第78話 私とお母さん―②
過去は変わらない、一度犯した過ちは決して消えない。
10代か、20代にでもなれば、嫌でもそんなことを誰しも学ぶ。
一度何かを失くしてしまったら、どれだけ代わりを見繕おうと、失くしたという事実は決して消えない。
それが信頼や愛情なら、尚のこと。
私が親として、はるから奪ってしまったものは、きっと数え上げればキリがない。
記憶が失われたことは、辛かった。忘れられてしまうことは、悲しかった。
ようやく、ちゃんと仲直り出来始めたのに、それもなかったことになってしまった。
零した涙は、一体どれほどかもわからないけど。
でも、不思議と私の心は、その痛みに飲み込まれることはなかった。
だって、どれだけ不器用でも『母親』だもの、娘たちを守らないと。今度こそ、あの子たちを独りにするわけにはいかないから。
そして、何より、きっと。
はるが記憶を失って、誰より悲しんでいるのは、私のもう一人の娘なのだから。
私との記憶は、わずかだとしても残ってる。たとえ糸が千切れてしまっても、残っているなら結び直せる。
でも、もしその糸が、繋がりが、まったくどこにも存在しなくなってしまったら。
大切な人の中から、そんなきっかけすら、奪われてしまったら。
その痛みは、いったいどれほどのものになるのだろう。いったい、どれだけ涙を零せば、その欠落は埋まるのだろう。
わからない、結局、それはくろえだけの痛みだから。
そして、そうやって痛みを抱えているのは、きっとはるも同じ。
自分の中から、大切な何かが失われたことに苦しんでいるのは、あの子だって変わりない。
だから私は、空元気だろうが、何だろうが、揺らいでなんていられない。
夜の嵐の中で彷徨う我が子二人を、今度こそ、見捨てるわけにはいかないから。
そうやって決意すると、胸の内から、じわりと熱い何かが沸いてくる。
母親なんて向いてないと想ってたけど、案外、実はやれるのだろうか。
それとも、私も少しずつ変わってきてたりするのだろうか。
『綺麗』な何かを見るのが、第一。その信条は、何も変わってはいないような気もするけれど。
背中にはるの重みを感じながら、なんとなく、そんなことを考える。
変わっているとしたら、誰のお陰だろうか、はるかな、くろえかな。
それとも―――。
そんなことを考えながら、また一歩、足を踏み出す。
私も、少しは頑張ってきたのかな、なんて。
そんな言葉を、思考の片隅で呟きながら。
※
「とうちゃーく!」
ふーっと勢いよく手をあげて、山肌を駆けあがる。多少息は切れたけど、まだ全然余裕、このままフィールドワークだって出来ちゃうぜ。
なんて考えながら、にぃってはるの方を振り返る。出来るだけ笑顔で、心配させないように、少しでも明るくなれるように。
そうすると、はるは困ったように頬を赤らめて視線をそらしてしまった。うーん、可愛い。親バカかな。親バカだな。
そのまま見つめててもよかったけど、少し恥ずかしそうにもじもじしていたから、そっと地面に降ろしてあげた。
はるはおずおずと私の背中から離れると、そこでようやく周囲の景色に目が行ったようだった。
「………………わぁ」
そこにあったのは、本当に些細な川の流れと、そのせせらぎ。
冬場の山の、枯葉の中に、そっと流れていくような。
綺麗で、静かで、ちょっと冷たい、そんな光景。
寂しいと、表現するのが一般的かな。
空気は冷たいし、冬だからお世辞にも、命が栄えている景色じゃない。
でも、冬の朝日の中、静かに流れゆく、その透明な光の反射は。
「………………綺麗」
そうやって、娘の口から零れた声に、私は静かに微笑んだ。
写真というものを生業にしておいてなんだけど、こういう生の感覚以上に、心を動かすものはそうそうない。
風の音、木々の匂い、小鳥のさえずり、水のせせらぎ。
写真だけでは切り取れない、この世界を構成する全てを感じるときに、人は心を動かすのだ。
いつかの海岸線で見た、あの夕暮れの中。
肌を撫でていく、少し寂しいあの風の感触を、私は未だに覚えてる。
写真は結局、そんな私の感動を、少しでも切り取るための道具に過ぎない。
伝わらない色を、感触を、音を。
ほんの少しでも伝わればと、たった一枚の四角に封じ込めてるだけ。
だから、本当に誰かの心を動かしたいなら。
こうやって、一緒に、綺麗なものを見る、たったそれだけでいい。
「………………」
しばらくはるは、言葉を失ったように、ぼーっとその光景に魅入ってた。
私はそんな娘の横顔を見て、思わずこっそり微笑んだ。
「カメラ持ってくればよかったなー」
そうやって、ぼやくと、はるは視線を動かさないまま、ゆっくりと頷いた。
「うん……ここ凄く、綺麗だもんね」
そんなはるに、私はううんと首を横に振る。
「今のはるの顔が撮りたかった……」
私は風景専門で、人を撮る趣味はあまりないけど、ちょっと分かってしまった。そして、よく運動会でお父さんお母さんが、やたらカメラ構える理由がようやく理解できた。
