32 「機嫌が悪い日(?)の姉上」
姉上の機嫌が悪い。
「何したのジン。私、知~らない」
「い、妹はお庭で修行を……」
「あっ、お付き合いします刀花様!」
「担い手の征くところに聖剣在り……先輩、早く謝っておけ」
その気配を敏感に察知した屋敷の面々は、食後の食器を洗い場へと運び、そそくさとこの場を去っていく。なぜか満場一致で俺のせいということにしながら。
だがこの弟、トンと心当たりなどない。とはいえ姉上の機嫌が悪い時は、困ったことに大方俺が原因ではあるのだが。
「……」
「……」
無言のままシンクに向かう姉弟の間に、カチャカチャと皿洗いの音のみが響く。
こういった時、姉上は不機嫌の理由を自ら明かさない。早々に答え合わせなどしては、その者にとっての学びにならないからだ。この学習方法は、主に馬鹿な弟に対してのみ適用される。手厳しいことだ。
視線も合わせず、手渡される食器の水気を拭きながら思案を巡らせる。たとえ纏う空気が悪かろうと、簡単な家事における連携などは以心伝心の姉弟であった。
(ふーむ)
原因を探るにしても、彼女の不機嫌さがまずどの程度の深度であるかを知るべきだろう。
というわけで、
「じぃ~……」
「な、なんですか急に見つめるなど……」
皿洗いを終えたのを見計らい、至近距離にて彼女の顔色を窺う。ムスッとしていても絵になる姉だ。
「今日も綺麗だな、姉上」
「っ、と、当然です。刀花ちゃんの姉たる者、常に恥ずかしくない美しさを保たねば」
急な賛辞に恥じらいながらも、胸に手を当てる姉上はいつも通り自信満々である。どうやらお肌の調子が悪いだの、ニキビができただのといったお肌のトラブルが原因ではなさそうだ。ならば俺がやはり原因なのか……?
「姉上」
「な、なんですか? 先程から近い……」
「口付けをしていいか」
「……そういったことは、黙ってすべきでは」
「姉上の嫌がることはしたくないのでな。それで?」
「『黙ってすべきでは』と言いましたよ、お姉ちゃんは」
「では、失礼して」
「あ……ん……」
なるほど、思ったより機嫌は悪くないらしい。不機嫌というほどではなく、拗ねているといったところか。
小さな肩に手を乗せ、幾度か音を立てて唇を吸い……見つめ合う。潤んだ深淵の瞳はゾッとするほどの色香を放ち弟の思考力を奪おうとするが、俺は努めて頭を振り、思考を続けた。
「さて、さて。我が麗しの姉上におかれては、なぜ斯様に拗ねておられるのか」
「……さて、なぜでしょうね?」
深刻でなさそうな雰囲気になぞって俺が軽く言葉を放てば、姉上もまた試すように片眉をピクリと上げる。
「ふむ。俺に口付けを許すあたり、実は弟が原因ではないのでは──」
「間違いなくお前が原因ではありますが」
そうなのか……。
内心で少しドキリとしつつ、食器乾燥機を起動しながら唸る。
「しかしな。常に実直を旨とするこの無双の戦鬼、姉上の機嫌を損ねることに心当たりなど」
「ムス……」
頬っぺたを膨らませるお姉ちゃんは問答無用で可愛い。ゆえにその原因も絶対に可愛らしいものであると確信した。彼女がその原因を明かさぬ理由の一つに、『姉として恥ずかしいから言わない』というものが往々にしてあることも弟は知っているのだ。
「ククク……」
「意地の悪い笑い方……」
ならば彼女の愛する男として、その原因を取り除いてやらねば男が廃る。きっとこのお姉ちゃんを、数刻後には笑顔にしてみせる!
