9 「橘さんの恋人」
とある昼下がり、綾女と共に喫茶店の消耗品を買いに街へと繰り出していれば……珍しい組み合わせに出会った。
「あっ」
「っ!」
俺の隣を歩いていた綾女が笑顔と共に声を上げれば、それに気付いた向こうもパッと笑みを浮かべる。
光の加減によっては青みがかっても見えるセミロングの黒髪。静かな湖畔を思わせる凪いだ瞳。肩から提がる、革製のブックカバーに収められたスケッチブック。
俺と綾女の級友、失声症を患う少女……橘愛。
そして──、
「安心しろ。俺と綾女……昨年に顔を合わせ、互いの事情を知る者以外はここにおらん」
「……」
──瞬きの間に土壁際へと移動し、忍者よろしく風景と溶け込む柄付きの布で己の存在を隠そうとする者。
「……いぢめない?」
「三十一歳のおっさんが瞳を潤ませるな気色の悪い」
「若者のノリに付いていこうとするおじさんにチクチク言葉使わないでくんない?」
まるで"まじっくしょー"のように幕を下ろし、その男は姿を表す。
髪型も顔も、何も変哲のない年相応の顔立ち。背格好。仕事中でもあるまいに黒の背広を着込む様はこの繁華街にて溶け込んでいるようで、ある意味この夏場に悪目立ちはしていようが……その橘の花を象ったネクタイピンは、どこか誇らしく輝いて見える。
声には大人としての年輪たる落ち着きと軽々な親しみを不思議と同居させ、微笑みには社会人としての労苦と面の皮の厚みを感じさせる男。
橘愛の恋人──新藤優だ。
この男とは去年の夏、綾女の問題に際し、特に喫茶店の営業や事後処理に関して助言を聞いて以来だ。その時に、俺と綾女は『橘が社会人の男と年の差恋愛をしている』と知った。俺と綾女という友を信頼して事情を話し、その上に手を差し伸べてくれた橘にはこの悪鬼ですら感服したものだ。
「ふむ……」
女子高生と社会人の男。道ならぬ恋路を歩む二人を、こうして往来で見るのは本当に珍しい。興味があるな。
久しく見ていなかった級友との親交を温めがてら、少々ちょっかいでもかけてみるか。
俺と綾女、そして橘と新藤は通行の邪魔にならぬよう壁際に寄り、井戸端会議の姿勢を取り話し始めた。
「珍しいではないか、橘。お前の騎士殿が表に出てくるとは」
「騎士て……あの、年甲斐もないしマジ恥ずかしいんで……」
「……(にっこり)」
「橘は嬉しそうだぞ」
「この姫さん、俺が苦しんでるの見るのが趣味なんすよ。いてっ」
橘愛を『姫さん』と呼ぶ三十越えのオヤジなどとっくに痛々しいであろうに、何が不服なのか。そして早速、頬を膨らませた橘がハリセンで新藤をシバくという惚気た姿を見せつけられてしまった。
そんな姿に苦笑を漏らす綾女が、頬をかきつつ言葉を継ぐ。
「でも、どうして? この辺、うちの生徒も結構利用するから危ないよ?」
「……」
ここで橘が説明すべく、スケッチブックに言葉を記し始める。彼女と対話をするには、この独特の間を許容しなければならない。者によっては、この沈黙に耐えきれぬせっかちな人間とていよう。
「……」
チラリと、新藤を観察する。一生懸命、自分なりの言葉を綴る少女を見るその目を。
「……」
その瞳には、ハンデを背負う者に対する憐憫でも、暑苦しい応援の炎でもなく……ただただ、凪があるのみだった。どこまでも平熱の、泰然とした瞳だ。
過剰な同情は、時に暴力性を孕む。この男の趣味は『人助け』と聞く。ゆえにこの沈黙の少女か何を求めているのかも、その経験からして知っているのだろう。主だった人間が、そして埒外の存在たる我等とてそうであるように。橘愛もまた『普通』を欲する者であるということだ。それをこの男は、自然に与えている。まぁ我が友の手前、甘く採点し合格としていいだろう。
そうして俺が鼻を鳴らし、綾女がニコニコし、新藤が自然と待っていれば、文言を書き終えた橘が一つコクリと頷いて紙面をこちらに向けた。