「う……うぇぇ?」
そんな私の言葉に、はるはどこか目をうろうろさせる。少し顔も紅いし、ああ、そういう表情も可愛い。やっぱり、カメラ持ってくるべきだった……。
そのまま、しばらくちょっとあたふたするはるを見て笑いながら、あまり身体を冷やしてもよくないので、名残惜しいけど早々に退散することにする。看護師さんにも心配かけちゃうしね。
また、行きと同じようにはるをおぶって、帰り道をえっちらおっちら歩いてく。
下り道だから慎重にゆっくりと、だから、行きよりは、少しだけはるとお喋りする余裕があった。
「お母さん……やっぱり、お仕事休んできたの?」
「うん、そうだよ。でもだいじょーぶ、結構休み取れたから、しばらくは一緒に居れるよ?」
ぽつぽつと言葉を紡ぐ。切れた糸を、一つずつ縫い直していくように。
「………………ごめんなさい」
「………………んー? 何がー?」
はるの声は少し、自信なさげに揺れていた。
「…………その、私のせいで、仕事忙しいのに…………休まなきゃいけなくなっちゃって」
そうやって、漏らしてくれた言葉は、いつかの頃には聞けなかったものだろうか。
「ううん、はるが悪いわけじゃないから、気にしなくていいよ…………っていっても、はる気にしちゃうかもだけどさー……」
そう考えると、この状況を何というか、少しありがたいと思ってしまっている自分もいる。
「でも………………」
こんな、娘の躊躇いに、気付く機会を貰えているのだから。
「昔ね―――」
何気なく、言葉を漏らした。自然に、当たり前に、そう聞こえるように。
「…………?」
背後で、少し首をかしげるような気配がした。
「私は、きっとあんまり、いい『お母さん』じゃなかったと想うんだ」
ぐっとはるが私の肩を掴む手に、微かに力がこもった気がした。
「はるをずっと独りにして、寂しくさせて、それでも仕事のせいだって言い訳して」
こうして、口にする言葉は、今更だろうか、無責任だろうか、わからない。はるは、どんな気持ちで聞いているのだろう。
「ずっと目を逸らしてた。ずっと気付かないふりしてた。小学校の卒業式で、はるに怒られるまで、私はずっとちゃんとした『お母さん』になれないままだったの」
口にした言葉は、どこか告解じみていて、自分でもちょっと情けない。
「でもはるが怒ってくれたの。くろえがそれに気付かせてくれた。ずっと、はるが我慢してたことをね、あの時、二人に教えてもらったの」
冬の冷たい風から、背中のはるをそっと庇いながら、そんな言葉をぽつぽつと漏らし続ける。
「それからはね、ちょっとでもいいお母さんになろうとしたの。前より多めに帰ってきたり、大事な時には顔出したり、色々するようになったんだけど。正直、罪悪感みたいなものは消えてなくならかった」
私はいい親ではなかったのだ。普通の『お母さん』にはなれなかったのだ。この子の胸の中に遺った呪いが、きっとその何よりの証左だった。
「過去変わらないし、過ちは消えて無くならない。きっとね、私がはるにしたことは、一生かかったって償えないことばかりなの」
だからと言って、その傷を代わりに背負ってあげることもできない。だってはるの人生だもの。それだけは、きっと、誰にも、許されない。
「だからって言い方も変だけれど、丁度いい機会かなって気もしてるの」
だからこそ、私にできることは、結局―――。
「あの時、はるに寂しい想いをさせた分だけ、ちゃんと安心できるように」
「あの時、大事にしてあげられなかった分だけ、ちゃんと大事に出来るように」
ただ、それだけの―――罪滅ぼしを。
見方によっては、あの時、見過ごしてしまった、幼いはるの心と、もう一度だけ向き合う機会を貰えたのかもしれない。
その代償は計り知れなくて、それでも尚、犯した罪は消えないけれど。
「だからね、もし、はるが嫌じゃなかったら、一杯、いーっぱい、大事にされてほしいの―――」
ぎゅっと背中を、何かが掴む感触がする。少し熱を持って、震えるような感触がする。
「あの時、寂しかった分まで、一杯ね」
わからない、所詮置き去りにした親の言い分だ。この子の心に、どこまで届くものだろうか、わからないけど。
「私も、くろえも、あなたが誰より―――大切だから」
どうか、今、この子の幼い心が、少しでも報われればいいと。
ただ、そう願うことしか出来ないけれど。
山肌を抜けて、ふっと木々を抜けた先、少しだけ広場のような場所に出た。
そこからは、麓の街が、広く遠くに見渡せて。
勢いのある風が、遠く遠く、背中を押すように、どこまでも吹き抜けていく。
「ねえ、はる、見て」
背後で顔を隠したままの娘に、そっとそんな声をかけてみる。
「――――綺麗だよ」
こんな想いが、少しでも、あなたに伝わればいいのにと。
そんなことを願ってた。
私の背中は少しだけ、熱く微かに濡れた感触がした。




