第72話 姉を愛する理由—③
『愛してる』なんて言葉に、一体、どれだけ意味があるのだろう。
『好き』も、『恋』も、『大切』も。
結局、全部ただの音の羅列でしかなくて、それは今の想いも、未来のことも、何一つだって保証はしてくれない。
震えるような声で切る啖呵も、何度も何度も叫ぶように願う決意も。
わかってる、結局のところ、それに意味なんて何もない。
私がどれだけ想ったところで、はるの記憶は戻らないし、起こった事故もなくなりはしない。
ああ―――、喉が痛い。目は熱いし、指先はがくがくしてるし、息も鼻水で詰まって上手くできない。
こうやって、ぼたぼたと零す雫も、漏れる嗚咽も、結局、何の意味もありはしない。
わかってる、そんなこと。
だって、私はこいつの娘なんだから―――。
だから―――。
「そうか―――」
これから、何を言われようと。これから、何を否定されようと。
私は、私の意思を揺るがせない。
はるの隣を、私は誰にだって譲らない。
たとえ、どれだけ詰られようと、たとえ、どれだけ現実を突きつけられても。
私は―――。
「なら―――もう、何も言わん」
―――――。
「お前と俺は……もう、どうにも違うらしい」
え?
「俺はそれを理解しない、価値もわからん。だから―――」
言葉が上手く、見つからない。
「好きにしろ。もう―――何も言わん」
ただ、どこか感情の抜け落ちた親父の声を、漠然と聞くことしか出来ないでいた。
すると、不意に親父は腰を上げて、そのまま静かに扉に手をかける。
「後は、泣くなら……俺以外の前で泣け」
そうして、こちらを見ることもしないまま。
「俺は…………どうしたらいいのか分からん」
親父は静かに部屋を出て行った。
後に残されたのは、涙を零したまま。
ただ、呆然と見ていることしか出来ない、私だけだった。
※
検査がひと段落したところで、私はとたとたと病院の廊下を小走りで駆けていた。
思ったより時間がかかっちゃったから、結構、トイレを我慢してしまってた。お腹の奥から、ぶるぶると変な感触で身体が震える。
本当は、そのままトイレに直行したいけど、生憎生理用品は病室におきっぱだった。何回か、黒江に代えてもらったけど、そろそろ自分で出来るようになりたい。
なんて思考をしながら、とたとた走っていたら、不意にがくんと視界がぶれる。
うぇぇ……? な、なにごと?
そう想ってふっと、振り返ると、黒江のお父さんが、どこか呆れたような視線で私の首根っこを掴んでた。
「院内で怪我人が走るな、阿呆」
そんな彼の言葉に、私はたははと頭を掻いて、軽く頭を下げる。
「す、すいません……気をつけます」
そう言って、そっと歩き出そうとしたけれど、喉がうぐっと詰まってしまう。なぜなら、首根っこを掴まれたまんまだから。
…………な、なんでしょう。まだ、何かあったでしょうか?
そう想って振り返ってみるけれど、黒江のお父さんは、少し細めた目でじっと私のことを見ていた。まるで、何を見定めるかのように。
「待て、どこ行くつもりだ?」
そうして、そんなことを聞いてきた。はて……?
「え、そ、そりゃあ……、病室に戻ろうと……」
むしろ、そこ以外帰る場所が特にない。だけど、黒江のお父さんは、軽く目線を逸らすと、少し考え込むような顔をした。
「そうか、今は戻るな、後にしろ」
そして、何故かそんなことを言う。
「え……ええ? な、何か戻っちゃいけない理由とかあるんですか?」
思わずそう尋ねると、彼は少しだけ、目線を逸らした後、軽くため息をついていた。
「病室の掃除だ。だから、しばらく時間を置けとさ」
「そ、そうなんですね……あ、でも、忘れ物があるので、それだけ取りに……」
そう言って、再び歩き出そうとしたら、三度首根っこががくんってなる。ぐぅぅ、気分はまるで親に首を咥えられる子猫のよう。
「今は、行くな」
「え、でも―――」
ナプキンが……と口に上手くできなくて、あわあわとしていたら。さすがに何かを察してくれたのか、また深々とため息がつかれた。
「要るものがあるなら、買ってやる。だから、今は戻るな」
そうして零された言葉は、どこか有無を言わせぬものがあって、私は結局押されるままそっと頷くしかなかった。ナプキンはコンビニとかで売ってるのかな……?
そのまま、首根っこは離された後、そのどこか胡乱な背中に恐る恐るついていく。
何かあったのかな、戻っちゃいけないタイミングがあるとか……?
なんて考えてみるけれど、上手く想像も出来なくて。
結局、思い当りそうなことを、そのまま聞いてみるしかなかった。
「あの……黒江に何かあったんですか?」
そんな私の問いに、黒江のお父さんは、微かに足を止めた。そうして、こちらを一瞬振りかえると、どことなく静かな瞳を私に向けてくる。
「お前は、よく泣くほうか?」
そして、おもむろにそんな問いを投げてきた。思わず、うぐっと胸の奥に何かが詰まる。…………幼稚園で散々泣いて、先生を困らせた記憶が沢山あります。
「えと…………多分、それなりに」
なんとなくだけど、10年後の私も依然、そんな感じなのではないでしょうか。明確な根拠はないが、悲しいかな確信はある。
「そうか、俺は餓鬼の頃から、ほとんど泣いたことがない。そんなことしても、無駄だったからな」
自分の言葉に、ちょっとしょぼくれていたら、そんな言葉が頭の上から降ってくる。はてと首を傾げて、表情を窺うけれど、生憎、黒江のお父さんの顔は、こっちを向いていなかった。
「あいつにも、そう教えた。それが間違っていたとも思わん」
あいつ……? と、しばらく思考して、ああ、黒江のことかと思い直す。まあ、うん、黒江はあんまり泣かなさそうだね。私と違って、しっかりしてるし。
「ただ…………それでも人間は泣くものらしい。意味がないと解っているくせに」
そうして、続けられた言葉を受けて。
あ―――。
私はようやくその意味を理解する。
どうして、今、病室に行ってはいけないのか。
どうして、今、私がそれを見てはいけないのか。
ああ、と想ってしまった。そりゃそうか。
私はずっと、私のことで手一杯だったけど。
そりゃ、そうだよね。
誰にだって痛みがあって。
誰にだって不安がある。
それはきっと――――。
「わかったか、だから、今は行くな」
「…………はい」
告げられた、簡素な言葉に、私はそっと頷いた。
たった2日か3日だけれど、私を大事にしてくれた、あの人が。
まるで私の、親か姉かのように接してくれた、あの人が。
きっと、今は、今だけは、私に顔を見られたくないのだろう。
喉の奥が締め付けられるような感覚がして、それをぐっと飲み込んだ。
そうしていると、黒江のお父さんは、ふと何かを思い出したように口を開いた。
まるで、世間話でもするように。
「なあ、泣いてる餓鬼は…………どうやって、泣き止ませたらいいんだ?」
そうやって、問われた言葉に、私は少しだけ言葉を詰まらせて。
「…………すいません、わかんないです。……私、したことないから」
そうやって、ぽつりと零した、私の声に。
「そうか……」
黒江のお父さんは、ゆっくりと、ただ頷いていた。
「俺もだ」
こちらを振り向くこともないままに。




