第83話 私はわからない
病室で独り、窓の外を見てボーっとする。
視界の先に映るのは、灰色の空と、麓の街の景色。
その光景が今朝、お母さんの背中から見た情景と、微かに重なる。
『だからね、もし、はるが嫌じゃなかったら、一杯、いーっぱい、大事にされてほしいの―――』
思考の裏では、お母さんが口にした言葉が、未だにリフレインし続けてる。
大事に―――? 私が?
それはきっと、いつかの頃、望んでやまなかったはずの、言葉のはずなのに。
どうしてか、まだうまく飲み込めない。
だって、わからない。私にそんな価値があるのか。
どうして、みんなそんなことを言ってくれるのか。
『そもそも―――お前が変えたんだ』
17歳の私が、それに見合うだけの何かをしたのだろうか。
だとしたら、その記憶を失ってしまった、今の私の価値は何なのだろう。
わからない、わからないのに。
あの時、お母さんの背中におぶられてた時、二人で一緒に山肌から街を見下ろした時。
私の眼からは、気づけば、涙が溢れ出していた。
その言葉に見合うだけの価値を、私が持てているのか、どうかすらわからないのに。
手渡された言葉の重みも、上手く感じることもできないまま。
私はあの時、ただ泣くことしか出来ないでいた。
そんな私を、お母さんは、ただじっと受け容れてくれていて。
そんな時に、私の脳裏に、ふとよぎったのは。
『―――大丈夫』
つい数日前まで、名前すらわからなかった義妹の言葉。
ぼんやりと、指を窓へ伸ばして、ほんの少しの言葉を漏らす。
「黒江…………」
このどうにもならない、あやふやな、こんな想いを。
今は、ただ、誰かに聞いて欲しかった。
※
黒江が病室に顔を出したのは、お昼前くらいのこと。
「おはよ、はる。ごめんね、人と会ってて、ちょっと遅くなっちゃった」
そう言って笑う黒江は、いつも通りの笑顔を浮かべて、こてんと軽く首を傾げる。…………なんだか少し疲れているようにも見えるけど、まあ、そりゃそうか。私の事故とか、色々あったんだから、実際疲れているんだろう。
「うん、おはよ、黒江」
そんな、少しだけ時間の外れた挨拶を、お互いした後、黒江は不思議そうに首を傾げた。
「…………あれ、お義母さんは? 買い物?」
そう言って、私が病室に独りなのを、少し不思議がる。
「………………えーと」
実際のところ、朝、私を無断で連れ出したことが、看護師さんにバレてしまったのだ。その後もお母さんは、私に事あるごとに話かけて、スキンシップを取ろうとして。見兼ねた看護師さんが、お説教をしにどこかに連れ出してしまった…………とは、なかなか言い難い。
何とも言えずに、うーんと悩む私を、黒江は不思議そうに眺めた後、ふむと軽く頷いた。
「すぐ戻ってくる?」
「…………わかんない」
「なんか、緊急事態だったりする?」
「そうでは…………ない…………はず」
「そう、なら大丈夫か」
そう言って、黒江はふぅと息を吐くと、私の隣にすてんと腰を下ろした。これでよかったのかな、と思わなくもないけど、これ以上の伝え方も思いつかない。
むむむ、と唸りながら、少し考えるけど、結局いい言葉は思いつかなかった。
そんな私を、黒江はしばらく不思議そうに眺めてた。そうして、私が落ち着いた頃に、何気ない調子でしゃべり出す。
「ほんとはね、今日、はるの同級生とか、後輩とかも来てくれたんだけど―――」
そう言いながら、彼女はそっと静かに眼を閉じていた。
「―――主治医の先生が言うには、まだ家族以外との面談は控えた方がいいらしいんだ。だから、申し訳ないけど、今日は帰って貰っちゃった。みんな、はるのこと心配してたよ」
そうして告げられた彼女の言葉に、私は思わずえ、と声を漏らした。
「…………そ、そうなの? それは確かに申し訳ないかも……せっかく来て貰ったのに」
……なんて、口では言うけど、内心少し、ほっとしている私もいる。今、たくさんの人と話すのは、少し怖いと思ってしまっている自分がいる。向こうは覚えているのに、私だけ覚えていないから尚のこと。
あ、でも、スマホで連絡くらいはしといがほうがいいのかな……。今日来てもらってありがとうございましたって……いや、記憶もないのに下手なことしないほうがいいのか……。そもそも誰が来たかわからない……。
そのまま独りであうあうとスマホを取り出して唸っていたら、ぺこっとデコピンが飛んできた。ほとんど撫でるみたいな、優しい力で。
「そうやって、悩んで負担にならないようにってことだからね? 今のはるは、とりあえず、ゆっくりしてたらいいんだよ」
そうして告げられた言葉に、ですよねと少ししょげながら、そっとスマホを置いた。ちゃんと、余裕が出来たらお礼を言おう……。
そう思って、少し肩の力を抜いた時。
