第79話 姉を想う―①
ガチャンと、独りで、後ろ手に扉を閉めた。
ふっと見上げ先にあるのは、電気も暖房も何もついていない、暗く冷たい我が家。
…………こんな、寂しい場所だったっけ。
記憶との齟齬が、私の意識を少しだけ痛みでなぞっていく。そんなざわりとした感触を感じながら、靴を脱いで部屋に上がった。
夕方ごろに、少し不安そうなはると別れて、ようやく家に戻ってきた。今夜はお義母さんがはるの面倒を見てくれてるから、私は少しゆっくりしてこいとのことだった。
実際、旅行の荷物を置かなきゃいけないし、明日ははるの着替えも持ってかなきゃいけない。
それに、お義母さんの言う通り、さすがにちょっと心身ともに限界が近い。
ぼーっとしたまま、帰りしなに買ってきた、コンビニの袋を下げたまま、リビングへと足を進める。
「…………ただいまー」
冷たい暗がりの中、そんな言葉を零しても、返してくれる人は誰もいない。
そりゃそうだ、当たり前。そう解ってる癖に、口が勝手に動いたことに、思わず自嘲の笑みが浮かんでくる。
電気を点ける。いつもなら、リビング全部点けるけど、食卓さえ見えれば、今はいい。
コートを肩から降ろして、エアコンをつけて、コンビニで買ってきたオムライスを、レンジに入れた。
じーっていう、無機質なレンジの稼働音を聞きながら、何もできずにぼーっとする。
思考という思考が、止まってしまっているような感じがする。頬をなぞってみても、表情の一つも浮かんでない。石像みたいに、冷たく、固い。
そんなことに、感想を抱く間すらなく、レンジは仕事を終えた音を鳴らした。
湯気を立てているオムライスを眺めながら、スプーンの封を無造作に開く。
そうして、口を開けて、そのまま、噛んだ。
熱い、しょっぱい、あとは…………なんだろ、わかんない。
オムライスってこんなに、美味しくなかったっけ……。一応、好物のはずなんだけど。
それでも、栄養が必要だから、ただ無心にスプーンを口に運び続ける。
冷たい身体に、栄養と熱が運び込まれる充足感は、確かにあるはずなんだけど……。
どうしてだろう、何一つ、満たされない。
それでも、ただ手を動かす。必要だから、明日また、やるべきことがあるから。
ぐちゃぐちゃと、ゴムか泥を食べているような錯覚を抱きながら、口を動かし続ける。
ああ――――もしこれを、|《はるが作ってくれたらなあ》××××××××××××。
そう思考が動きかけたから、奥歯で、頬の裏を噛み潰す。
今は、ダメだ。振り返るな。
気を抜くな。車輪と同じだ。転がっている間は、倒れずに済む。逆に言うなら、止まってしまえば、きっと、もう動けない。
手を動かせ、思考を処理しろ、想い出に浸ってる場合じゃない。
そう考えはするのだけれど。
こつんと小さな音がして、手からスプーンが零れ落ちていた。
しばらく、指を動かそうと、微かに手を震わせるけど、さっぱり言うことを聞いてくれない。
胃がまるで、何かを拒絶するみたいに、酷く痛む。口はそれ以上、咀嚼することを諦めてしまったみたいにうまく動かない。
思考の狭間で、あなたが笑って作ってくれたオムライスが何度も滲んだ。
少し迷って、結局そのまま、余った分は冷蔵庫にしまっておいた。明日の朝、食べればいいや。
そう想いながら、口もとをそっと拭く。
そうして、ふと視線を上げた時、電子レンジに映った私の顔は、なんだか酷く青ざめていて。
滲んだケチャップが、口から零れた血液のようだった。
でも、今はそんなことすら、どうでもいいや。
※
やらなきゃいけないことは、色々ある。
知り合いへの説明、学校への連絡、これからのはるの生活のこと、それに加えて私自身の勉学や生徒会、日常の家事はもちろん。
数え上げればキリがなくて、準備はいくらしても足りない。特に学校が始まってからは、私が直接はるを見れなくなるから、その期間までに、どこまで周りの理解が得られるかが肝要になる。
そんな思考をしながら、琥白や白乃さん、生徒会のメンバーにメッセージを送った後、自室のベッドでぼーっとスマホを眺めてた。
必要なことはもう送った、現状の説明、これからのこと、頼みたいこと。
色々あるけど、現状できるのはこれくらいかな。後は明日、日が昇ってから、学校の先生に連絡して…………。
必要な手続き、お願いしたい配慮をまとめながら、こんこんとスマホの画面を叩き続ける。抜けはないか、見落としはないか。はるはただでさえ、記憶をなくして不安なんだ。少しでも負荷は減らさないといけない。
ただ思考を続けるうちに、ぼんやりと、視界が曖昧に滲んでくる。吐く息は少し熱っぽくて、頭の裏からなんだかドクドクと変な音がする。
呆けるな、できることをしろ、止まってる場合じゃない。
…………場合じゃないのに。
ごぼり、と何かが零れそうになる。
熱くて、大きな、そんな泡が胸の内から湧いてきて、そのまま、ごぼごぼと煮立ち続ける。
ぼたっと何かの雫が、枕元に堕ちていた。
あれ――――?
