第82話 姉を想うー③
肩が揺れる、胸が揺れる。
私たちの笑い声に釣られるように。
軋んだ身体は、それだけでも、痛みを連れてくるけれど、不思議と今はそこまで気にならない。
わかってる、笑ったところで、何も解決はしていない。
はるの記憶は戻ってないし、私が薄汚れた存在なことにも変わりはない。
でも、どうしてか―――。
「あ―――…………おかし……」
少しだけ、気分がマシになったような、そんな気がしてくる。
たとえこれが、今この時だけ効く、僅かな麻酔のようなものだとしても。
今は少しだけ、笑えてる。
そんな私を、琥白はどこかしたり顔で、にやにやと笑みを浮かべて見ていた。どうだ、ざまあみろと、どこか得意げに。
「やっと、笑ったじゃん?」
そうして告げられた言葉に、私はひらひらと両手を上げる。敵わないと、そう示すみたいに。
それから、ふぅっと息を漏らすと、身体のこわばりが少し解けていく。ただ、そうすることで、自分がいかに限界だったのかも思い知らされる。
身体のあちこちが、錆びついたように痛んだ。頭も鈍くて、正常な判断が出来てない。目は腫れぼったくて、喉は痛くて掠れてる。
全開を100だとしたら、よくて10…………いや5くらいかな、調子的には。ボロボロにもほどがある。
「まあ、でも実際、ちゃんと笑ったの久しぶりかも……」
はるを安心させるために、必要だから浮かべた笑みは、数えきれないほどあったけど。ただ、おかしいからという理由だけで、笑ったのは随分久しぶりな気もする。
いや、別にそうでもないのかな、ここ数日の、密度がおかしいだけで。
そう想ってしまくらいには、このたった数日間で、あまりに沢山のことが起こったんだ。はるのことも、親父のことも、今は、お母さんだって帰ってきてる。
そりゃあ……多少はガタも来るかな……。
「それは何より。かうんせらーこはくの手にかかれば、こんなもんよ」
そう言って、琥白は少しわざとらしく、胸をえへんとはっていた。
「いや、実際、向いてるかも。ちょっと、気持ち楽になったし」
そう言っておだててみると、目に見えて、えへへと照れだしている。うーん、でもカウンセラーにしては、本人の感情が分かりやすすぎるかな? ……なんて言ったら拗ねそうだけど。
「うへへ……、将来そっちの方面に行ってみようかな……」
そしてちゃんと自惚れている。普段、あんまり褒められ慣れてないから、こういうことがあると、琥白はすぐに味を占めがちだ。…………やっぱり、カウンセラーにしては解りやすすぎる気もするけど。まあ、言わぬが花かな。
「………………まあ、でも本当に、ちょっと楽になった。ありがと、琥白」
そう零した言葉と同時に、身体から力がどすんと抜けていく。今、疲れたというより、抱えてた疲れをようやく自覚したって感じだけれど。
「おう! …………まあ、別に私が聞いたところで、大した解決にはなんないかもだけどさ」
そう言いながら、琥白は、うんうんと少し唸ってた。実際まあ、具体的な問題は何も解決してはいない。それは、二人ともよくわかってる。
「それはそうだけど…………何て言うかな、ちょっと肩の荷は下りたよ、お陰様で」
ずっと、気を張っていた。はるの前で、お義母さんの前で、親父の前で。それが今、ようやく少し解けたような気がする。
「…………ならよかった。…………話、詳しく聞いてもいい感じ?」
さっきまでの自信満々な様子はどこへやら。少し心配そうに首を傾げる琥白に、私はそっと頷いた。
「どっから、話したらいいかな……」
そうして、ようやくずっと誰にも言えなかったことを、口に出し始める。
胸に抱えたまま、打ち明ける場所もなかった。
喪失感を、後悔を、自己否定を、憎悪を。
そして、何よりもう、あの人の記憶からは、ついぞ消えてしまった。
私の、淡い恋心を。
そうやって、ぽつぽつと話し始める私の言葉を、琥白はじっと黙って聞いていた。
※
「―――――…………って感じかな」
少し時間をかけて、ようやく一通り話し終えたところで、私は思わず苦笑いをそっと浮かべる。
「うぐぅ…………ひぐぅ…………えぐぅ………………」
目の前には滂沱のように、溢れるほどに、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった、琥白がいたから。
「…………どうどう、ちょと落ち着きな」
思わず頬を掻きながらそう告げると、琥白は、手渡したティッシュの箱で勢いよく鼻を噛んでいた。ずびーっと、ずごごっと、人はそんな爆音で鼻を噛めるのかと、少し感心してしまえるほどに。
