魔女の誘い
「……ん、なんだ?」
寝椅子で微睡んでいたそこそこの盗賊は、頬に冷たい感覚を覚えて目を開けた。
目の前には、光沢のある緑色の衣装に包まれた肉感的な肢体と、悪戯っぽく微笑む赤い髪の美女の顔があった。
ヴェリティが、冷えた硝子盃の底をキロの頬に押し当てていたのだ。
「おはよう、お寝坊さん。いい夢は見られたかしら?」
「……ふぁー、うーん。あれ?、お姉さん。誰だい?」
キロは大きな欠伸をしながら体を起こした。
視界の隅では、露台にいるビディとルーシーの視線を感じ取っている。
「古都から来たヴェリティよ。あなた、そこそこ腕が立つんですってね? 人狼が逃げ込んだ経路の再調査をしたいの。案内役として、あなたを指名させてもらうわ」
「勘弁してくれ。俺は今日、一日中ここで昼寝をする予定なんだ。他の、もっとデキる奴を探してくれよ」
キロは心底面倒そうに断ったが、ヴェリティは引かなかった。
彼女はキロの耳元に顔を寄せ、蓮っ葉な調子で囁く。
「あら、そんなこと言わないでよ。なんかあなた、気になるのよね。ゆっくり歩きながら、お話しましょうよ。」
露台では、ルーシーが呆れたようにその光景を眺めていた。
「あーあ、キロのやつ。ヴェリティに捕まっちゃったわね。あの魔女に振り回されて、あいつ今夜は腰を抜かすんじゃない?」
ルーシーは笑いながら麦酒を飲み干した。
彼女にとってキロは気心の知れた、身体の相性も抜群な、お気に入りの男だが、彼が他の女に誘われることに、あまり抵抗を感じなかった。
自由で気高い彼女にとっては、そんな嫉妬や独占欲よりも、今夜また彼と美味い酒を飲めるかどうかの方が重要だったのだ。
一方、ビディは優雅に紅茶碗を皿に戻し、その白皙の指先を合わせた。
「キロさん、折角のお昼寝を邪魔されてお気の毒ですわね。……それにしても、ヴェリティ様は物好きですこと。」
ビディの言葉は冷ややかですらあった。
彼女の心の中には、ヴェリティに対する対抗心など微塵もない。
キロが誰とどこへ行こうとも、彼の魂の深淵に刻まれているのは、神々が紡いだ自分との運命の絆であるという絶対的な確信。
それこそが、彼女を「至高の聖女」たらしめる、力の源泉でもあるのであった。
結局、ヴェリティの執拗な誘い(と、提示された高額な報酬)に折れたキロは、渋々立ち上がった。
「……わかったよ。罠探知と解除、それと道案内だけだ。魔物が出たら、お姉さんが守ってくれよ」
「ええ、もちろんよ。私の火炎魔法で、消し炭にしてあげるわ」
二人は酒場を出て、帝都郊外の北の迷宮へと向かった。
薄暗い迷宮の通路を進みながら、ヴェリティは時折、後ろを歩くキロを振り返る。
キロはわざと足音を立て、いかにも「そこそこの盗賊」らしく、周囲を怯えながら警戒するフリをしていた。
(……やれやれ。これじゃあ昼寝の時間どころか、夕食の時間も怪しいな)
キロは内心で溜息をつく。だが、ヴェリティの背後、暗がりに潜む小さな影の気配を察知した瞬間、彼の目は一瞬だけ超々凄腕の忍者のそれへと変わった。
ヴェリティが気づく前に、彼は足元の小石を密かに蹴り飛ばす。
石は正確に壁に跳ね返り、魔物の注意を逸らした。
「あら、今の音……ネズミかしら?」
「さあね。迷宮にはよくあることだろ」
キロは再び、惚けた顔で歩き出した。魔女との探索は、まだ始まったばかりだった。




