第69話 私は私を知らない
「………………見ての通り……指輪だよ。…………大切なものだから、失くさないようにしまってて?」
そう言って笑う彼女の顔を見て、私は一瞬、何も言えなかった。
私のたった6年の記憶の中に、そんな風に優しく……なのに、悲しそうに笑う人を見たことがなかったから。
『My Dear』と刻まれた指輪は、何も言わないまま、私の手の中で冷たく光ってる。
親愛なる人……そう、誰かに想ってもらえるような人に、17歳の私は成れていたんだろうか。
そして、そう想ってくれる、誰かって一体……。
どれだけ考えても、私の記憶の中に、そんな言葉を贈ってくれそうな人は思い辺りがない。
じゃあ、もしかしたら……。
思考の狭間で、今朝された初めてのキスと、黒江のさっきの、言葉にならない笑顔が交差していく。
ねえ、黒江。これをくれたのってもしかして―――。
そう尋ねることも出来たはずだけど、結局、私は何も言えないまま。布団の中から、ねだるように、彼女に手を伸ばすことしか出来なかった。
そんな私に、黒江は仕方ないなあって風に笑って、なんでもないように手を繋いでくれる。
まるで、そうすることが、ずっと前から当たり前だったかのように。
指の柔らかな肌触りと、微かな体温を感じながら布団にくるまると、どうしてか自然と瞼が落ちてくる。
わからない、こんな感覚、私は知らないはずなのに。
眠る前に誰かに手を握って貰った記憶なんて、一つも覚えていないのに。
でも、今は。
この感覚が、私の胸を強張りを、じわりと溶かしていく。
独りじゃない。ただそれだけを伝える感覚が。
私の呼吸を、少しずつ解いていった。
今はただ、それだけが心地よかった。
※
翌朝、起きたら黒江は、先に顔を洗ってて、何も変わらないような様子で、私に笑顔を向けていた。
昨日、指輪の話をした時の名残は、何もない。
出会って2日か3日でこういうのもなんだけど、いつも通りって感じだった。
だから、結局、私はその後、何も聞けずじまいで。
明日には、地元の病院に移送されるから、検査を一杯受けることになって、正直、それどころじゃなかった。
問診を受けたり、頭の検査をもう一度したり、包帯を代えてもらったり。
なんか、思ったよりてんやわんやで、その間も黒江は私の隣で静かに微笑んでいた。
結局、解放されたのはお昼も回って、しばらくしてからで、その頃には私はすっかりへろへろになっていた。なんか、身体を他人に弄られるのって、こう言い知れない疲労感が蓄積する……。
そうやって、息を吐いていたら、黒江のスマホがブーンとなった。そのまま、彼女は画面をじっと見て、部屋の隅で待機していた黒江のお父さんに声をかけた。そして、私に軽く手を振りながら、そそくさと部屋を出ていってしまった。
…………電話かなあ。誰からだろう、お母さんとか?
…………ていうか、明日、お母さんと会うんだよね。なんか、緊張するっていうか。
私の知ってるお母さんは、世界を股に掛ける、誰より凄い写真家で……忙しくて、大変で、私なんかに構ってる暇のない人だ。…………こんな大変なことになって、迷惑になってないといいなあって、少しため息を吐く。
そうして、思わず零れた息に、黒江のお父さんの視線が軽く反応した。
う……うう。なんでもありませんと、首を横に振ると、興味なさそうに視線がまた逸らされる。
ぐぅぅ……、この人と二人になると、何を話したらいいかわからない。向こうはさっぱり、話しかけてこないし……。
どうしよっかなあ、この空気……としばらく、思い悩んだ末に、ふと妙案を思いつく。
そうだ……聞きたいことを、聞いてみればいいんだ。
「あ……あのぉ……」
そうやって口を開くと、またどこか胡乱な瞳がこちらに向いた。ぐ、ぐぬぬ、成人男性からのそういう、ちょっと不機嫌そうなオーラはとても怖い。……とても怖いけど、怯んでいても話は進まない。
「ちょっと、お聞きしたいことがあるんですけど……」
なので、どうにか、ちっぽけな勇気を振り絞って、そう尋ねる。気分は絵本の中の主人公のように、愛と勇気だけが友達なのだ。
「…………なんだ?」
無視されるかなあ、なんて思ったけど、意外とすんなり返事は返ってきた。どことなく、ほっとしながら、私はそのまま言葉を続ける。
「えっと、黒江のお父さん……なんですよね? ていうことは……私にとっても……お義父さん? ってことですか?」
尋ねながら、私はいまいち、この人がどういう人かよくわかってないことに気が付いた。昨日、ずっと隣に居たのに。まあ、そんな疑問をぶつけている暇もなかったとも言いますが。
「…………俺とくろえは、血縁だが。お前と俺は無関係だ。羊宮 紅梨と離婚した時点で、俺たちはただの赤の他人だ」
そうして、返ってきた答えはぶっきらぼうを通り越して、なんというか、興味とか関心すら乗っていないような感じだった。事務的な内容をロボットが話しているみたいというか……。仮に赤の他人でも、もうちょっと、情の含まれた会話になるんじゃないでしょうか……。
「…………そ、そうですか」