「これの……!! どごが……!! おぢづいてられるのよぉ!!」
恐らく、私が一年かかっても、流せないような涙と鼻水を零して、琥白は真っ赤な顔で抗議してくる。はは、そんなこと、私に言われましても……。
「…………あはは」
何とも言えない笑みを零していると、琥白はそのまま、ふんふんと腕を振り回して、必死に何かの怒りを抗議していた。
「だっで……!! だっで…………!! 折角、想いが通じあったのに!! ちゃんとわだかまりも解消できて、これからって時だったのに!!」
何に対して怒っているのやらと、しばらく思考するけれど、まあ色々かと、早々に納得した。
「そのお父さんも腹立つし!! あいつでしょ?! あの冬前に話しかけてきた奴!! しかも事故に遭っちゃうし!! それで記憶喪失なんてひどすぎるよ!! そっから、ずっと黒江は頑張んないといけないし!! 灰琉先輩が悪いわけじゃないけど!! あー!! もー!!」
そういって虚空に振り回される腕は、色んなものに向いているのだ。理不尽とか、不運とか、運命とか、そういう曖昧で漠然としたあれやこれやに。
そんな、どうしようもない不幸に、それでも抗って怒っているのだ。私はそれを早々に諦めてしまったけれど。
「まあ、でも、私が悪い部分もあるから…………」
あの時、はるを一緒に旅先に連れ出さなければ、はるにちゃんと連絡を取っていれば、そうでなくてもはるが轢かれる瞬間に、咄嗟に飛び出すことが出来てれば……。
そうすれば……少なくとも、轢かれていたのは、はるじゃなかっただろう。
「…………? どこに黒江が悪い部分あったの?」
「………………」
「…………どう考えても、あんた悪くないじゃん。事故なんて、起きるかどうかわかんないしさ。お父さんのことだって、私なら多分殴ってるし。よく話し合いで解決したわね、むしろ。その後も、頑張ってるんでしょ? どこにあんた悪いとこあんのよ?」
「…………………………」
「あ、わかった。またあれでしょ、どうせ完璧主義になってるでしょ。ちょっと上手くいかなかったら、全部自分の落ち度とか思ってんでしょ。『私がこれをしなかったからー……』とか。そういうの止めなって、灰琉先輩にずっと言われてたでしょ?」
「………………………………まあ、うん」
「あんたはどう見ても、それなりに上手くやってるし。私から見たらやりすぎてるくらいだから。自分が大事な人に忘れられた直後に、全部押し殺して、寄り添うなんて、私多分出来ないからね? 二週間は、ずっと泣いてる自信あるから」
…………………………。
なんだろう、少しむずがゆい。
自分に至らない点があると、決めつけてたのが図星だったからなのか。それをはるに言われていたことが、少し居心地が悪かったのか。
…………単純に、琥白に堂々と褒められてるのが、少し珍しいからか。
微かに頬が熱くなりながら、思わずぼそっと声が漏れていく。
「……………………でも…………しちゃったし」
「…………え? 何?」
我ながらあまりにか細い声だったから、琥白は怪訝そうな視線で聞き返してきた。
「覚えてないのに……はるにキスしちゃったし…………」
それは、どう考えても、許されないこと。記憶を失っている、相手の立場を考えれば、そんなことすぐにわかること。
そのはずだけれど……。
「…………うーん、私したことないから、よくわかんないけど」
琥白は腕を組みながら、難しそうな顔をして、首を傾げてた。
「………………」
「………………くろえから見たら、好きな人のままなんだから、まあそういうこともあるんじゃない?」
そう、琥白はなんてことはないように、怪訝そうに喋ってた。
ただ、そんな顔を見ていたら、なんだか変に腹も立ってくる。
だから、思わず、言ってしまった。
「………………………………も、したけど」
我ながら、ぼそっと漏れる声が、拗ねた子どもみたいだ。
「……………………え、何したの?」
琥白は眉を歪めながら、首をこてんと傾げてた。
「…………………………………………独りで、はるのこと考えて…………したの」
……………………。
しばらく、沈黙が流れた。
やがて琥白は、唖然とした顔のまま、段々と頬を赤らめ始める。
私が何を言ったのか、ようやく理解したみたい。
そのまま、あわあわと口を動かし続けて、やがてそっと顔を伏せると。
「……………………じゃない」
そう、ぼそっと小さな声だけ零した。
「…………なんて?」