ぶーんと、スマホが音を鳴らす。誰かが返事をくれたのだろうか。
大分、ショッキングな内容だったから、慌てて返信してくれたのかもしれない。親切な人ばかりだから、気を遣ってくれたのかもしれない。
ぶーんぶーんと、メッセージは鳴り続ける。
なのに、視界が滲んで、上手く見れない。
ぼたっと、ぼたっと、雫が落ちていく。
ああ、何してんだ、私。今日、お義母さんの前では我慢できたのに、独りになったらすぐこれか。
そのくせ、眼から液体が零れるわりに、表情はさっぱり動いてない。声の一つも出せないまま、画面の見えないスマホを、ただ凝視し続けることしか出来ない。
しまいに、かたかたと指が震えて、スマホがベッドから転がり落ちた。
ごとんと、無機質な重い音が部屋に響くけど、それに反応することすらできやしない。
返信、はやく、しないと。
そう思考したところで、身体は金縛りにあったみたいに動かない。ベッドの下の、スマホを取ることすらできそうになかった。
しばらくそうやって、虚空を藻掻くようにした後、諦めて手から力を抜いた。
ああ、ダメだ。今日はもう。
返信は明日にしよう、ある程度、思考がまともな時に。……皆には申し訳ないけど。
そうやって、決めた瞬間に、ふぅってようやく身体の力が少しだけ抜ける。
気づいたら息は、溺れた後みたいに荒れていて、肺は必死に酸素を求めてた。
お風呂は……いいか。洗濯も、今日は……いいや、もう全部。
そうやって、着替えの一つもしないまま、しばらく死体みたいにボーっとしていた。
ぶー、ぶーって音が鳴る。でも、ごめんなさい。今はまだ、返事が出来ません。
「はる―――」
名前を呼んだ。帰ってくる応えはない。
「はる―――」
名前を呼んだ。でも、もうあなたの胸に、私と過ごした想い出はない。
「はる―――…………」
名前を呼んだ。
こんな冷たい、独りぼっちの夜は。
ずっと、そうやって、名前を呼び合って手を繋いでいたのに。
虚空に手を伸ばしても。
どれだけ雫を零しても。
寂しくても、辛くても、悲しくても。
あなたは――――もう。
喉が詰まる、嗚咽が零れる、痛みと、動悸と、震えが、じわじわと私の身体を犯していく。
まるで、身体の奥にあった熱源が、不意に誰かに奪われてしまったみたい。
ずっと胸の内で灯ってた灯が、冷たい氷か何かに置き換わってしまったよう。
ずっと、ずっと。
あなたが傍にいてくれたから、あなたが想っていてくれたから、あなたが手を握ってくれたから。
私は息が出来ていたのに。
でも、もう――――。
足が冷たい。手が凍えてる。
布団の中にいるはずなのに、体温という体温が、根こそぎ消え失せてしまったよう。
身体をずっと、冷たい雫が伝っていくような感触がする。
寒い、寒いよ。
はる、はるがいないと、私は――――。
ごぼごぼと、私の真っ黒な心を、溶かしたみたいな雫が枕を濡らしてく。
栓が壊れてしまったみたいに。蓋を失くしてしまったみたいに。
目の奥ががらんどうになって、そこから私という全部が零れてく。
心も、愛も、想い出も、温もりも。
全部。全部。
全部――――――――――――。
…………ああ。
でも、少しだけ懐かしいかも。
はると出会う前。
こんな夜を、何度も何度も、過ごしていたような気がする。
ずっと忘れていたけれど。
こんな冷たくて、寂しい夜が。
私の、当たり前だった、そんな気がする。
…………そう考えると、すっかり弱くなったね、我ながら。
あれだけ親父に啖呵切って、お義母さんの前でも強がったのにさ。
ちょっと蓋を開けてみればこれだよ。何も変わってないじゃん。
