第81話 こはくは話す
『――――ってことがあって、はるが、事故で記憶を失くしちゃったの』
『だから、しばらく、迷惑かけるかも。ごめんね』
夜中に突然、そんなメッセージが黒江から飛んできた。
え、って、しばらく文面を見たまま、何のことだかわからなくって。
慌てて返信したけど、黒江の既読はさっぱりつかない。
大慌てでしの姉の部屋に行ったら、しの姉もスマホを持ったまま難しい顔をしていた。
「しの姉……、くろえから連絡来た?! 灰琉先輩が……」
荒れる息でそう口にすると、しの姉は静かに頷いて、そっと私にスマホの画面を見せてきた。映っていたのは、私と同じメッセージが載った画面。細かい違いはあるのは、どうにも生徒会関連の連絡っぽい。そして、しの姉からの返信に、既読がついてないのも全く同じ。
「ど、ど、どうしよう!? 私、何したらいいのかな?!」
気持ちがぐちゃぐちゃになって、考えがぐるぐる回るのに、何をしたらいいのかもわからない。いつも、したり顔で窘めてくるしの姉も、どこか考えこむような顔のまま。そんな表情が、余計に私の不安を煽ってくる。
「…………どうしたらって、言ってもな。すぐに出来ることは正直ないかな。私達は別に、医者じゃないわけだし」
そうして、しの姉がぼそっと漏らした言葉に、思わずうぐっと言葉が詰まる。そりゃあ、そうなんだけど、なんかしなきゃというか、なんかやらなきゃというか。
「でも…………灰琉先輩、大丈夫かな……黒江も、あいつ……絶対……」
口にしながら、想い起こされるのは、冬休みに入る前、黒江が必死に灰琉先輩に想いを告げようとしていた姿。
そうだ、だって、あの二人はただの姉妹じゃなくて。………………それとは別の、特別な…………。
思考がその事実に到達した瞬間に、ふっと足元が抜けてしまったような感覚がした。
折角、悩みながらでも、ちゃんと想いを伝えられたのに。灰琉先輩も少しずつ、黒江に向き合っていけてたはずなのに。
それが、全部―――なくなっちゃったの?
好きだった人が、勇気を出してやっと想いを告げた人が、自分のことを忘れるなんて、積み上げた想い出もなくしちゃうなんて……それは一体、……一体、どれほどの痛みがあるんだろう。
考えても分からない、到底想像できるものじゃない。
でも、そんな喪失が、今、現に、黒江のことを蝕んでる。
そこまで、想って、思わず何も言えないまま俯いた。
後に続ける言葉が、何も見つからなかったから。
「………………」
そんな、私をしの姉は、何処か悼むように、そっと見つめてた。
「ねえ……しの姉。明日……黒江の家に行こう? ちょっとでも、励まさないと、あいつ…………」
大丈夫、だろうか。ちゃんとご飯食べてるかな。ただでさえ、無理しがちな癖に、こんなことがあったら…………。
「ああ…………そうだな。……だけど、私は少し役員たちと相談してから行くから、先に行っててくれ。大人数で行っても、あいつは、気を遣うだけだろうからな」
そんなしの姉の言葉に、私は思わずあっと声を漏らした。
…………そう、そうだ。今の黒江は、きっとあんまり余裕がない。なのに、みんなで押し掛けたらそれはそれで困らせてしまう。…………全然、思い至らなかった。
だけど、しの姉は、そんなことにもすぐ気が付いて…………私、自分のことで頭一杯で…………。
「そう……だね…………ごめん」
思わずちょっと、しょげて顔を伏せる。ていうか、私が行っても大丈夫なんだろうか。黒江に負担をかけるだけなのかも……。
ただ、そうやって落ち込みかけた私の頭に、ぽんっと優しく手が乗った。視線を上げると、しの姉は静かに私を見ていた。
「……黒江を頼むな? あいつはきっと、私や役員の前では……多少、気を張ってしまうだろうから」
じっと、何かを信じるような表情で。
「少し、話でも聞いてやってくれ」
「多分、黒江は、こはくが一番話しやすいと思うから」
そんな、しの姉の言葉の意味を、その時、私はちゃんとわからなかったけど。
※
今になって、しの姉が言った言葉の意味を、ようやく理解する。
零れたコーヒーが、机を静かに伝ってく。それはまるで、あいつの心から零れた、淀みそのもののよう。
「………………ちょっとわけてよ、その苦しいの」
多分、くろえはしの姉や生徒会のみんなの前だと、こんな顔は出来なかったんだろう。
だって、こいつクソ真面目だから。要領がいい感じ出してる癖に、根本のところで不器用なんだから。
