人狼始末
帝都の西、赤金横丁。
そこには、帝都の冒険者なら知らぬ者のいない酒場「彷徨える勇者の休息亭」がある。
煤けた看板をくぐれば、安酒と鉄錆、そして死線を越えてきた者たちの熱気が混ざり合った、この店独特の匂いが鼻を突く。
店の最奥、薄暗い一角にある使い古された革の寝椅子。
そこが、「そこそこの盗賊」、キロの定位置だった。
「……ふわぁ、よく寝た」
黒い長袖の貫頭衣と細身の黒い穿袴と云う冒険者らしからぬ軽い身なりのキロが、気だるげに目をこする。
その横で、見事な容姿を誇る、美貌の魔法剣士「魔剣の天使」ルーシーが筒杯を片手に不敵な笑みを浮かべていた。
「また寝てたのかい、キロ? あんた、いつ見ても緊張感がないねえ」
「いいじゃないか、ルーシー。こんな気持ちの良い日に昼寝ができるって云うのは、この世で一番の贅沢なんだから」
キロはそう言って、甘い顔立ちをさらに緩めた。
暖かい春の風が、開け放った酒場の窓から花の香りを運んでくる。
空は青く澄み渡り、白い綿のような雲が、ところどころに、ふわふわと漂っている。
確かにキロでなくとも、張り詰めた気持ちが、すぐに緩んでしまいそうな好日だ。
そんな二人のもとへ、酒場の主人ガルバンが、重い足取りで近づいてきた。
「おい、お二人さん。呑気な話はそこまでだ。……例の『噂』、聞いたか?」
ガルバンの言葉に、酒場全体が少しだけ静まり返る。
「噂って? 迷宮の人狼のやつ?」
ルーシーが眉を寄せた。
今、冒険者の間では三つの不吉な噂が、影のように這いずり回っている。
一つ目は未帰還のパーティー「青い樫」の噂。数日前、帝都近郊の地下迷宮に向かった駆け出しパーティーが、予定を過ぎても戻っていない。
二つ目は迷宮の人狼の噂。普段、浅い階層には出ないはずの人狼が、迷宮の各所で目撃されている。
三つ目は古都からの逃亡者の噂。帝都から遠く離れた古都の有力トライブ「金色の月光団」が追っていた、凶悪な五匹若しくは六匹の魔物の群れが、この帝都近郊の迷宮に潜り込んだというものだ。
「『青い樫』のハンスたちは、まだ若いが、堅実な冒険者パーティーだった」
ガルバンは低い声で続けた。
「だが、もし古都から来た魔物の群れが相手なら……あいつらじゃあ、ひとたまりもねえ」
その時、酒場の扉が勢いよく開いた。
現れたのは、全身泥まみれで息を切らした一人の男。中堅パーティー「銀の針」の頭目、カイルだった。
「だ、誰か……腕の立つ助っ人はいないか! 第三階層で『閃光の槌』が人狼に囲まれてる! 俺たちだけじゃ数が足りねえ!」
酒場が騒然となる。ルーシーが即座に立ち上がった。
「あいつら、まだ新人だろう! 私が行くよ。キロ、あんたはどうする?」
キロは少しだけ面倒そうに頭を掻いたが、ふっと目を細めた。
「……弱ったな。助っ人に雇ってくれそうな新人パーティーが減ると、俺の商売あがったりなんだよ。鍵開けと罠解除。それから、戦闘は無しだ。それでいいなら、付いていくよ」
「相変わらずの条件だね。いいよ、あんたの勘と幸運を信用してやるよ!」
湿った石壁の向こうから、獣の唸り声と、金属がぶつかり合う音が響いてくる。
「くそっ、多すぎる! なんだこの数は!」
「閃光の槌」の戦士エイモスが、盾を構えながら叫ぶ。
彼らの周囲を、背丈が七尺近くある、筋骨隆々の人狼たちが包囲していた。
通常の人狼より一回り大きく、瞳には異常な殺意が宿っている。
「ルーシー、右だ!」
キロの声と同時に、ルーシーの長剣が閃いた。
「はあっ!」
