第66話 姉の身体を拭く
温め直してもらったタオルの熱を感じながら、それをそっとあなたの肌に触れさせる。
肌着と包帯だけのあなたの背中を、ゆっくりとなぞるように拭いていく。
タオルがうなじに触れた時、あなたは最初びくっと身体を揺らして、どこかおずおずと肩をすくめていた。
そんな震えを直に感じながら、私はゆっくりと、そのタオルを身体になぞらせる。
肩から腕へ、腕から指先へ、肩に戻って脇をなぞって、背中を撫でてからお腹の方へ。
ゆっくり、ゆっくり、包帯を崩してしまわぬように、大きな傷に触れないように、丁寧にその身体を拭き続ける。
「はる、痛かったり、こそばゆかったりしない?」
そうやって尋ねると、あなたは耳まで真っ赤にしたまま、ふるふると首を横に振っていた。とりあえず、大丈夫そうかな。我慢してるって感じでもない。
少しぎこちなさを感じながら、でも、はるの身体をちょっとずつ綺麗にしていく。
背中から腰回り、そこを通ったら太ももまで。
敏感な場所だから、痛くないように優しく。湧き上がる邪念は全部封じ込めて、今はただ眼の前のことに集中する。
はるは少しくすぐったそうで。恥ずかしそうにしていたけれど、不衛生にするのが一番まずい。だから、心を鬼にして、そのまま身体を拭き続ける。
太ももを通って、ふくらはぎ、足先へ。
そこまで拭けたら、貰ったタオルを取り換えて、あなたの髪をそっと撫でる。
タオルで拭くだけじゃ限度があるけど、少しでも汚れをとってスッキリさせてあげたい。所々見える、傷や痛みを見るたびに、微かに胸が痛むけど。それも全部飲み込んで、そのまま撫でるようにはるの髪をタオルで拭いていく。
ゆっくりゆっくり、私より長くて綺麗な髪を―――少し傷ついて傷んでしまった髪を―――労わるように綺麗にしていく。
「よし…………。はる、ごめんだけど、肌着の中は自分で拭ける?」
もう既にそれ以上のことをやってしまっているから、今更だけど。一応そう尋ねてみるとはるは慌てたように頷いて、残っていたタオルで、自分の服の中を拭き始めた。
そんな少し目に悪い様子を見ながら、私は細かいところを少しずつ点検していく。包帯のある場所は触れられない、でも、それ以外にも細かい傷や跡が、少し目についてしまう。
アスファルトや、小石で傷がついてしまったのだろう。青黒く滲んだ肌をなぞりながら、思わず少しため息が漏れた。
「…………え、えと、ど、どうかした? 何かダメだった?」
そんな息に勘づいてか、はるは心配そうにこっちを振り向いた。
「……ううん、そうじゃないけど。一杯傷がついてるから……痛そうだなって。代わってあげられたらいいんだけどね」
残念ながら、この世界に、そんな秘密道具みたいな手段はない。どれだけ心を痛めても、はるの身体についた傷は消えない。物によっては跡も残るのだろう。そんな事実が、胸の奥に突き刺すような痛みを連れてくる。
「う……うん」
そんな私の言葉に、はるはどこか申し訳なさそうに顔を俯けた。別にはるが悪い話でもないんだけどね。……まあ、落ち込みはするか。
「…………大丈夫、そんなに見えないとこだから、気にならないよ」
そうやって口にする言葉が、気休めでしかないことは、我ながら嫌でもよく分かった。事実、はるの顔は、まだ俯いたままだ。
そうして、拭き残した首や顔を、軽く拭いてあげて、とりあえずの清拭を終える。
ただ、肌着の中を拭くとき、はるは少し困ったような顔を浮かべてた。
……ああ、そういえば、ナプキン代えてあげないとね。しばらくしたら、やり方を教えた方がいいと思うけど、最初は見てあげた方がいいかな。
そう想いながら、ふぅっと軽く長めにため息を吐く。
ちゃぽっとお湯に浸したタオルの中に、指が沈んで、その感覚にそのまま少し浸ってた。
「…………黒江?」
そしたら、一瞬意識が薄まりかけたけど、はるの言葉ではっとなる。ダメだ、気が抜けてた。もうちょっと頑張らないと。
とりあえず、これを看護師さんに返して、後ではるをトイレに連れて行って……。
