25 「マ?」
岩肌を模した壁に、彩り豊かな突起が所狭しと配置されている。
「……」
駅近の大型"れじゃー"施設内、その一画にて。
夏休み中ゆえか、それなりに多くの人間共がこの"れじゃー"を楽しむべくカサカサと壁を登っている。
その様を害虫を見る目で眺める俺に向け、横合いからカタコトながらも、甘く妖艶な声がかけられた。
「今日は来てくれてありがとウ、無双の戦鬼」
「それは構わんのだが……」
人口密度も高いゆえ、我が異名を呟いたところで喧騒に消えていく。
視線を切ってそちらを見れば、セーラー服とは異なり"すぽーてぃ"な衣装に身を包む異国の少女の姿があった。
白に近い銀の長髪は水のように背へと流れ、感情の起伏に乏しい相貌は精巧な人形を思わせる。だがサファイアを思わせる碧眼は僅かにだがイタズラ好きの猫のように細められ、こちらの反応を上目遣いで伺っていた。
そんな女子高生離れした美貌と、脚や腕などは細身ながらも一部は豊満な体躯を持つ少女。リゼットと刀花の同級生であり、露国からやってきた水の精と人間の半人半妖にして諜報員──イレーナ=タケジロヴナ=シナズガワだ。
……今日は下級生組であるリゼット、刀花、そして俺達を呼びつけたこのイレーナと共に、街中にある大型"れじゃー"施設へ遊びに来ていた。この三人は放課後などにも遊びに行ったりする仲なのだが……。
「俺も来てよかったのか。そしてこの珍妙な区画はなんだ?」
「もちろン。なぜならナンパ避けに丁度いイ。ほら、私達ってビックリするほど美少女だかラ……」
「自分で言うのもどうなのよ……」
「でも否定はしないんですねリゼットさん」
「自分から言わないだけで事実ではあるし」
ふぅ、と悩ましげに吐息をつくイレーナは確かに色白でモデルが如き美少女であるが、傍に立つリゼットは少々物申したげだった。自己主張の強いイレーナに対しては、恐らくいつもそういうノリなのだろう。
既に仲良さげな下級生三人組を前に微笑ましい気持ちとなりつつ、俺は「して」と改めて問う。
「この区画は……いや、この者らはいったい何をしている? 壁を這うなど。ゴキブリの物真似を練習するにしては、忘年会の時期にも早かろうに」
「初っ端から全世界のボルダーに喧嘩売るのやめなさいよ」
「知らないノ? ボルダリング。私、結構好きなんダ」
「……壁を登ることが好きなのか?」
「壁を登ることだけでも色々あるからネ。ルートを計算しテ、全身の筋肉を使っテ……そうして難易度の高いルートを踏破できた時ハ、とても達成感があル」
「そういうものか……」
実感はできんが、今からこれで遊ぼうという時に水は差すまい。身体を動かすことが大好きな刀花など、琥珀色の瞳をキラキラワクワクとさせておるからな。一方で体育嫌いなリゼットは憂鬱そうだが。
ちなみにこの二人も、既に動きやすそうな運動着となっている。学生らしく健康的でよい。特に刀花の肉付きのよい腰回りにピッタリと張り付いたスパッツや、リゼットの短パンから伸びる脚線美と、それを引き立てるタイツなどが……うむ、よいな。
「なるほど。楽しいな、"ぼるだりんぐ"というのは」
「まだ始めてもないんだけド」
「兄さん、私と競争しましょう!」
「私もやるのこれ……?」
「お嬢が言ったんじゃン、夏休み明ける前にちょっと痩せたいっテ。自堕落な生活を送ってるからそうなル。模範的諜報員で運動も欠かさない美人スパイちゃんを見習ってほしイ。報告書はたまに欠かすけド」
「い、異世界グルメでちょっと食べ過ぎただけよ! あと模範的諜報員って対象が近くにいる時そういうこと言わないと思う。報告もちゃんとしなさいよ」