「あ、もう……甘えんぼ……」
「ふ~む」
彼女の背後に回り、肉付きのいい身体をすっぽりと胸の内に収めながら唸る。急に抱き留められた姉上は何かしら言いたげにしていたが、最後には「もう……」と吐息をこぼし、こちらの腕をポンポンと撫でるのみであった。
互いの体温を交換する間に、直近で変わったことなどなかったかと思考を走らせる。昨日といえば、姉上はガーネットとの食べ歩きデートをしたと聞くが。その最中、なんぞ要らぬ情報でもガーネットに流し込まれたか? それとも……。
「靴磨きのついでに、姉上の草履の香りをこっそり嗜んでいたからか?」
「なんて気持ちが悪いのでしょう」
しまった、墓穴を掘った。さすがは深謀遠慮の姉上だな……まんまと嵌められたわ。
じっとりとした視線を向けられながら、しかしその頭頂部から立ち上る白檀のような高貴な香りをしっかりと堪能しつつ……俺は咳払いし、次案を告げた。
「それとも、近頃あまり陥没乳頭への按摩をしてやれていないからか」
「ち、違います。人を欲求不満のように言うのではありません」
「気のせいではないと思うのだが、以前より増して乳房が大きくなっていないか? 按摩を施し始めしばらく経つというのに、いまだ隠れているのは、やはり俺が日々揉み育てているから──」
「ぴゃいっ!」
妙な鳴き声と共に手を叩かれてしまった。だが和服越しにも分かるその豊かな膨らみの成長は事実だと思う。そろそろJを越えるか……。
俺の手の甲をつねりながら、姉上はチクリと言葉で刺してくる。
「まったく。叩けば埃が出るとはこのことですね」
「あまり綺麗な身の上をしておらん男だ、出るのが埃程度なら可愛いものだろう」
「ああ言えばこう言うのですから……そんな風に育てた覚えはありませんよ」
「だが賢き姉上にはある程度、頭より先に身体が動く男の方が相性がよいと俺は思う。大和撫子ゆえ、時には引っ張られたいだろう。このように、少し強引なくらいに……な」
「あ、ん……またそうやって誤魔化して。悪い殿方……」
身動きできないほどに強く抱き締めれば、姉上は体温を上げ、こちらに体重を預ける。生まれながらにして頼れる者のいなかった姉上だ。こうして好いた異性に引っ張られると、つい甘えた態度が出てしまう可愛いお姉ちゃんなのであった。
「ふーむ、となるとやはりガーネットに何か吹き込まれたか?」
「さて、さて?」
分かりやすく惚ける姉上。
ガーネットに何かを言われ、俺に対して拗ねる……となると、俺がガーネットに対して何かをして、姉上にはまだしていない何かがあったといったところか? そのようなこと……はっ。
「姉上……これを着てほしい」
「なぜ袖からアイドル衣装が出てくるのですか?」
「姉上も、時にはこうした洋服が着たいのかと」
「……似合いませんよ。それに、このサイズはキラちゃんのようなスラリとしたスタイルだからこそ映えるのであり……」
「いや、絶対に似合う。俺が保証する。むしろそれがいい。絶対に可愛らしい。姉上だからこそ"良い"のだ。俺には分かる」
「必死すぎますよ……こ、こほん。まぁ、我が弟がそこまで言うのでしたら、姉心ゆえ……」
ムニャムニャ言って頬を染めつつも、そっと受け取ってくれる姉上が俺は好きだ。この衣装を夜に着てくれようものなら、俺はきっと間抜けなお猿さんになってしまう……。
ムチッとした肉体にパツッとしたアイドル衣装を身に纏う姉上を夢想していれば。彼女はやれやれとかぶりを振って、弟に抱き締められながら足をゆっくりと動かす。導くように。
「さて。晩御飯は、何にいたしましょうかね?」
「む?」
そうして行き着く先は、ブルームフィールド邸が誇る巨大冷蔵庫の前。昼食を終えたばかりで、やや早急にも思えるが……?
首を傾げる間にも、姉上は冷蔵庫の扉を開く。よく冷えた食材がズラリと並び、調理される時を今か今かと待っていた。
「ふむ。今晩の献立は、お前が決めてよいですよ?」
「俺がか?」
日々の栄養も緻密に計算している姉上にしては珍しい提案だ。
「ふぅむ……?」
俺が提案するからには、料理もまた俺が主体となってせねばなるまい。となると、俺程度でも作れる献立を考えねばならんが……うーむ、野菜や卵も潤沢にある。む? しかし肉は合挽き肉ばかりだな。なんだこの偏りようは……まるで『ハンバーグを作れ』と言わんばかりの──むむっ。
「姉上」
「はい、はい」
「……ハンバーグは、好きか?」
「存じ上げているはずですが」
「俺が以前、ガーネットに『惑星をも砕く握力で捏ねた戦鬼特製ハンバーグ』を振る舞ったことを聞いたか?」
「さぁ?」
「……」
「……クス、クス♪」
……なるほど。
「では僭越ながら今晩は、戦鬼特製手ごねハンバーグを馳走するとしよう」
「おや、おや。それは楽しみですね?」
素直に『弟の作ったハンバーグが食べてみたい』、『キラちゃんだけズルい』とは言えぬ、ハンバーグには目のない控え目なお姉ちゃんのため。
「よし……」
俺は腕まくりをして、夜のための仕込みに早速取りかかる。
「クスクス……♡」
そんな弟の姿を、姉上はとても嬉しそうに眺める。
そうして出来上がる頃には、拗ねた様子など欠片も無くなっており──、
「「むふ~♪」」
夕飯の席では妹と一緒に、それはそれは幸せそうにハンバーグを頬張るのだった……まったく、可愛いお姉ちゃんめ。