思わず、そのまま怯んで言葉を失いかける。ていうか、お母さんと離婚はしたけど……黒江は、私の義妹のままなの? そういうのってできるのかな? よくわからない……。
「………………」
なんて思考をしていたら、会話が途切れてしまったので、思わずあたふたしながら言葉をつづけた。
「そ、それで、えっと……黒江って、ど、どういう人ですか?」
口にしといてなんだけど、我ながら、質問があやふやすぎる。
「どういう人って………………」
案の定、黒江のお父さんは、はあ? と言わんばかりに表情を歪める。思わずうぐっと言葉に詰まってしまって、そのまま布団の中にこもりそうになる。ぐぅぅ、つらい。
「えと……あの……」
そうして、何も言えない私を、黒江のお父さんはしばらく、眺めた後、はあとどこか呆れたようにため息をついていた。
「………………知らん」
そうして、ぽつりと帰ってきた言葉に、思わずええと声を上げてしまう。
「えと…………親子……なんですよね?」
なんか、仲良さそうに見えてたのだけど、違うのかな。親子特有の気安さみたいなものを、なんとなく感じていたのだけれど……。
「……俺が、あいつの親だったのは10年前までだ。それ以降のことは知らんし、分かろうとも思わん」
そうして、彼はどこか呆れた風にため息を漏らすと、じっと私のことを見つめてきた。私はそんな視線に、ただ怯むことしかできない。愛も勇気もあてにはなりません。
「…………そ、そうですか」
どうにか、黒江との関係をヒントを得ようと思ったのだけど、どうやら当てが外れたようです。すごすごとベッドの上で膝を抱えながら、私はそっと視線を俯ける。これ以上、何言ってんだこいつ的な視線に耐えられなくなったので。
……うう、こっちだって、忘れたくて忘れてるわけじゃないのに。
そう思いながら、情けない涙を堪えている時だった。
「そもそも―――お前が変えたんだ」
不意に、投げかけられた言葉の意味が分からず、一瞬、声が止まった。
「……………………え?」
黒江のお父さんは、あまり表情を変えないまま、相変わらず呆れたように私のことを眺めていた。
「俺の知ってる頃のあいつは、合理的で、意味のないことはせずに、利益のために動いて…………まあ、他の馬鹿よりは、多少、聡かった」
そうして、淡々と言葉を続ける。
「そういう風に育てたからな。素質もあった。あのまま、放っておけば、俺と同じくらいには、金は稼げてただろ。変に、他人に執着するようなこともなかった」
どこか、遠くを見るように。
「俺は、それでいいと想ってた。そこらの馬鹿が宣う、愛やら幸せやらを求める人生より、そっちの方がよっぽどあいつのためになると想ってた」
ただ、どうしてだろう。
「――――そう、育てたはずなんだがな」
その顔が、少し……ほんの微かに。
「あいつは、俺の手から離れて10年経って、この街に啖呵を切りに来た」
細めた目が、少しだけ。
「お前と幸せになるんだと。俺とは違う人生を選ぶんだと」
少しだけ、寂しそうにも見えた。
「そんな答えを、出したんだとさ」
私は、黒江のお父さんの言葉に、何も言えないまま。
「だから―――俺は知らん」
ただ茫然としていることしか、できなかった。
「あいつは変えたのは、そもそもお前だ」
そんな私を、彼は色のない瞳を微かに細めて、じっと見ていた。
まるで、私の向こうにいる誰かを、見ているみたいに。
※
「はるー? お母さんがちょっと話せる? って、……どうしたの? この空気」
数分後、ひょこっと病室に戻ってきた黒江に、私は咄嗟に上手く言葉が返せなかった。黒江のお父さんは、あれからすっかり、素知らぬふりで何も言わないままだった。
黒江は、少し心配そうに私を見ると、「なんか変なことした?」って、黒江のお父さんに問い詰め出す。彼は、そんな娘の問いに、両の手をひらひらあげて、肩をすくめてた。
…………私が、変えた?
この人を? 黒江を?
わからない、6歳の頃の私は、そんなこと逆立ちしたってできる気がしない。そもそも、逆立ちすらできなかったのに。
語られれば、語られるほど、自分の歩んだ10年という時間が、段々と不可解になっていく。
ポケットにしまった『My Dear』と刻まれた指輪が、なんだか酷く遠い誰かの持ち物の様で。
この10年、私は何をしていたのだろう。一体、どんな気持ちでいたのだろう。
情報を知れば知るほど、私の知る私から遠ざかっていく。
それが、なんだか少し怖くて、黒江の服の裾をぎゅっと握った。
そんな私に、黒江は不思議そうに首を傾げたけれど。
やがて、安心させるように、微笑みを向けてくれた。
わからない、こんなふうに、誰かに大事されたことがないから。
わからないよ。この気持ちの名前が。
少しだけ、眼を閉じて、もう一度黒江の服の裾をぎゅっと掴んだ。
そうしないと、今ここにいる私が、どこか遠くに飛んで行ってしまいそうだったから。
そんな私を見て、黒江は何も言わないまま、やがて、そっと頭を撫でてくれていた。
さらりさらりと、髪を梳く音を聞きながら。
私は、ポケットの中の指輪を、ぎゅっと握った。
こんなふうに、大事にしてもらえるような、『価値』が。
本当に、私に、あったんだろうか。