ていうか、こういう夜って、どうやって眠ってたんだっけ……。
はるの隣に居たら、すぐ眠くなるのに。
明日もあるから、早く眠らないといけないのに。
そう考えては、みるのだけれど。
いくら時間をかけても、さっぱり想いだせる気がしない。
ただ暗闇の中で、意識が途切れるのを、待っていただけのような気もするけど。
しばらく、考えた末に、結局諦めて息を吐く。
無理に寝ようとするからダメなんだろう。きっと、抗おうとすればするほど、苦しいだけだ。
…………それにしても、喉渇いたな。一杯、水を零したからかな。
そう思いながら、鉛みたいに重い身体を、少しだけ動かした。
水、飲もう。それであとはもう、眼だけ閉じてよう。
そうして身体を引きずって、リビングで一杯だけ、氷みたいな水道水を流し込む。
おかげで余計に冷えた身体を引きずって、部屋に戻ろうとした時に、ふっと廊下で足が止まった。
目に映ったのは、はるの部屋。
主のいない、暗く冷たい、空の住処。
ふらふらと、おぼつかない足取りで、その扉を開ける。
電気もつけないまま、手探りで暗闇の中のベッドに倒れ込んだ。
ぼふっと音がして、少しだけ淡く甘い香りがした。
ああ、はるの匂いだ。
そのまま、主がいないこといいことに、布団にくるまって身体を丸めた。
そうしていると、少しだけはるがそこにいるみたいで。
ほんの少しだけ、落ち着ける、ような気がした。
浅くなっていた呼吸が、微かにだけど穏やかになっていく。
あなたの香りを、少し近くに感じるだけで。
あはは…………後で、バレたら怒られそう。そうでなくても、ところどころ、抑えが効いてないのにね。我ながら、こんな色ボケだと思ってなかった。
みんなへの返信もしないで、何してんだか……。
なんて、思いはするのだけれど。
「はる」
気づいたら、身体はあなたを求めてた。
「はる――――」
埋まることのない欠落を、もう失われた半身を、求めるように。
「はる――――――――――」
いくら名前を呼んだとしても、あなたは私を忘れたままだけど。
「――――――――――」
身体を乱暴にまさぐった。
傷ついても構わない。
今はただなんでもいいから、刺激が欲しい。
涙と嗚咽を零しながら、名前を呼んだ。
痛みと快楽で、全てを塗りつぶしてしまいたかった。
ぐちゃりぐちゃりと音がする。
生々しく、穢れた、私の欲情。
今のあなたには決して聞かせてはいけない、薄汚れた嗚咽と喘ぎ声。
本当はずっと胸の奥に抱えてた。
ずっと見せないように堪えてた。
だから、そんなどうしようもない、汚い私は。
今、ここで削ぎ落せ。
もう、何に泣いてるのかもわからない。
もう、何で喘いでいるのかもわからない。
痛くて、痛くて、仕方がないのに―――キモチイイ。
だって、こうしている間は、全てを忘れられる気がするから。
薄汚れた妄想の中でもあなたは、私のことを抱きしめてくれているから。
そうやって、あなたの寝床を穢して、夢の中であなたを犯して。
最後に軽く身体が跳ねる。
そんな痛みと快楽で、私の心すら、塗りつぶしてしまるように。
濡れた手と、零れる涙が、何より私の罪過の証。
でも、そんな罪悪感さえ。
全部、溶けてしまえばいい。
今、この瞬間、この時だけは。
何もかも、無くなってしまえばいいと。
そう願いながら、最後にあなたの名前を呼んで。
気づいた頃には、私の意識は暗闇の中に、堕ちていた。
こんな薄暗い秘密を、誰にも言えずに、抱えたまんま。
ただ、あなたの夢を見ていた。
幸せだった、あの頃の。
※
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