雨の午後の語らい
帝都に降り続く午後の雨は、赤金横丁の喧騒を優しく包んでいました。
『彷徨える勇者の休息亭』の重厚な扉を叩く雨音だけが、心地よい拍子を刻んでいます。
客足はまばらで、店主のガルバンも暇そうに付け台で煙管を燻らせていました。
看板娘のミラは、隅の円卓で熱心に帳面をつけています。
いつもの最奥の寝椅子。
窓から差し込む光は鈍い灰色でしたが、そこには静謐で濃密な空気が流れていました。
「……雨の日は、迷宮の湿気も酷くて敵わないわ」
ルーシーが、黒絹の肩掛けを寝椅子の背にかけ、麦酒の筒杯を傾けました。
彼女はいつもの勝気な表情を少し和らげ、物思いにふけるような瞳で窓の外を眺めています。
「ルーシー。湿気は魔法の媒介となる高次元素の流れを乱しますから、前衛の方にとっても注意が必要な日ですわね」
隣に座るビディが、今日は休息のために纏っている私服の連裳を整えながら、穏やかに応じました。
彼女の手元には、古びた羊皮紙の魔道書が置かれています。
二人の間に挟まれたキロは、いつも通り気怠げに目を閉じていましたが、ふと目を開けて呟きました。
「……俺の故郷ではね、雨の日は『恵みの時』とも言うんだ。すべての汚れを洗い流し、静寂の中で自分を見つめ直す時間だと」
「あんたの故郷……たしか日夲とか言ったかしら」
ルーシーが身を乗り出しました。
「ずっと気になってたのよ。あんた、ただの『そこそこ腕の立つ盗賊』にしては、時々驚くほど博識じゃない。……どっかの名家の御曹司だって噂、あながち嘘じゃないんでしょ?」
「……さてね。ただ、教養とは身を守る武器にあらず、心を豊かにする糧なり。そう教わって育っただけだよ」
キロは惚けたように笑い、視線をビディへ向けました。
「ビディもそうだろう? 大魔法使いの最後の弟子として、術理だけでなく、世界の成り立ちについても深く学んできたはずだ」
ビディは静かに本を閉じ、気品ある動作で頷きました。
「ええ。知識は神々が人間に与えた唯一の灯火です。……でも、キロさん。私が学んだ膨大な真理よりも、貴方がふとした時に見せる、その達観した視点の方が、ずっと謎めいていて興味深いですわ」
ビディの瞳に、ほんの一瞬だけ、いつかの情事の熱を孕んだ熾火が宿りました。
しかし、それは瞬き一つで、知的な好奇心という完璧な仮面の下に隠されます。
「……なんだか難しい話になっちゃったわね。あたしなんて、子供の頃から、剣技は別として、礼儀と宮廷作法ばかり叩き込まれてきたけど……今のこの何でもない時間が、一番贅沢に感じるわ」
ルーシーが満足げに背伸びをしました。
連体着衣がしなやかに彼女の肢体を強調します。
三人はそれ以上、多くを語りませんでした。
雨音に包まれた酒場の片隅で、帝都が誇る美女二人と、怠け者の盗賊が一人。
怠惰な薄茶色の瞳と、互いへの秘めたる想いが交錯して、静かな時間が溶けていきます。
キロにとって、己の素性を追求されることもなく、ただ一人の男として受け入れられているこの安らぎこそが、彼がこの都に留まり続ける大きな理由でした。