「一応…………友達でしょ? …………私達。…………だから」
きっと、生徒会のみんな前では、こいつは『副会長』になってしまうのだ。
灰琉先輩の前では、『姉妹』になって、家族の前でもどうせ物わかりのいい『妹』でもやってるんだろう。
そうやってずっと何かを演じて、抱えたものの重さを、誰にも言えないままで。
「――――そんな、独りぼっちみたいな顔しないでよ」
心の澱みを、こんな風に零れだすまで、ずっと抱えたままだったんだ。
だから、しの姉は、私を先に行かせたんだろう。
私はこいつにとって、『姉妹』でも、『恋人』でも、『副会長』でもない。
ただの友達。お互いに何の役割もない。
だから、こいつは、私の前では何の役も演じられない。
だから、抱えたものが、抑えられない。
「あんたが、どれだけ灰琉先輩を大事にしてたかは……知ってるよ。だから、記憶喪失なんて、あんたに耐えられるわけないじゃん……」
口にしながら、じっと見つめた黒江の顔は、表情が抜け落ちていて。まるで眼窩が底なしの空洞になったみたい。
真っ黒な孔からは、何も零れていないけど、眼元についた泣き跡がその喪失を何よりも物語っていた。
「気を張らなきゃってなるのも分かるよ。灰琉先輩のために頑張るのも、ちゃんと『副会長』しようとしてるのも、別に否定しない。…………でも、全部独りじゃ背負えないでしょ」
ふと思い出すのは、いつもの放課後、灰琉先輩が困ったように言っていたこと。
『くろえは何でもできるから、全部独りでやろうとしちゃうんだよね……私は、そこだけ、ちょっと心配……』
ああ、なるほど、確かにと。今更ながら、合点がいく。
「…………その様子だと、ちゃんと誰かに、弱音も吐けてないんじゃないの? だから、ちょっとくらいさ――――」
教えてよ、そう口に仕掛けた時。
ばたんと、小さくない音がして、黒江の手が机に落ちた。机を叩いたとか、力が抜けたとかじゃなくて、落ちた。そう表現するしかないくらい、不自然なそんな音。
まるで、操り人形の糸が、その場で切れてしまったように。
「ダメなの――――」
そうして、漏れ出た黒江の声は。
「今、止まったら――――」
静かで、低くて、無機質で。
「もう、立ち上がれなくなる―――だから」
どこか、遠くて、か細くて。
まるで、迷子の子どもが、宛てもなく帰り道を探しているみたい。
いつも、凛々しくて、堂々と、不敵に笑っていたはずの黒江の姿は。
今では、小さく、縮んで、そのまま消えてしまいそうだった。
「だから――――」
その言葉の続きを、しばらく待って―――。
やがて、そこで途切れてしまっていることに気が付く。
言わなければならないのに、言えないのだろう。
しなきゃいけないとわかっているのに、出来ないのだろう。
私なんかの前で、この強情な奴が、弱みを見せている時点で、もう限界なんだ。
いつまでも、零れたままのコーヒーが、そんな事実を告げている。
思わず、胸がじくじくと痛むのを感じながら、ふぅっと重い息を零した。
灰琉先輩のことは、本当に心配で。自分が忘れられたことも、確かにショックだ。
悲しいし、痛いし、苦しい。
でも、同時にわかる。
こいつが……黒江が、抱えた痛みは、きっともっと、深くて、重くて、痛い。
想像なんて、いくらしても、きっと追いつけないほどに。
しばらく、何も言えない時間が続いた。
どうにか、言葉を探すけれどうまく見つからない。半端な慰めも、根拠のない楽観も、今のこいつに響くとは到底思えない。
そうしている間にも、ぽたぽたと黒い雫は机から落ちていく。さすがに、そろそろ拭いた方がいいのかな……。
そう想いはするのだけど、どうしてか、私の指も上手く動かない。
そうやって、気安く触れてしまうことが、どうしても躊躇われる。
愛してるなんて、私は知らない。恋してるなんてことも、私は知らない。
誰よりも特別な人も、それが失われてしまう痛みも、私の平凡な16年の人生の中には、どこにもなかった。親戚のお葬式とかさえ、私は経験したことがない。
そんな私が、一体何を言えるのだろう。
考えた、わからない。思えば思うほど、軽薄で、場違いな気がしてくる。
だからといって、こいつをこのまま、この暗がりに独り置いてけぼりする気にもなれなかった。
だって、今、こうやってこいつが弱みを他人に晒せる機会は、もう、きっと数えるほどかしかないのだから。
なら、私のするべきことは―――。
