聖女の微笑みと沈黙の労い
「彷徨える勇者の休息亭」に差し込む朝の光は、昨夜の惨劇が嘘のように穏やかだった。
いつもの寝椅子に沈み込み、眠たげに目を細めるキロ。
その視線の先では、ヴェリティがルーシーに、帝都の快適さを力説している。
そこへ、凛とした空気を纏ったビディが、大聖堂での早朝の執務を終えて姿を現した。
彼女は露台へ上がる前に、ふらりとキロの座る寝椅子へと歩み寄る。
ヴェリティやルーシーが話に夢中になっている隙を突いた、ほんの一瞬の邂逅。
「おはようございます、キロさん」
「……ああ、おはよう、ビディ慈善司教。早いね」
キロは欠伸をしながら、いつもの「そこそこの盗賊」らしい気の抜けた笑顔を返した。
彼女の瞳は、キロの指先に残る、わずかな——常人には決して感知できない——「戦気」の鋭い残滓を見逃さなかった。
ビディは昨夜、帝都の闇に走った微かな戦慄の震えを、その卓越した魔力と感応力で捉えていたのだ。
そして彼女には分かっていた。その戦慄を誰が覚え、誰を守ったのかを。
ビディは優雅に腰を屈め、キロの耳元に唇を寄せる。
その動作は、傍目には知人に親しげな挨拶をしているようにしか見えない。
「……昨夜は、あちらの方の周りが少し騒がしかったようですわね」
視線すら向けず、言葉だけで露台のヴェリティを指し示す。
キロは身体をほんの一瞬だけ硬くしたが、すぐに弛緩した。
ビディがどこまで把握しているかは知らないが、この女なら、ある程度の事は、もう分かっているのだろう。
「……何のことだい。俺は夕べも、ぐっすり夢の中だったよ」
「ふふ、そういうことにしておきましょう。」
ビディは薄く微笑むと、誰にも聞こえないほどの小声で囁いた。
「案内役をして情がうつられましたか。お疲れ様でした、私のキロ」
その言葉と共に、彼女の手がキロの肩にそっと置かれた。
瞬間、ビディの高位治癒魔法が無詠唱で発動し、昨夜の激闘でキロが感じていた微かな筋肉の疲労を瞬時に溶かしていく。
それは、彼女からの密やかな、そして圧倒的な包容力を伴った労いだった。
ビディはそのまま、何事もなかったかのように背筋を伸ばし、露台の二人のもとへと歩いていく。
「おはようございます、ヴェリティ様。昨夜はよくお休みになれましたか?」
「ええ、ビディ司教! 本当にゆっくり眠れたわ。刺客の心配なんて、馬鹿らしくなっちゃうくらい!」
高笑いするヴェリティの横で、ビディは慈愛に満ちた微笑みを浮かべるのであった。