聞こえなかったから、思わずそう、聞き返したら。
「…………そういうこともあるんじゃない!? その、えと、す、好きな人だし!! そういうことも!! わ、私だってしたことあるし!!!」
三倍くらいの爆音になって、返事が返ってきた。真っ赤な顔と、しどろもどろになった視線と一緒に。
……………………ふーん。
「普通なんだ、琥白は、そういうの」
少し、意地になってそう言ってやると、余計に琥白の顔は真っ赤になって、視線はあちこち泳ぎ始める。
「え、え、そ、そういうわけじゃ…………」
そのまま、トビウオみたいに、あっちこっちに視線が行くから、思わず追い立てたくなってしまった。
「そう、じゃあ、やっぱり気を遣った嘘なんだね」
あえて、つーんとした口調で言ってみると、琥白は慌てて涙目になった後、顔を焼けそうなくらい真っ赤にしたまま、声を震わせながら俯いた。
そのまま、しばらく、何も言えない彼女を見ていたら。
「……………………ほ、ほんとでしゅ」
そんな、消え入りそうな告白をしていただいた。
………………うん、満足。
何が満足かは分からないけど。
そんなこんなで、年も始まったばかりの冬の朝。
お互いの、お独り様事情を告白しあう、よくわからない女子高生二人の図が誕生していたわけでしたとさ。
「………………で、誰のこと考えながらしてたの?」
「…………な、ないしょ!!!」
なんか、もっとシリアスな話だった気がするのだけれど……まあ、いいか。
意外と、こんなのが私と琥白らしいのかも……しれない。
最後に思わずくすっと笑うと、琥白も顔を赤らめながら、照れたように笑ってた。
まるで、ちょっと恥ずかしい話をした、ただの普通の友達みたいに。
※
「まあ、実際の所さ」
「…………うん」
「ちょっと、無理してる自覚はあるよ」
「…………でしょうよ。顔に無理って書いてあるもん」
「そんな解りやすくないつもりなんだけどなあ…………。まあ、本当は色々ガタも来てるんだけど」
「……………………うん」
「でも、もうちょっと頑張るつもり……って言ったら、琥白、怒る?」
「………………理由次第かな」
「………………」
「………………」
「はるがさ」
「うん」
「私が小さい頃、多分、すっごい無理して、『お姉ちゃん』として頑張ってくれてたの」
「…………うん」
「自分も不安な癖に、お母さんとのことだって、上手くいってないのに。それでも独りになった私を守って、ずっと不安にならないようにしてくれてたの」
「…………そう」
「だからね、まあ……その分くらいは、私も頑張ろっかなって。貰った分くらいは、ちゃんと返しておきたいんだ」
「………………そんで、そんなにボロボロになってたの?」
「……………………まあ、うん」
「………………知ってたけど、実は、馬鹿よねあんた」
「…………はあ?」
「ふふ、別に貶してないわよ」
「いや、貶してるでしょ、どう考えても」
「だから貶してないって…………ま、どっちでもいいけどさ」
「ぬー………………」
「それで、そう…………もう、しばらくは頑張るんだ?」
「その……つもり。色々、迷惑はかけるかもだけど…………」
「ふーん、まあいいんじゃない?」
「かるっ…………」
「重く考えても仕方ないでしょ、どうなるかわかんないだし。それにさ……」
「…………それに?」
「そんな顔してる奴、止めらんないでしょ?」
「……………………」
「だから、まあ、止めろなんて言わないから。精々、潰れない程度に頑張りなさい」
「なんか、上から目線…………」
「たまにはいいでしょ? それに、多分、あんたなら出来るでしょ」
「まあね……優秀な自覚はありますし……」
「別にそういう話じゃないけど」
「………………?」
「ふふふ、まあ、いいじゃん。頑張れ。ダメになったら灰琉先輩は、私が貰ってあげるから」
「うし、絶対倒れん。意地でもはるの隣は譲らん」
「……ほんっと可愛げないわねえ、あんた……まあ、いいけどさ」
「……………………ふふ」
最後に、少し残ったコーヒーをお互い啜った。
「頑張れ、黒江」
「うん、頑張る」
そう言って、二人で、空になったカップをそっと置く。
現実は何も変わってはいないけど。
それでも、また今日を過ごすために。
大切なあの人の隣にいるために。
苦難に満ちた巡礼のような、そんな旅路を。
友達に、そっと背を押されるがまま。
さあ、いこっか。
そうして、特に示し合わせたわけでもなく。
私達はゆっくりと、立ち上がる。
はるに会いに行くために。