業火のような一撃が、飛びかかろうとした人狼の喉元を突く。
しかし、敵は怯まない。五匹……いや、六匹。噂通りの群れだ。
キロは壁際に身を寄せ、罠の探知を装いながら、冷静に戦況を観察していた。
(……まずいな。ルーシーと「銀の針」がいても、この数は捌ききれない。新人たちが恐慌をきたせば、確実に死人が出る)
キロは「そこそこ腕の立つ盗賊」のふりを続けながら、密かに右手を動かした。
指先から透明な気が糸のように伸びる。
「(忍法・影手繰り)」
一匹の人狼が、エイモスの背後から牙を剥いて跳びかかった瞬間、その足が、まるで見えない縄に引っかかったかのように不自然に崩れた。
「な、なんだっ!?」
エイモスが驚きながらも、よろめいた敵の胸元に剣を突き立てる。
「(……よし、次はあっちだ)」
キロは均衡を崩したふりをして、別の狼の視界を遮るように移動した。
その拍子に、こっそりと拾った小石を、指弾で人狼の眼球へと弾き飛ばす。
「グアッ!?」
目を潰された狼が悶絶し、そこにカイルの斧が振り下ろされた。
誰も気づかない。
すべては運良く、冒険者たちが有利に進んでいるように演出されていた。
しかし、最後の一匹───ひと際大きな人狼が、咆哮を上げてルーシーに襲いかかった。
「しまっ……!」
ルーシーの足元に、迷宮の落とし穴の端が露出していた。
彼女が体勢を崩した刹那、人狼の鋭い爪が彼女の胸元に迫る。
キロが、真の実力を解放しようと足を踏み出した、その時。
迷宮の闇を切り裂く、圧倒的な「光」が溢れ出した。
「――神々の名において、その穢れを浄化せん」
凛とした、清廉な声。
通路の奥から現れたのは、純白の司教服に身を包んだ絶世の美女。
ビディだった。
彼女の手から放たれた高位の神聖魔術が、巨大な人狼を光の檻に閉じ込める。
一瞬で焼かれ、灰へと変わる怪物。
「ビディ!? なんで大聖堂の司教様がこんなところに……」
ルーシーが目を丸くする。
ビディは気品に満ちた仕草で髪を払い、冒険者たちへ微笑みかけた。
「『青い樫』の皆様を救出した帰りに、騒がしい音が聞こえましたので。……怪我はありませんか?」
彼女達の背後には、助け出された「青い樫」の面々がいた。
全員無事だ。
安堵の溜め息が漏れる中、ビディの視線が、壁際で「怖かった」と言わんばかりに震えるふりをしているキロへと向けられた。
二人の視線が、一瞬だけ交差する。
ビディの瞳には、深い慈愛と、そして彼だけが理解できる「呆れ」の色が含まれていた。
(……また、そうやって正体を隠して……キロ……)
キロは小さく肩をすくめ、声を出さずに返した。
「(助かったよ、お姫様)」
その夜。「彷徨える勇者の休息亭」は、未曾有の盛り上がりを見せていた。
人狼の脅威は去り、行方不明だった「青い樫」も無事に帰還したのだ。
二階の露台では、ビディとルーシーが向かい合ってお茶を飲んでいた。
「今日は本当に助かったわ、ビディ。あんたが来なきゃ、私もあいつらも負傷してたかもしれない」
ルーシーが少し悔しそうに、だが晴れやかな顔で言う。
「いえ、運が良かったのです。……それに、あの場には他にも、守ってくれる『何か』がいたようですから」
ビディは階下の寝椅子で、いつものように居眠りを始めたキロを見下ろしながら、優しく微笑んだ。
「守ってくれる『何か』? ああ、カイルたち?」
「ええ、そういうことにしておきましょう」
ビディは確信していた。
世界がどれほど混沌に包まれようとも、あの男がこの街で昼寝を続けている限り、自分たちの平和は守られるのだと。