「―――この前、しの姉と喧嘩したの」
口を開いた。
黒江の視線が僅かにあがるけど、表情はまだ読めない。
「私が食べたかったアイスをね、しの姉が勝手に食べてたの」
それでも、構わず口を開き続ける。
「もう、ありえない! って怒って、散々喧嘩したんだけどさ。そしたら、しの姉が『そうはいうけど、琥白はそのこと一言でも誰かに言ったか?』っていいやがったの」
出来るだけ、朗々と、ちょっと恥ずかしい話だから、照れないように。
「私が、そのアイス好きなのはね、家族みんな知ってたんだ。だから、言わなくても、これ私のーって思ってて。言わなくてもわかるじゃん! ってその後もブチ切れてたんだけど……」
どもりかけた舌を、必死に回して言葉を紡ぎ続ける。
「よく考えたらさ……確かに私、これ私のなんて一言も言ってなかった。解ってくれてるでしょって気に、勝手になってた。しの姉も、そのアイス結構好きなの分かってたのにさ……」
こんな言葉に、意味があるのか、何も知らないまんま。
「だからさ、意外と、ちゃんと口に出すのも大事って言うか…………」
着地点を見定めないまま喋り出したから、思わず語尾がどもってしまう。本当に自分が言いたかったのが、こういうことなのかどうかすら、正直解からない。
「傍にいるからこそ、ちゃんと聞きたいって言うか…………」
分からない、こんな言葉に意味があるのか。
分からない、最愛の誰かを失った人が、どんな気持ちになるのか。
私には、何も分からない。
分からないけど――――。
ふと、ポケットにハンカチを入れていたことを、想いだす。
それをポケットから取り出すと、それでいいのか、よく分からないまま、零れたコーヒーにそっと被せた。
じわりと茶色の染みが、その白いハンカチに広がっていく。零れたコーヒーが作る水たまりは、段々と小さくなっていく。
「私は…………聞きたいんだけど」
そっと机の上を拭き終えてから、床に零れたコーヒーにも腕を伸ばして、どうにか拭き取る。うーん、でもさすがにハンカチ一枚じゃ拭ききれないかな……。
「あんたが、どんなこと想ってるのか……」
とりあえず、ざざっと拭いて、後はまあティッシュで拭けばいいかとふんっと鼻を鳴らす。うん、我ながら大雑把な性格が出ておりますな。
「別に、聞いて何になるってわけでもないけどさ…………」
そうやって、机の下からよっと身体を出したころ。
ふっと、黒江の顔を見上げると。
少し細めた目が、どこかぼんやりと、私のことを見つめてた。
「教えてよ、ただ、聞きたいだけだから…………」
少し疲れたような、少し呆れたような。
お世辞にも、華麗な説得に成功したわけでは決してない、そんな表情。
私は机の上に顎を載せて、なんとはなしに、そんな黒江を見上げる。
これじゃダメ? ってお伺いを立てるみたいに。
黒江は何処か胡乱な眼で、そんな私を見下ろして。
最後に小さく、ため息をついていた。
「…………琥白は、お節介だね」
私は机に顎を載せたまま、小さく頷く。
「よく言われる。…………自分でもよくないとは思ってる……」
それのせいで、中学で、ちょっとハブられてたしね。
「…………別に貶してないよ」
そんな私の言葉に、黒江はふぅっと息を吐きながら、小さな声を漏らしてた。
「嘘吐けぇ…………」
あまりに露骨に、目線を逸らしとるやろがい。
「…………嘘じゃないし」
そうやって、返す言葉も、なんだか拗ねたような感じだし。
「いや、嘘でしょ」
そこからの返しは、我ながら餓鬼っぽかった。
「……違うって言ってるじゃん」
案の定、黒江もちょっとムキになっていて。
「違わない」
「違う……」
「うーそーでーす」
「嘘じゃない!」
そんな、子どもみたいなやり取りを、しばらく繰り返した後。
最終的に、私が拗ねた黒江の物まねをしてみたら、黒江はどこか可笑しそうに吹き出してしまった。
そんな黒江の笑い声を聞いてたら、私もなんだか次第におかしくなってきて。
しまいに、二人揃って笑いだす。
どうして、笑っているのかすら、途中でどうでもよくなって。
そうやって、しばらく二人でお腹を抑えて笑ってた。
何も変わらぬいつものように、ただの普通の、ちょっと素直じゃない友達同士みたいに。
そうして、笑う黒江を見ていたら、なんだか私の胸の痛みも、気付いたらふっと消えていて。
机の上には、傾いたままカップと、コーヒーの染みたハンカチだけが残ってた。