『彼の実家に連れていってもらうところだったんです。それで駅前を通る必要がありまして』
「じ、実家に……!」
わァ、と年頃の綾女がときめく。俺は甚だ疑問だが。
「……時期尚早では。いまだ女子高生の身の上で、なんと言って家の敷居を跨ぐのだ」
『……まぁ、大丈夫なんじゃないですか?』
特攻とは恐れ入る。
ギロリと睨み大人へ責任を問えば、その男は頭を痛そうに押さえて吐息などついている。
「愛ちゃ~ん? 遠目から見せるだけっておじさん言ったよね? 宿は近くの旅館にするって……」
「……(ぷいっ)」
「これですよ……」
どうやら尻に敷かれているらしいな。この実家への旅路も、相当に橘が粘り強行したものであることが二人のやり取りから伺えた。酒上家家訓『恋する乙女は超特急』だと俺の妹も言っている。
だがこの時点で、俺は橘のもう一つの目論見に気付いた。この強行を成人男性に曲がりなりにも認めさせた、もう一つの目論見を。
「さては橘。この者の元恋人の墓参りにでも行くつもりだろう」
「っ!」
「うお……」
当たったらしい。それはこの男も、危険を冒してまで実家に連れていこうとするわけだ。
──この新藤には、昔恋人がいた。だがそれを早々に亡くしたゆえ、趣味を『人助け』とまでし……日々、徳を積んでいるのだ。
死した後に──愛しい者と再会するために。それも胸を張って『生き抜いた』と言えるほどに、多くの思い出話を引っ提げて。それこそが若くして命を亡くした者への手向けとなると信じ……厳しい現実に対する逃避の面もあろうがな。
そんな自分勝手な男のワガママに付き合うどころか、それを尊重し墓参りまで申し込むというのだ。橘愛の度量は計り知れない。これを断るような男は、この少女と対等でいる資格がない。男の格が下がるというものだ。
「やだ愛ちゃん……俺の事情喋りすぎ……」
「っ、っ」
少し物申したげな新藤に、橘が慌てて首を振っている。橘が個人の事情を漏らしたと思ったのだろう。
だが俺は牙を見せるよう不敵に笑った。
「いいや、橘は喋っておらん。俺には独自の情報網がある」
「和服の兄ちゃんが言うと洒落になんねぇ~」
頬をひくつかせる新藤に肩を揺らす。役者め。
覚えているぞ。去年の夏、顔合わせの際に、この男は俺を一人路地裏へと連れ出した。
そうして──、
『あなたが何者かは存じ上げません。しかしどうか、橘愛さんには手を出さないでください』
硬いコンクリートに頭を擦り付け、愛する女への助命を乞うたのだ。
この男は普通の"さらりーまん"だ。しかし年がら年中人助けなどしていれば……"不可思議な現象に困る者"に行き着くこともあるだろう。
こやつは、そうした存在が人知れずいることを知っていた。そして最悪の悪鬼が、愛する女の隣にいることを知った。
そんな男が取った手段は──懇願だった。
再び愛する女を失うかもしれぬという恐怖に震えながらも、一対一で対峙する男としてのいじらしい意地。
そんな弱き者の姿を見て……俺は笑ったものだ。正体を明かすつもりはなかったというのに。
『……貴様がこちらを学生として扱えば、俺もそうした態度のままでいた。だが俺を悪鬼と見て対峙するのならば……それ相応の振る舞いをするぞ』
『っ、もしかして、薮蛇だったかしらん……?』
『今更おちゃらけても遅い。とはいえ、さてどうしたものかな』
『女子高生に呼ばれて来ただけのおじさんをいじめぬんで……』
『ああ、そうだ。ならば一つ問いに答えてもらおう』
『実は姫さんの尻に敷かれるの満更でもないと思ってる』
『うるさい』
愛する者の尻に敷かれて嬉しくない男などいるものか。
『俺が橘を治してやると言ったら、貴様はどうする?』
『──』
昏い路地裏に沈黙が満ちる。鬼は闇を背に、日向にいる男をいざなった。
