第70話 姉を愛する理由—①
「―――うん、おっけ。じゃあ、明日、病院で」
お義母さんとはるの移送について、事務連絡を交わして、私は一つ息を吐く。
あと、一日。とりあえず、そこまで頑張って、後は、その時考えればいい。
そう、改めて自分に言い聞かせるために、ふっと気合を込めたのだけれど。
『くろえ…………?』
スマホの向こうから、お義母さんの、少し心配そうな声色が響いてくる。
…………疲れでも出てたかな。少し鈍る頭を振りながら、軽く息を吐き直す。
「……ううん、なんでもない。お義母さんこそ、大丈夫? 仕事、急にキャンセルしたから、色々無理してるんじゃないの?」
そう言葉を零すけれど、少し私の様子を窺うように、沈黙が流れる。…………バレてるかなあ、ちょっと無理してるの。お母さんに見えないことをいいことに、こっそり舌を出して誤魔化す。
『…………ううん、こっちは大丈夫。こんな時のために、未発表の写真は結構貯めてるし、個展もぶっちゃけ私居なくても回るしね。まあ、照屋ちゃんは泣いてたけど』
幸い、少し心配そうではあったけど、それ以上の追及はとりあえずなかった。まあ、どうせ明日会うしね。
「…………うん、そっか。じゃあ、連絡はそんなところかな」
『わかった、ありがとう、くろえ。……はるは、今、代われそう?』
そんなやり取りをしながら、病室にそっと戻る。すると、ドアを開いた先では、はるがこっちを心配そうに窺っていた。…………それにしても、なんだろう、なんか言語化できないけど。
「はるー? お母さんがちょっと話せる? って、……どうしたの? この空気」
……なんか、ちょっと変な空気だ。はるは私を見ると、おずおずと手伸ばして、服の裾を掴んでくるし。よくわからないまま、はるの頭を撫でながら、軽く親父を睨む。
何かした? って聞いても、肩をすくめられるだけだったけど。
結局、答えも出そうにないので、そのままスマホをはるに渡した。スピーカーになってるから、そのまま会話もこちらに聞こえてくる。
『はる、お母さんだよ。大丈夫? 痛い事とか、辛い事とかない?』
「え……あ、はい」
明るい……ように、あえて響かせてるお義母さんの声とは対照的に、はるの声はしぼんでどことなく自信なさげだ。
…………そういえば、はるの記憶は6歳で止まってるから、まだお義母さんと仲直りする前なんだよね。小さい頃のはるにとって、お義母さんは、あまり会うことのできない、遠くて手の届かない存在だった。
…………これは、ちょっとフォローした方がいいかな。
そんなことを考えながら、そっとはるの背中を撫でて、その隣に腰を下ろした。
「大丈夫、お義母さん優しいから。言いたいこと、そのまま言っていいよ」
そう言いながら、不安げにこちらを見るはるに、そっと言葉を促す。はるはそのまま、どこかおずおずとしていたけれど、やがて少しずつお義母さんと話しをし始めた。
大丈夫、そう、きっと大丈夫。
とりあえず、私は、明日までちゃんと役割を果たせばいい。
はるにとっての、『お姉ちゃん』という役割を。
そうして、二人揃ってお義母さんと話す私たちを。
部屋の隅の親父は、どこか静かな瞳で見つめてた。
※
「…………何、なんか言いたいの?」
どうにか、ぎこちなさはあれど、はるとお義母さんのやり取りを終えて、はるが午後からの検診に向かった後。私は部屋の隅で、素知らぬ顔をしている親父に、そう声をかけた。
さっきの変な空気と言い、何かあるんだろうなって気はしたけど。とりあえず、はるが席を外すまではスルーしていた。
ただ、私がそう問うても、親父は軽く息を吐くだけで、何も言わない。
なんだ、このやろー、と内心の喧嘩腰が浮き上がるけど、頭が少しじんじんと痛むからそっと喧嘩腰を元に戻す。今はあんま、無駄なことで消耗したくないしね。
そうやって、少しふらついて視界を抑えていたら、さっきまで逸らされていた親父の視線がこちらに向いていた。
「随分と、健気だな」
