第80話 姉を想う―②
夢を見た、あなたの夢を。
抱き合って、キスをして、名前を呼んで。
夢を見た。あなたの夢を。
触れて、犯して、泣きついて。
夢を見てしまった、あなたの夢を。
あの雪の降る交差点で、あなたは、車に撥ねられて。
もし、ちゃんと連絡をしていたら。もし、私が親父に会いに行かなければ。
もし、私がはるを連れてこなければ。もし、私が代わりに轢かれていれば。
こんなことには、ならなかっただろうか。
こんな心さえぐずぐずに溶けてしまうような懊悩を、この胸に抱かずに済んだろうか。
もし、あの時――――――。
ぐちゃぐちゃと音がする。じゃりじゃりと音がする。
足元からじわりと黒い何かが広がって、景色の全てを飲み込むように埋め尽くしてく。
もし―――――。
このまま、あなたの記憶が戻らなかったら――――。
ふっと、足元が抜けるような感覚がする。
暗闇の中、何処までも落ちていくような。もし、そのまま地面に叩きつけられたら、当然死んでしまうような墜落感が。
全身の神経が、下から吹きあがる風に、悲鳴をあげていくような。
そんな感覚に思わずただ、私は叫んだ。
そんな声は、何処にも届くこともないままに。
もし、神様がいるというのなら。
もう、何を差し出しても構わないから。
どうか、あの日に戻してください。
あなたが私に笑いかけてくれていた、あの時に。
どうか、どうか。
それ以外、何を望めばいいのかすら。
もう、何も、わからないから。
※
音がした。
忙しない音、ぼやけて滲んだ意識を、無理矢理揺らしてくるような。
身体をどうにか、持ち上げる、頭は痛くて目は熱い。
身体中が、ずっと走ってたんじゃないかってくらい、重さと疲労感で満たされている。
血が回らないまま、ぼーっとしばらく、そのなり続ける音を聞いていた。
…………ああ、インターホンだこれ。
もぞもぞと、身体をベッドから這い上がらせて、そのまま、べちょっと床に身体をずり落とした。
ふと振り返った視界に映るのは、乱れてぐちゃぐちゃになった、はるの布団。
当たり前だけど、昨日、私がした愚行は、夢でもなく、紛れもない事実だった。
指についた渇いた汚れと、小さな血糊が、その何よりの証明だ。
ふぅっと重い息を漏らしながら、シーツを整えて、ぼやけた思考のまま、今度こそ通話口に顔を出す。
「はい…………羊宮です」
『あ!! いた!! 黒江!! 私!! 琥白!!』
通話ボタンを押した直後に、半分くらい音割れした、そんな声が通話口から響き渡ってくる。
思わず、しばらく呆けて、ちらりとリビングの時計を見やる。朝の八時、そして今はまだ冬休みの真っ最中。
なんで琥白が……? と少し、思考をしたけど、ああ、とすぐに理由に思い至った。
『開けてよ!! そんで、ちゃんと教えて!? 灰琉先輩、どうなったの!?』
琥白の声は、少し焦ったような、心配そうな色合いに染まってた。
そう、昨日、みんなには連絡してたんだっけね。それで返信も出来てなかったから、心配して来てくれたのかな。何というか、琥白らしいや。
「…………中で話すから、上がってきて」
エントランスの開錠ボタンを押しながら、口にした私の声は、酷くしわがれていて、とても聞けたものじゃなかった。
琥白もどこか、沈痛な面持ちで、画面の向こうで黙って頷いていた。
そうして、通話口から琥白の気配が消えてる間に、私はとりあえず、洗面所に行って、水を流す。
冬の切るような冷たい水が、肌を濡らして、少しだけ冷静さを取り戻させてくれる。
鏡を見ると、隈もあって血色も悪い、化粧もしてないし、髪もぼさぼさ。
お世辞に見ても、まともな顔じゃないけれど、まあ、琥白相手に取り繕っても仕方がないか。
顔を水で洗って、とりあえずタオルで拭いた。今できるのはこれくらいかな。丁度、ドアベルが鳴ったから、琥白も部屋まで上がってきたみたいだ。
「……おはよ、琥白」
「…………おはよ」
ドアを開けて、改めて向き合った琥白の顔は、酷く不安そうで、ともすればすぐに泣き出してしまいそうにも見えた。はるの記憶喪失という事実がそうさせているのか、私の今の表情が琥白の不安を煽っているのかは……わからないけど。
「とりあえず……入って」
少し低くなって、しわがれた声で、そう呟いて琥白を部屋に招き入れた。
そんな私を、琥白はじっと、揺らいだ瞳で見つめてた。
※
「…………コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「…………じゃあ、紅茶」
お湯を沸かしながら、リビングの食卓についた琥白を見る。ちょこんと座って、どこか緊張したような面持ちだ。
私はそんな彼女を、視界に収めたまま、自分の分のブラックと一緒に、飲み物をコップに注いだ。
カタンと音を立てながら、琥白の前にカップとミルクを置いた。そのまま、彼女の正面に腰掛けて、私は自分の分のブラックに口を付ける。苦い……でも、今はその苦さが、私を現実にぎりぎり留めてくれる。
「…………大事なことは、昨日メッセージで送った通りだよ。返事はごめん、ちょっと眠ってて返せてなかった」
