第74話 姉と戯れる
はるが泣き始めてしまった時、どうしてか、私は安心してしまってた。
私の頭を必死に抱き留めながら、ぼろぼろとあなたは涙を零す。
熱くて、なのにどこか冷たい雫が、私の頬にぽつぽつと雨を降らせてく。
ああ、そうだ。はるはいつもこうやって泣いていた。
私が学校で嫌がらせを受けた時とか、誰かに酷いことを言われ時とか。
私よりも怒って、私よりも泣いていた。
もちろん、今のはるに、そんな気持ちも、記憶もないだろうけど。
でも、あなたが泣いてくれるのを見ていると、どうしてか、私の呼吸は少しずつ落ち着いていく。
私が見過ごして、無視して、踏みつけた私自身を、あなただけは見つけてくれているような気持ちになれるから。
私が上手く大事に出来ない私自身を、あなただけは大事にしてくれているような気がするから。
泣いてる理由は聞けないけど、でも、あなたの指が、そっと私の泣き跡をなぞっていくから。その意図はおのずとわかってしまう。
たとえ記憶を失っても、たとえもう『お姉ちゃん』でなかったとしても。
あなたは、変わらず、私が知っているあなたなのだと。
たった、それだけのことで、安心してしまう。
はは、我ながら酷い奴だね、大切な人が泣いてるっていうのに。
でも、今はもう少しだけ、この涙に甘えていたい。
落ちる雫が、伝う頬から少しずつ、私の何かを溶かしてく。
暗く、痛く、重い、そんな何かをじわりじわりと。
そうして、あなたの零した雫が一つ、ぽつりと私の眼元に落ちた。
その涙はゆっくりと、私の頬伝って落ちていく。
まるで、私が零した涙みたいに。
※
それから、どれくらいの時間が経ったんだろう。
10分のような気もするし、1時間のような気もするし。
ふっと何かの気配が消えた時、あなたの身体はゆっくりとベッドに倒れ込んでいた。
それとなく視線をあげると、少し荒れた、でも静かな呼吸があなたの身体を伝って聞こえてくる。
…………寝ちゃったかな。泣き疲れたんだね。
音を立てないよう頭をゆっくり起こして、無理な姿勢になってたあなたの身体を、私はそっとベッドに横たわらせる。
そうすると、少しはるの呼吸音がゆっくりと、穏やかになった気がする。
そんな様子に微笑んでから、ふっと顔をあげたら、気付けば窓の外はすっかり暗くなっていた。
……言ってる間に夕食かな。私も自分のご飯買ってこないと。
はるは……もう少し、眠らせといてあげよう。疲れてるだろうし、怪我をしたばかりなんだから、脳は少しでも休めておかないと。
なんて思考をしながら、そっと腰を上げかけた時、くんっと何かが引っかかった。
しばらく、首を傾げてその引き先に目を向けると、眠ったまま、ぎゅっと握られているはるの手があった。
その包帯を巻かれた白い手は、私の裾を掴んで離す様子がない。赤ん坊が反射で物を掴んでるみたいだ。
しばらくどうにか、起こさず手を抜き取る方法を考えたけれど、やがて無理だと諦めた。そして、私は椅子に、そっと腰を落とし直す。
あーあ、これじゃあ、ご飯買いに行けないぜ。なんて、音を立てないように苦笑いを浮かべながら。
そんな私の様子なんて露知らず、うちの眠り姫は眼元を紅くしたまま、すぅすぅと寝息を立てている。
私は、そんなはるの頬をそっと撫ぜながら、少しだけ息を吐いた。
頭の中は、正直、まだ少しぐちゃぐちゃしてる。
感情という感情を吐き出し尽くしたような。熱を持った何かが、頭の中でぐるぐると回り続けている感覚がする。
親父に告げた言葉、零してしまった涙、そしてそれを恐らくはるに気付かれた。
…………弱みを見せるにしても、もうちょっとだけ、隠しておきたかったな。第一印象くらい、もうちょっとだけ、かっこいいお姉ちゃんで居たかった。
そう想いはするけれど、すぐに出会ったばかりのはるが、ぷるぷる震えていたのを思い出す。なんなら、私と初めて私を抱きしめてた時も、はる、ちょっと涙目だったな。
じゃあ、お手本が悪いよ、お手本が。なんて嘯きながら、一人で思わずくすっと笑う。
はるにどう思われるかは、じつはこの際は二の次なんだ。
私がそうすると決めたから、私が傍にいると決めたから。
だから、この手は離さない。もうそれだけは、決めてしまった。
親父の意図はわからないし、何を思って立ち去ったのかもわからないけど。
もう大丈夫、もう誰にも文句は言わせない。
だってこれは、もはや私のエゴなのだから。
たとえ、誰に見放されても。たとえ、誰に見下されても。
私はもう、迷わないから。
…………だからまあ、肝心のはるにちょっと頼りないなこいつと想われても、気にしない……ことにしましょう。
だって、私がお世話すると、一方的に決めちゃったからね。変な虫に付かれたと、はるには諦めてもらうとしよう。
そうやって息を吐くと、少しだけ胸が軽くなる。
一杯泣いたからだろうか、一杯泣いて貰ったからだろうか。
身体は熱くて、目も喉も、少し腫れた感じがするけれど。