ふっと、こちらを覗き込んでくる、真っ黒な瞳と目が合った。
黒江はじっと、私の顔を観察するように、見つめてる。
「………………ねえ、はる。なんとなくなんだけど」
うっと思わず言葉に詰まる。何か至らない点があったでしょうか……。
「な、なんでしょう…………」
そうやって、自信なさげに言葉を漏らす私を、黒江はじーっと見つめたまま。
「何かあった―――?」
そう。
「…………なんだろ、ちょっと、考え事する時の顔してる」
まるで、全部見透かすみたいに。
黒江は、そっと首を傾げてた。
顔が少し熱くなるのを感じる。上手くその真っ黒な瞳を見れなくて、思わず少し視線を逸らしてしまう。
確かに、ちょっと話したいとは思ってた。なんとなく聞いてくれないかなとは思ってた。
だけど、こうもやすやすと見破られてしまうと……なんだか、少し恥ずかしさの方が勝ってしまう。
これが10年過ごした、経験というものなのでしょうか。私だけそれがないのは、些か不公平ではないでしょうか。
なんて、誤魔化したところで、現状に変わりはなく。
仕方なくため息をついてから、私はそっと頷いて。
じっとこちらを見つめる黒江に、今朝あったことを少しずつ話し出す。
どう言おうか、本当に伝えていいのか、最初は迷っていたはずだけど。
一度、口にし始めると、不思議と言葉するすると喉から出てきた。
まるで、そうやって、誰かに聞いてもらえる瞬間を、実は待ち望んでいたかのように。
今朝のお母さんのこと、その時の自分の気持ち。
6歳の記憶の中では、誰にも言えなかったはずの、そんな話を。
私はたった数日しか、一緒に過ごした記憶のない義妹に、滔々と話してた。
まるで、それが当たり前かのように。
※
「そっか――――」
そうして、今朝起こったお母さんとのやり取りを話し終えると、黒江は微かに微笑んで頷いていた。
「それで……えっと」
嬉しかったと言えばいい気もする。やっとお母さんが私のことを見てくれて、素直に喜べばいいはずなのに。
同時に、上手くそれを言葉に出来ない私もいる。それがいけないことだというのは、わかっているけど。
どうしてか、喉の奥に何かがつっかえて、声がちゃんと出てきてくれない。
「………………はる?」
黒江も、途中で言葉が切れた私を、少し不思議そうにみて首を傾げる。
喜ばしい事なのだと思う。素敵なことだと思う。実際、涙だって零れたけれど。
どうして、私は『嬉しかった』の一言も言えないのだろう。
結局、何も言えずに俯いた、そんな私に黒江は―――。
「別に、無理に言葉にしなくていいよ?」
………………。
「昔のはるもね、お母さんとの仲直りは、ほんっっとに時間かかったの。…………いや、最近でもちょっとつんけんしてたから、意外とまだ仲直り出来てなかったかも」
そうして、何気なく。
「…………だからね、すぐに答えは出さなくていいし。絶対受け容れないといけないってこともないの。はるの気持ちが追いついてくるまで、ゆっくり待ったらいいよ。そんな、簡単なことじゃないんだから、大丈夫だよ」
そう言って、優しい笑顔でふっと笑ってた。
そうやって、笑う彼女を、私は何も言えないまま見つめてて。
そんな一瞬に、どうしてか、ふと気づく。
その眼元、少しお化粧で隠してはいるけれど。
薄く、暗く。
かすかに、隈のようなものが見えていた。
そして少しだけ擦れたような、小さな泣き跡も。
それをみると、なんでか、胸が少し痛くなっていて。
私は、そっと頷くことしか出来ないでいた。
わからない、どうして黒江は、こんなに優しいのだろう。
お母さんもそう、こんな私を、大事にする価値が本当にあるんだろうか。
仮に17歳の私にそれがあったとして、その記憶を失った、今の私じゃあ。
いずれこの人たちを、失望させてしまったり、するんだろうか。
そうして、何も言えないまま、私は頭を黒江の肩にこてんと預けた。
きっと黒江は、今、私はお母さんのことで悩んで、落ち込んでると思ってる。
……それは別に嘘じゃないけど。
でも、この私のどうしようもない、ちっぽけなほんとの心は。
こうやって、貰う沢山の優しさを、いつか私自身が裏切ってしまうんじゃないかって。
そんなことに、怯えてる。
黒江の手が、私の背を優しく撫でる。そうすると、安心するけど、胸の奥に空いた、小さな亀裂のような不安はなくならない。
愛してもらえばもらうほど、不安と、痛みは私の身体の中で克明に浮かび上がってく。
そんな自分が、どうしようもなく嫌なはずなのに。
身体は、触れる手の温もりを、縋る肩の感触を、物言わぬまま求めてた。
分からないまま、たった数日の想い出しかない義妹に触れて。
何も言えないまま、そのぬくもりに身を委ねてた。
ほつれた糸のように絡まった、私の心と身体は。
それでも、誰かの隣に居たかった。