コップを置きながら、そう呟くと、琥白の眼がじわっと滲む。口元は震えて、マグカップを握ったまま、飲むこともできないでいた。
「…………じゃあ、ホントなの? 灰琉先輩の……記憶がなくなっちゃったって」
震えて、少し涙で濁った声。私はそれに何も言えないまま、そっと首を縦に動かした。それくらいしかできないでいた。
「………………」
「……………………そんな」
いつも明るくて、元気な声ばかり響かせている琥白から、しぼむような、掠れた声が漏れてくる。変な話だけれど、そんな琥白を見ていると、今がどれだけ悲劇的なのか逆によくわかってしまう。
そう、ずっとわかってはいたことだけれど。
はるは、私を―――私たちとの記憶を、もう失くしてしまってるんだ。
沢山の大切なこと、重ねた想い出、交わした言葉、その全部を。
もう、失くしてしまっていたんだ。
琥白を鏡にすることで、そんなもう分かりきっていたはずの事実を、今更思い知る。
少し、お互い、何も言えないままの時間が流れた。
暖房もまだちゃんと動いてない、冬の冷たいリビングは、言葉まで凍ってしまうみたいで。啜ったコーヒーは確かに熱いはずなのに、どこか遠い世界の物のようにも思えた。
「………………」
「………………で、でも、記憶はずっと忘れてるわけじゃないんでしょ?! いつかはきっと戻るよね?!」
琥白ははっとなって顔を上げた後、まだ泣きそうな表情のまま、無理に笑ってそう口にする。それはお母さんとは、もちろんそうだよと言葉を交わしたこと。
そうなればいいと、私も願ってやまないこと。
でも、同時に―――。
「―――わかんない」
そんな保証は、どこにもないこと。
「………………っ」
琥白の表情が、震えたまま明確に揺らいでた。
「頭の傷が、脳を傷つけてたら、戻る保証はないんだって…………だから、はるがこれから、どうなるかは……正直、何とも言えない」
告げた言葉は、冷たくて、無機質で、まるで機械が喋っているみたいだ。心無いことを言っているな。誤魔化して、そうだよって笑っていればいいはずなのに。
「じゃあ…………」
「もしかしたら……ずっと、想いだせないままかも」
どうしてか、弱音のような言葉が漏れてしまった。
…………昨日、疲れて取り乱したからだろうか。それとも琥白の前だからか。なんだか、上手く仮面を被れていない気がする。
琥白も案の定、言葉を失って、どこか泣きそうな表情のまま、口元を震わせていた。
ああ……ダメだな。やっぱり。こんな、ただ事実だけを告げても何にもならない。嘘でもいいから、もうちょっと気の紛れることを言わないと。
何を言えばいいんだっけ。大丈夫? すぐ戻る? はるのことだし、明日には想いだす? 琥白の顔見たら、なんかきっかけができるとか―――。
そういうことを言えば……いいんだっけ?
いつもの羊宮 黒江なら、『副会長』なら、要領のいい私なら、そんな耳触りのいい言葉くらい。
いくらでも言えてたはずだよね…………。
「ねえ……黒江――――」
はら、琥白が心配そうにしてるじゃん。もっと、ちゃんと口を動かさなきゃ。親父の前であんな啖呵切ったんだ。お母さんの前でだって強がれた。はるの前で、ずっとお姉ちゃんのフリできてたみたいに―――。
もっと、ちゃんと―――。
「あんた…………大丈夫なの?」
がちゃんと。
指からコップが零れ落ちてた。
飲みかけのコーヒーが、机の上にゆっくりと広がっていく。
黒く滲んだ雫が机を伝って、ぽつぽつとフローリングに小さな水溜まりを作ってく。
しっかり……しろ。
零したなら、拭け。ちゃんと、笑え。
大丈夫って、いつもみたいに、口に出せ。
でないと――――。
車輪は、進み続ける限り、転がり続ける限りは倒れない。
逆に言ってしまえば、止まってしまえば、いとも簡単に、不安定になって、あっという間に崩れてしまう。
だから、私は進み続けないと、この役を演じ続けないと――――。
「黒江…………」
でないと、私は――――。
「黒江っ………………」
はるを――――――。
「―――――黒江ッ!!!!」
…………………………あ。
視界を上げた。
泣きそうな顔のまま、じっと私を睨んでる、琥白がいた。
「…………ここに来る前、しの姉と、話してきたの」
「…………灰琉先輩も心配だけど……多分、今、一番やばいのあんただって」
「…………私もそう想う。てか、今日、顔見て確信した」
「あんたのことだし……、どうせ、自分のこと責めたりしてんじゃないの?」
「わかるわよ、伊達にずっと、あんたと灰琉先輩の隣に居ないっての…………」
「…………無理に責めるななんて言わないし、後悔すんなとも言わないけどさ…………それくらい、苦しいことだってのは……私でもわかるもん」
「だから……大したこと言えないけどさ」
「………………ちょっとわけてよ、その苦しいの」
「一応…………友達でしょ? …………私達。…………だから」
「――――そんな、独りぼっちみたいな顔しないでよ」
そう言って、琥白は泣きそうな表情のまま、じっと私を見つめてた。
じっと、じっと。
まるで、何かを悼むような眼差しで。
何も言えないままの私を、ただ、見つめてた。




