていようが、ビディと『密なる何か』があろうが、今この瞬間、気の置けない飲み仲間として、あるいは最高に身体の相性が良いお気に入りの男として、目の前にいればそれで良かった。
「でもさ、今夜は空けといてよ!。最近ちょっとご無沙汰じゃない?。あたしを満足させるくらい……愛してよね。」
「へいへい……。俺の体力が底をつくのが先か、あんたがぶっ倒れるのが先か、勝負ってわけだな」
キロが惚けた顔でそう答えると、ルーシーは満足げに露台へと向かった。
去り際、彼女は一瞬だけビディの方を見た。
聖女は相変わらず穏やかにヴェリティと微笑み合っている。
(……やっぱり、あの二人、何かがおかしいね)
ルーシーは心の中でそう呟きながらも、すぐに次の麦酒を注文するべく手を上げた。
階下では、キロが再び静かな眠りへと沈んでいく。
昨夜の戦慄も、聖女の沈黙の労いも、魔法剣士の鋭い勘も、すべてを飲み込んで、赤金横丁の昼下がりは穏やかに過ぎていくのであった。