「スパイさんに『ちゃんと報告して』って言うのは正しいことなのでしょうか……」
「ならちゃんと報告できるような情報を提供してほしイ。『対象は夏期休暇中、異世界に行って美食を堪能していたようでス』なんて言えば、私は本国に連れ戻されて病院に送られると思ウ」
「いいんじゃない別に。日本人の血が半分入ってるくせに私より日本語下手なんだから」
「うるさいお嬢。これでもキャラが立つよう日々工夫してるのニ、人の努力を笑うとかサイテー。これが今の子どもの水準なラ、この国の未来を憂ウ」
「これ以上個性増やしたらあなた東名高速道路みたいになっちゃうでしょ。あとイギリス人見て日本の未来を心配されても迷惑でしょ日本人が」
「すみませんもう登っちゃっていいですか?」
リゼットとイレーナが言い合い、刀花が話をぶった斬る。字面だけ見ればあまり仲が良いようには見えぬかもしれんが、彼女達の纏う雰囲気は険悪なものでなく、むしろ気安いものだ。俺や姉上などに普段は見せぬ、同級生や友人に対する距離感というものだろう。兄は新鮮な心地だ。
そうして手をヒラヒラと振って話を区切ったイレーナが、初心者である二人に手本を見せるべく、軽い柔軟体操をこなしてから壁の突起に手を伸ばした。初心者用のコースとはいえ好きと豪語するだけあり、雑談を交えつつ手慣れた動きでスイスイと登っていく。ふむふむ、下で待機している組は捲れたシャツから垣間見えるヘソや引き締まったケツを観賞でもしていたらいいのか? いい運動だな。
「それデ? しばらく消息不明だったけド、元気にしてたノ? 私を置いテ?」
「か、家族旅行みたいなものだったのだから、あなたがついて来てても気まずい思いしただけよ」
「むふー、早めに宿題を終わらせて、異世界とイギリスに行ってました!」
「イギリス? もしかしてお嬢の家? ふム、強い魔力の波が観測されたのは、戦鬼と伯爵が相対したからカ。つまり結婚の挨拶?」
「ま、まぁそんなとこよ……」
「ふぅン?」
疑問に思ったのか、イレーナがチラリとこちらに顔のみを向ける。登る際に結んだポニーテールが誘うように揺れた。
「おかしな話ダ。お嬢はほぼ勘当に近い形で留学させられたのニ、結婚の挨拶をしに行ったらキレるなんテ? 何か隠してル? それとも伯爵が情緒不安定なだケ?」
「お、お父様は別に悪くないわよ……」
「いやアレは悪いぞ」
「思ったより悪くはありませんでしたけど、どちらかといえば多分悪い方だとは思います」
「んン? お嬢は伯爵のこと嫌いというか苦手じゃなかったっケ? なぜ庇ウ。よっ」
軽々とゴールにタッチしたイレーナは、軽い跳躍で柔らかいマットへと着地する。その瞳を、若干じっとりと細めながら。
「初心者用のはこんな感ジ。数字が振ってあるからその通りに登れば間違いはなイ。で、その心ハ? お嬢」
「ん、んん~……まぁ、その、なんというか……納得はしてないのだけど、事情は分かったというか。いえ正確にはなにも分かってはないのだけれど」
「どうしたお嬢。私でも分かる日本語で喋ってくレ」
「ふふ、リゼットさんは、ちょっとだけご家族と仲直りしたんです! ご家族同士の仲が良いことは、とっても良いことですねっ」
「ヘェ……それは良かった、のカ? その事情とやらによると思うけド。どんなノ?」
「私は知らない方がいいって」
「私も知りません!」
「なんで当事者が軒並み知らないんダ……」
イレーナが訳の分からない反応に引いている。仕方あるまい、ブルームフィールド家は少々複雑なのだ。
アーカードのアレさ加減に俺が鼻を鳴らしていれば、イレーナがステップを踏むようにしてこちらへ一歩近付く。愛らしく、小首を傾げながら。