少しでも、わずかでも、この人が不安を抱かぬように……。
そう想いながら、鈍った腰をどうにかあげて、タオルと湯桶を小脇に抱えた。心配そうに首を傾げるはるに、軽く微笑んで何でもないふりをする。
「大丈夫、これちょっと返してくるね?」
そう言って、あなたに軽く手を振ってから、病室を出る。
あなたの不安そうな視線だけを、背後に感じたまま。
そうして、誰もいない廊下に出て、人目がなくなった瞬間。
息が漏れて、思わず腰がずるずると落ちていく。
ああ、やば。ちょっと、疲れてるかな。
ずきずきと頭が痛む。漏れた息が浅くて、上手く呼吸ができない。
喉の奥から何かが零れていきそうで、なのに雫の一つも落ちやしない。
「ちょっと……頑張りすぎたかな」
浅く震える指を抱きながら、思わずそう吐息を零す。
わかってる、正直、今あんまりまともじゃない。
はるの事故、記憶喪失、失くしてしまった私との想い、お姉ちゃんとしての気負い……あと、シンプルに身体の疲労。
色々とたたってる。無理しないってお母さんと約束したばかりだけど、ちょっとやりすぎてるかも。
でも、だからと言って、今、はるを独りにするのは論外だった。きっと、今日が一番、はるにとって、心細い夜だから。
だから、そう、今日くらい頑張らないと。
「…………よっこいしょ」
少しおばさんっぽい掛け声をあげながら、ゆっくりと重い腰を上げる。
さっきも正直、本音を言うなら、そのまま抱き着いて泣き出したかった。できるはずもないけれど、もし許されるのなら、そうしたかった。
でも、今はダメだ。今だけは。
脳裏に浮かぶのは、私のために必死に叫び声をあげていた、幼い頃のはるの姿。
「…………ほんっと、大変だね。お姉ちゃんも」
鉛のような足を引きずりながら、誰もいない廊下で、どうにか前を向く。
お義母さんが帰ってくるまで、あと二日。
頑張れ、私。
ふらつく足を引きずりながら、独りでおーって腕を上げる。
そういえば、よくはるもこんなことやってたなあ……。
そんなことを想うと、少しだけ懐かしくて、微かに笑みが零れた。
同時に零れそうになった何かは、そっと見えないふりをする。
※
そうして、食事も終えて、無事ナプキンの取り換えも終わることができた。
病室の消灯時間は早いから言ってる間に、後は眠るだけだ。
看護師さんに用意してもらった仮設ベッドを、はるの隣に広げながら、私は少しだけ腰を下ろした。
身体は重い、頭は鈍いし、胸は痛い。
でもまあ、なんとか今日一日は乗り切れたかな。
明後日にはお母さんが帰ってくるから、あとは実質明日だけ。
そう想うと少し気も楽になる。ふぅって漏れた何度目かもわからない息を、あなたに聞こえないよう本で隠した。
そんな私を、はるはどことなく不安そうに見つめてた。
うーん……まずい、態度に出てるかな。ただでさえ、はるは自分のことで手一杯なのに、あまり心配をかけるのはよくない。
だから、あえて何でもないふうに、笑みを返すと、はるはどうしてか少ししょげたように視線を俯けてしまう。
そんな様子に、少し戸惑っていると、やがてはるは顔を俯けたま、小さく言葉をそっと零した。
「…………やっぱり、私、邪魔?」
そうして、響いてきたのは、少し辛そうな。どこかいたたまれなさを含んだ声。
どうしてか、その声を聴くと、私の胸までぎゅっと締め付けられるような感じがする。
「……………………」
咄嗟に否定すればよかった、そんなことないよ、って。そう言ってしまえば終わりなはずだった。
でも、そうやってはるの言葉を遮ることが、今はどうしてかできなかった。
「…………ごめんね、私いっつも、誰かの邪魔……みたいなの」
そうやって口にする、はるの声は、微かに震えてて、迷子になった子どもみたいで。
「私がわがまま言うと、お母さんのお仕事の……邪魔になっちゃうし」
そんな声を聴いてると、胸の奥がじわりと滲んでいくよう感じがした。
「幼稚園でもね……私、どんくさくて……みんなの邪魔ばかりしているの」
私はそれに何も言えないままで。