胸の奥はどうしてか、風が通ったみたいに、微かに軽い。
抱えていた痛みや迷いが、涙に溶けて、どこかに流れ落ちて行ったみたいだ。
ふぅっと息を吐くと、身体から少しずつ強張りが解けていく。
それから、眠るあなたに、そっとにんまり微笑んだ。
残念。もう、私から、逃がしてなんてあげないから。
「…………なーんてね」
そう嘯いていると、ふと、少しだけ身体が疼く感じがした。
…………少しむずがゆいような、…………何かを求めているような。
少しだけ思考して、思わず独りであーっとぼやく。
ちょっとだけ……ちょっとだけ、身体が温もりを求めてる。
一杯泣いて、一杯感情を消費したからかな、ちょっと補充が必要なのかな……。
しばらく自分の肩をさすって、軽く誤魔化しを図ってみるけど、何かが欠けたような感覚はなくならない。
どころか、少し火照った感覚が、思考をぐらぐらと揺らしてくる。
うーん……、もうすでに2回しといて、あれだけど、あんまりよくないことなのは解ってる。
好きでもない相手に、そういう欲求を向けられることを、人間は恐れるものだ。
だから、うん、本当はやらないほうがいいのは解ってる。
だけど……うー…………本当は、ずっと我慢してたんだよなあ。
ちゃんとはるの記憶があったら、親父との決別が済んだ時点で、いっぱい慰めてもら気だったし。…………初めてとか、そういうのも出来たらしたかったなあ。
…………だから、なんというか、その。
身体の火照った感覚が、理性をぐいぐい押しのけて、私の背中を押してくる。
一瞬だけだから、今なら気づいてないからと、悪魔の如き囁きで。
「……………………」
うー…………しゃあないか。今なら誰も見てないし、ひとりで発散するにも、病院でそういうのし辛いし……。
だから、その……ごめんね、はる。
心の中で、そんな謝罪をしながら、眠れるあなたの髪をそっとかき上げる。
そうして、穏やかに寝息を立てる綺麗な顔に、私はそっとかがみこんだ。
このまま抱きしめて、キスをして、溶け合って――――。
なんて夢想を抱きながら、私はほんの一瞬、微かに触れる程度に唇をそっと交わした。
柔らかくて、温かくて、少し溶けるみたいに。
頭の奥を暖かくて、蕩けるような何かが通っていくような。
そんな感覚に、一瞬、微かに身を震わせて。
「……………………っ」
…………………………?
唇を交わした一瞬、粘膜と粘膜が触れあう最中。
私の身体の震えと共鳴するように、触れた唇が微かに―――揺れた。
顔を上げてしばらくじっと、眼を閉じたままのはるを観察する、どことなく汗が滲んで、火照ったようなその顔を。
…………ていうか、表情が、何かを堪えるみたいに、ちょっと変な感じになってる。
唇を指で、ふみっと押した。
寝ているはるの身体がぴくんと跳ねた。今度は結構わかりやすい。
そのまま、ふみふみと紅く柔いその場所を、想うがままに愛でてみる。すると、眉根が段々と寄せられて、ぷるぷると小刻みに顔が震えだす。
「………………はる?」
そう問いかけるけど、返事なし。なるほど、そのまま狸寝入りを決め込む気なのね。
なので、あえて指を外して、そっとそのまま待機してみる。あえても音も立てず、気配も動かさず。目を閉じたままでは何をしてるかわからないように。
そうして、数分の沈黙が流れて、恐る恐る、はるの瞼が微かに持ち上がった頃。
「――――フッ」
その耳元に、小さく息を吹きかけた。
「―――ひゃぁんっ!!??」
同時にはるの身体がバタンと暴れ出して、どたんと勢いよく足がベッドを打った。
しばらく、急な反応に自分自身でびっくりしたはるを見つめる。
…………この期に及んで目を閉じてる。まだ眠ってる気でいるのだろうか。
まあ、そっちがその気なら、こっちだって考えがあるのだけれど。
「なるほど、眠り姫は、お目覚めのキスをご所望なのね」
そういってはるの腕をがっと抑える。まあ、その気になったら振りほどける程度の力で。
「へッ?! やっ、えと、違くて!」
そうして、さすがに諦めたのか、眼を開いて顔を真っ赤にしたまま、はるはあたふたと言い訳をし始めた。目に涙を貯めて、慌てた表情は、嗜虐心を高めるから止めて欲しい。ただでさえ、色々溜まっているというのに。
「ふーん、そういう可愛い顔しちゃうんだ。ふーん?」
たっぷりの笑顔でそう告げると、焼きだこみたいにはるの顔が、さらに真っ赤になっていく。
「にゃ!? にゃ、えと、あにゃ!? あにゃにゃにゃ!!??」
そうして、しばらく人語を失ったはると、どったんばったん暴れ倒して。
結局、様子を見に来た看護師さんに、二人揃って怒られるのは、また別のお話。
その夜、はるは顔を真っ赤にしたまま、私のことをこわごわとした瞳で見ていたけれど、それもまた別のお話。
ま、誰が悪いって言ったら、10割、私が悪いんだけどさ。
………………うーん、立派なお姉ちゃんって難しいな。




