第71話 姉を愛する理由—②
「ないよ――――」
言葉をそう呟くと、どうしてだろう、自然と笑みが零れてきた。
楽しい訳じゃない、これで親父の鼻を明かせるとも思ってない。
なんていうんだろう……そう……はるがよく浮かべていたような。
困ったなあって、痛い所突かれちゃったなあって。
そうやって、笑って誤魔化すような、そんな笑み。
「ちゃんとした理由なんてね―――実はないの……」
親父はそんな私に、どこか信じられないものでも、見るような瞳を向けていた。
「その……まだ……上手く、気持ちの整理なんて出来てないからさ……」
「なんで、まだはるの隣にいようとしてるか……正直、これって理由は……自分でもわからないの……」
呟いた言葉は、ぽつぽつと、まるで小さな子どもが隠していた秘密を漏らすみたいで。
「実際、親父の言う通りだと思うよ……はるは、もう……私のことなんて……想いださないかもしれない。…………昔みたいに、私のことを大事にしてくれることも……もうないのかもしれない」
言葉にするたび、何かが震える。目が、喉が、声が、唇が。
ぶるぶると、何処かで抑えていた何かが、ひびを広げていくように。
「正直、無理もしてるしさ……。このまま、はるの傍に、永遠に何もかもを忘れられたまま、ずっといれるかなんて……わかんない。いつか―――いつか、はるのことが………………嫌いになっちゃうこともあるのかな……やだなあ……」
それを口にするだけで、胸の奥を冷たい何かが走ってく。びきりびきりと、私の心の奥底を、薄い氷を割るみたいに呆気なく、ぐちゃぐちゃにしていく。
大切にしたものを、大切に出来なくなること。他の誰でもない自分自身が、それを想ってしまった時、私は本当に、私であることに耐えられるのかな―――。
「ずっとわかってたつもりだったの……。永遠の誓いも、不滅の想いもどこにもないって…………まあ、こんな形でわからされるとは……さすがに思ってなかったけどさ……」
でも、いざ失って突き付けられる。どれだけ諦めた振りをしても、どれだけ達観したように見せたとしても。
失くすことは、あれだけ積み重ねた想いを、忘れられてしまうことは。
どうしようもなく――――痛かった。
声なんて、出せなくなってしまうくらいには。
「はるがね、私のことを覚えてないんだなって、見せつけられるたびに……どうしようもなく、痛くなるの。ここに立っているはずなのに、現実だとうまく思えなくて……ずっと、身体の大事な何かが壊れたまま、歩いているみたいで……」
そして、その痛みを、はるにぶつけることだけは、許されない。
決して、絶対に。
「だから……どうして、自分がこうまで必死になって、はるの隣のいるのか―――本当はよくわかってないの……」
だって、もうはるは、私のことなんて覚えてないのに。
「本当は……手を握っている理由もないの……お姉ちゃんのふりをする理由もないの…………ただ、それを止めてしまったら……本当にはるが何処かにいっちゃう気がするだけで……」
ずっと一緒に過ごした、この10年間も。
必死に想いを告げた、この一か月も。
生涯忘れることなんて、ないと想っていた、あの夜も。
全部、全部、今となっては、もう私の想い出の中にしか残ってない。
「手を放したくない……だけなのかも。一度、愛してもらえたって……ただそれだけのことに……縋ってるだけなのかも。それで、いつか、また―――」
きっと、いつか想い出すって。
きっと、また愛してくれるって。
きっと、また抱きしめてくれるって。
「わかってる……、そんな保証、どこにもないって……」
そう零して、一つ、息をつく。
「今朝ね、夢を見たんだ……」
「朝起きたら、はるが私の名前を呼んで……いつもみたいに笑ってくれて……どうしたのって聞いてみたら……想い出せたよ全部って……心配かけてごめんねって」
「そしたら私ね、泣いて泣いて、抱き着いて……はるはそんな私に、仕方ないなあって。お姉ちゃんだからねって、ずっとあやしてくれて……」
「あれは我ながら、おかしくなっちゃった…………。願望が分かりやすすぎるよね、はるに知られたら、きっと笑われちゃう……」
親父は、何も言わない。
「でもね……じゃあやめるかって……はるの手を離すかって言われたら。ああ、それだけは絶対ダメって、そう想っちゃうの……」
零した雫を、そっと袖で拭きとる。
「まあね、恩人が自分のことを忘れたからって、すぐ見限るような恩知らずじゃないし……。もしはるの記憶が戻った時に、そんなことしてたら、喧嘩になっちゃうしね……」
そうして、ふっと笑みを浮かべる。
どうだろ、もしかしすると、はるのことだから、それでも許してくれるような気はするけど……。
ああ……喉が痛い。目も熱いし、声は震えてる。頭も、お腹も、胸の奥も……なんなら全身ちょっと痛い。そのまま蹲ってしまいそう。
でも、今はまだ、膝をつく時ではないから。
「あんなに愛してもらったのに」
「私はまだ、はるに全然返せてない」
「だって、これからね、一生かけて返すつもりだったの。私に費やした悩みと苦しみの時間を、全部返してもお釣りがくるくらい、一杯一杯、貰った分を何倍にもして―――たくさん」
「それでね、おばあちゃんになった時に、聞いてやるつもりだったの。私と一緒でよかったでしょ――って。私と過ごして幸せだったでしょ―――って」
「子どもの頃、はるが、手を握ってくれた、たったそれだけの恩返しを」
「私―――まだ、できてない」
きっと、はるは、そんなの返さなくていいよって、言う気がするけど。
でも、それじゃあ、私の気が収まらないから。
「うん、わかってるよ。合理的な理由じゃないよ」
でも、それでいいのだと、そう想う。
「先の保証なんて、何もない。全部、親父が言う通りの結末かもしれない」
それが怖くないと言えば、嘘になるけど。
「でも、もう決めちゃった。『そうする』―――って決めちゃったから」
だから、答えはもう、とっくに出ていた。
悩むことも、苦しむことも、迷うこともあるけれど。
どうしてだろうね、私の心は、もう、何をするかだけは明確に決めていた。
きっと、はるが記憶を失くした、あの時から。
…………ううん、もしかしたら、あの告白の夜から、もうとっくの昔に。
はるの傍にいることを、決して離れないことだけを―――。
きっと、ずっと前から決めていたんだ。
「たとえ、もう愛されていなくても」
「たとえ、あの人が自分にそんな価値なんてないって思っても」
「たとえ、もう何もかも想い出せなくても」
「これから全部作ってやるの」
「あの人が、私に与えた分だけ」
「あの人が、私にくれたぶんだけ」
「愛も、価値も、想い出も」
「全部、全部―――全部! 創ってやるの!!」
「理由がなくても、意味がなくても、見返りなんてどこにもなくても!」
「私の手で、あの人を幸せにしてやるの!!」
「10年失くしたから何!? そしたら20年かけて創ってやる!! それを失したら、今度は一生かけて思い知らせてやる!!」
「私のことを忘れたなら、またわからせるの!! そんでまた惚れさせてやる!! そうして、また恋をするの。何度も、何度も、何度だって!!」
「どれだけ―――壊れたって」
「どれだけ―――失くしたって」
「あの人は、私の……大切な人なの」
「そう……決めちゃったの」
「だから、だからね……」
「理由なんて―――もう、いらないの」
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