「だから…………その…………黒江も、私が邪魔だったら。ちゃんと言ってね?」
そうして、はるはどこか自信なさそうな表情で…………どこか泣きそうな表情で笑ってた。
「頑張って……邪魔にならないようにするから」
そんな、あなたの言葉で、胸の奥に孔がトンと開けられたような感じがした。
ああ、と思う。
分かっていたことではある、ずっとずっと、はるという人の隣にいて、うっすらと気付いていたこと。
誰かの重荷になる罪悪感、見捨てられる不安、それを隠すための拙い笑顔。
お姉ちゃんという鎧の向こうにあった、ちっぽけな幼い心。
「今日も……一杯、迷惑かけちゃった……ごめんね。黒江も疲れてるのに」
しばらく言葉を失った。
そして、思わず額をそっと手で覆う。
自分への苛立ちとか、不安とか、痛みとか、欲とかそういうものが、どっと頭に押し寄せてくる。それをただ受け止め続ける。
こんな人の隣で、私は自分の苦しみに酔っていたのかと思うと、ちょっと過去の自分を殴りたくなる。
まあ、言ったところで、もうどうにもならないけどさ……。
ふぅって息をこぼした、今度は包み隠さずに。
手の影の向こうで、はるが微かに怯えるような気配がする。
…………まあ、そうだよね、たったこれだけで、ため息一つだけで怖いんだ。
自分は誰かの邪魔なんだ。みんながそう思ってる。
そんな恐怖を、ずっと抱えて。
今日、一日、一体どれだけ怯えていたのだろう。
何も出来なくて、何もわからなくて、それでも誰かの迷惑になっている感覚だけは、鮮明に感じたまま。
この人は、どれだけの苦しみの、渦の中にいたのだろう。
すぐに顔を上げたいけれど、今は少しだけ、気持ちが落ち着くのを待つ。多分、無理して繕った言葉なんかじゃ、はるのこの不安は解けない。
だから、多分だけど、私も少し―――想いを晒す覚悟がいる。
胸の奥から漏れた息が、段々と落ち着いてきたタイミングで、ゆっくりと顔を上げた。今度は笑顔で取り繕わずに、そのままの私の顔で、あなたを見る。
「はる―――」
そうやって声をかけるけど、あなたは肩を縮こませて、どこか座りが悪そうに、怯えたように私を見ていた。
そんな姿に少し胸が痛むけど、今はそれに構わず、ゆっくりとそっと手を伸ばす。
あなたの指は少し怯えるように、後ずさる。だから、それは無理に追わずに少し離れたところに手を置いた。
きっと、この距離は、まだそう簡単には埋められない。
でも、それでも少しずつ。
指を、微かに伸ばしていきたい。
「手……出してもらっていい?」
そう静かに聞いてみる。あなたは不安そうな顔のまま、少し首をかしげる。
やがて怯えたように、でも微かに、おずおずとはるの手が伸びてくる。
おっかなびっくり、まるで、知らない獣にその手をそっと預けるみたいに。
まあ……わからないなりに、手を伸ばしてくれる程度の進歩が、今日は出来たのかな。
その手にそっと触れると、あなたは微かにびくんと身体を揺らした。
だから、ゆっくりじっくり、そのままその手を怖がらないように、優しく包んだ。
「ちょっとだけ、私たちのこと、話してもいい?」
そうやって、尋ねるとあなたの顔がはっとなって、私を見上げる。
きっと、ずっと尋ねようとしていたのかもしれない。
でも、怖くてできなかったのかもしれない。
それを理解したうえで、私はそっと微笑んだ。
昔のあなたの顔を想い出して、今度は出来るだけ無理のないよう肩の力を抜いて。
「私ね―――はるのことが好きだったの」
そうやって、あなたに言葉を切り出した。
その言葉が、どうあなたの心に響くのかはわからないけど。
それでも、どうかと。
あなたへの想いを、言葉にしよう。
暗い真夜中の、他に誰もいない病室の中。
この世界で、誰より大切なあなたに向けて。
私の想いを、言葉にしよう。
たとえそれが、あなたの中から、もう失われていたとしても。
何度でも、何度でも。
決して、潰いえることのないように。
ふっと息を吸った、その瞬間。
服の中に隠したネックレスが、私の胸で微かに揺れていた。