「ちなみニ……私は無双の戦鬼に関する情報なら何でもかき集めるよう命令された諜報員なわけだけド、それについて探ったらどうなル?」
「クハハ、殺す」
「オーケー、分かっタ。この話は聞かなかったことにすル……私のEカップを好きなだけ揉ませてあげるって言ってモ?」
「ならん」
「ム、処女をあげるって言ってモ?」
「釣り合わん」
「スタイル抜群色白ロシア美少女の処女より大切な情報ってなんなノッ!!」
「私の秘密ってそんなにヤバいの……?」
「むふー、分かりませんっ!」
いくら乙女としてキレようと明かせぬものは明かせん。それも諜報員になど、とてもとても。
俺が分かりやすくプイと顔を背ければ、イレーナも諦めたのか「はぁ……」と疲れたようなため息をつく。
「だがなるほド。諜報員としては探りたいガ、あの無双の戦鬼がここまで守護する宝ダ。深追いすれば間違いなく厄介なことになるネ」
「懸命な判断だな」
「……じゃア、ここからは諜報員としてではなク」
「え?」
奇妙な前置きに、リゼットが目をパチパチと瞬かせる。するとイレーナは優しく眉を八の字にして……、
「よかったヨ、リズ。お嬢がこれまで受けた仕打ちは、諜報員として把握していたかラ。本当は駄目なんだけド、実はほんの少し同情してタ。でもそんなお嬢が『事情は分かった』だなんて穏やかに言うシ……きっとお嬢にとって、良いことがあったんだって思えル。だかラ、うン……本当ニ、よかっタ」
「な、なによ、急にイレーナ……」
「職業上あんまり深くは関われないからネ。でも今は夏休みだシ?」
「……もう、やめてよね……っ、もぉ……」
「ププ、感動して泣いてやんノ」
「……そうよ、悪い?」
「ウ……ツンデレお嬢のくせニ、彼氏以外にデレてどうすんノ……」
そうして何度か窺うようにチラチラと互いの表情を観察し……はにかむように笑う二人の少女。
いやはや、なかなかどうして。国籍も違えば種族も違うというのに……異国の地にて、宝石のような友情を育んでいるではないか。
じーん、と俺と刀花が感動していれば、照れ臭くなったのかイレーナが「ふ、ふンっ」と先に顔を背け、今度は中級者用の壁に手を掛けた。
「そ、それよリ、私にも話せるこト……異世界のことでモ、ああいヤ、そうだお嬢」
「な、なぁに?」
聞き返すリゼットに、イレーナは少し意地悪げに唇を歪ませて問うた。
「この夏で、どれだけ彼氏と進展したノ? もうおてては繋いダ? キスはしタ? でも残念、赤ちゃんはキャベツ畑から取れるわけでもキスでできるわけでもないんだヨ?」
「っ、あ、あの、えっと……」
「フ、万年卒業の機会を逃すお嬢には刺激が強すぎたかナ? まぁそう落ち込まないデ。なにせこの敏腕美少女スパイですら彼氏もいなければ処女なんだシ」
「お、おかげさまで、その……」
「うン?」
「……ほ、本当に、赤ちゃんできちゃうような……ぇ、ぇっち……した、わよ……?」
「……ふゥ、またお嬢の精神的強がりカ。やめときなってお嬢。日本では処女が『処女じゃない!』って叫ぶのは恥ずかしいことなんダ──」
「……モジモジ」
「……」
「モジモジ……」
「……」
だが。
リゼットの本気の恥じらいの様子に、からかいたかっただけのイレーナが固まる。
そうして蝉のように壁に張り付きながら……ブリキの玩具のようなぎこちない動きでこちらを見て問いかけた。
「…………………………………………マ?」
「……ああ、『マ』だ」
「ハ?」
イレーナは目を見開き、そのまま勢いよく背中から落ちていった……。