目を見開き、逡巡を見せる橘の恋人。そうしてしばらくの沈黙の後に──、
『……いや、やめとくわ』
首をゆっくりと横に振った。
『理由を聞いても?』
『一方にメリットしかない話なんて、社会じゃ詐欺師しか使わないのよ。それに……』
『む?』
『──子どもが、自分の力で頑張るって言ってんだ。ならそれを見守るのも、大人の務めだと俺は思ってる』
『ククク……』
──嘘つきめ。
愛しい者のためならば、どのような手段も厭わない生き方をしてきておいてよく言う。
本当は真っ先に、この話に飛び付きたいだろう。安いものだと言って、己を犠牲にしたいだろう。
『人助けをする』というのは、『己が身を窮地に立たせること』とほぼ同義。
死した女を想い、あの世を夢見る男が。なぜ己を窮地に立たせる? そんなものは決まっている。
意識しているのか、それとも無意識であろうが──死にたいのだ。生きる理由を向こう側に置いた者はな。
だが──悪鬼が嘲笑うのを見て、男は肩を竦めて告げた。
『あと、そういうのはもうやめたんだ』
『……』
『俺が傷付くと、傷付く人がいる。あの子にはもう傷付いてほしくないんだ。だからまぁ、なんだ……そういうのは最後の手段ってことで』
『……ふん。貴様、千載一遇の機会をふいにしたぞ』
『そうかい?』
そうして男は悪鬼に、まるで悪童のような笑みを向けたのだった。
『あんまナメんなよ、うちの姫さんをよ』
──そうしたやり取りがあったことを橘は知らず、男の袖を引っ張る。
「ん? ああもう電車の時間か。それじゃあ、今後も橘愛さんをご贔屓にってことで」
「ふふ、はい♪ じゃあね橘さん! また二学期に!」
「 b 」
グッと親指を立てた橘は、駅方面へと歩いていく。恋する乙女の新たなる戦場に向かって。戦の鬼として健闘を祈る。
「それじゃ、私達も……あ、ごめんお母さんから電話が……もしもし?」
買い物メモへの書き忘れでもあったのだろう、綾女が義母上の対応をすべく後ろを向く。
ああ、ちょうどいい。俺はよく晴れた夏の空……その一点に視線を向け、言葉を投げた。
「それにしても、覗き見をしていてよいのか元カノ殿。あの男は、貴様に語る物語を積み上げている最中だそうだが」
『私、ネタバレオッケーなタイプの女の子だから大丈夫だよ♪』
──長い黒髪を靡かせ、病人服をフワフワと漂わせる女幽霊。
その女は駅構内へ消える二つの背中を見送りながら、クスクスと笑って明るく言う。
『ま、一年に一回の浮気チェックみたいなものだから』
「それはそれは」
今はお盆だ。死後の世界のカラクリは知らぬが、この季節にはこういった手合いがたまに出る。悪霊か守護霊かは知らんがな。そしてこの女は、先にも言った『独自の情報網』そのもの。去年に見かけ、話を聞いていたのだ。名は確か、ユイと言ったか。
どこぞの屋上の幽霊のような"えねるぎっしゅ"ささえ見せる女幽霊は、指を立て『それとっ』とこちらに釘を刺してきた。その頬は不満そうに膨らんでいる。
『私を元カノって呼ばないように』
「ほう、なぜ?」
『私──彼と別れたつもりありませんから』
「ク、ククク、ハハハハハハ……!」
『うわっ、失礼な人! べー! じゃあね悪い人!』
そうしてフワフワと浮きながら、女幽霊は二人の後を追って去っていく。悪霊めが。
それを肩を震わせて見送っていれば、電話を終えた綾女が不思議そうにこちらを見上げていた。
「ごめんお待たせ~……ってあれ? 刃君、誰かいた?」
「ああ、いや……」
二人の女に挟まれる、哀れな男を想う。
「なに。奴は死んでからの方が大変そうだと、そう思っただけだ」
「う、うん……?」
死は時に、安息足り得ない。苦労をするぞ、あれらは。
「ククク……」
天の国に行く術を見つけた暁には、あの三人をからかいにでも行くとするか。