そう言ったやつの瞳は、じっとこちらを見据えるように、細められていた。…………まあ、当たり前だけど、こいつには無理がバレてるか。
ふぅっと息を吐くたびに、身体のあちこちが軋む。思考は少し麻痺したみたいに、ぼやけてるし、目の奥はずっと熱を持ったみたいに滲む。
お姉ちゃんのフリをすることで、どうにか隠していた綻びが、気を抜いた瞬間に笑えるくらいに漏れ出てくる。……昨日も、正直あんまり寝れてないしね。
「まあね、明日移送だし、今日くらい、頑張んなきゃ」
でも、そんな痛みも、今は押し殺す必要がある。今の不安で張り裂けそうなはるの前では、こんな顔見せられない。
「なるほど、健気じゃないな、現実が見えてない、軽く憐れだ」
とか言って、人が強がってたら、こいつは平気で塩を塗り込んでくる。ああん? と心の中のヤンキーが、バットを構え始めるけれど。残念ながら、今は目線でしか再現できない。
「何? また心配でも、してくれてんの?」
そう言って、煽ってやると、軽く呆れたような視線が返ってきた。しかも、スマホを触ったまま、あえて興味もなさそうにしてやがる。くそう、舐めやがって。物があったら、殴ってる。私が、金属バットをもってなかったことに感謝しやがれ。
「…………そうだな、心配してやってる。そうやって、騙し騙し、自分の現状から目を背けてることにな」
とか思っていたら、そんな戯言を吐きながら、胡乱な瞳を向けられた。……くそう、煽るつもりで言ったのに、肯定してきやがった。……意趣返しのつもりかよ。
「…………何がさ」
多少、言葉に詰まって、返答が弱くなってしまった。そして、こいつは、そんな私に手加減するような、慈悲深い奴じゃない。
「『明日まで』、頑張ればいい、なんて限定をつけてるところがだ。別に、羊宮 紅梨が帰ってきたところで、あいつの記憶が戻る保証もない。そんなんで戻るなら、お前が最初にやらかした時に戻ってるだろ」
そして続けられる追い打ちは、あいも変わらず、鋭くて正しくて、おまけに人の嫌なとこばっかりついてくる。
「…………」
思わず私が押し黙ると、そのまま興味もなさそうに、奴は言葉を続けてくる。
「医者が言ってたろ、物理的に記憶が破壊されてたら、もう戻る保証はないってな。今だけ頑張る……なんて言うが、お前は一体いつまで、その『姉』とか言う似合わない仮面をつけていられる?」
「…………」
返す声が咄嗟に響かない。紛れもなく、それは私がずっと目を逸らしていた事実だから。
「1月か? 1年か? 10年か? それとも、死ぬまで演じるつもりか? お前のことは覚えてないまま、ただ餓鬼みたいに縋るしかできないあいつに?」
胸の奥がじくっと、針を突きさされたように痛む。そして、そのまま、ぐっと捩じりながら抉るように、冷たい金属めいた正論は突き付けられる。
「その末に、お前は―――あいつを憎まずにいられるのか?」
少し重い沈黙が流れた。
何も言えない、何も言わない、何一つ言葉にできない。
ただ、空気そのものが鉛のように、黒く、重くなったみたいに、上手く手足が動かない。
「そもそも、疑問だったんだが――――」
そうして、最後の一刺しを、私の喉元に突き付けるように、あいつは言った。
「もう―――あいつは、お前の求めた『姉』じゃないだろ?」
――――。
「お前を変えて、俺に啖呵を切らせた奴じゃない」
「記憶を失くして、縋ることしか出来ない、ただの抜け殻だ」
「『添え木』の役割すら失くした、あいつに」
「もうお前を愛してもいない、あいつに」
「そこまで、拘る意味はあるのか?」
「なあ、教えてくれよ」
「お前は、どうして、まだ傍にいる?」
「もう―――理由すら失くした癖に」
ふっと、一つ息を吐く。
多分、これはクソ親父が、私に投げかける最後の設問。
ただ、それだけを理解して口を開いた。
「ないよ――――」
きっと、これが、私たちにとって、ホントに最後の。
――――決別の聲。
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