第65話 私は縋る
血が身体から広がっていく。
怖かった。苦しかった。
身体と頭がちぐはぐで、それが何より怖くて、何も出来なくて。
きっと、普通の人にとってはあたりまえの、その出来事がどうしようもなく怖くって。
不安で、悲しくて、情けなくて堪らないのに。
どうしてか、黒江に抱きしめられていると、少しだけそんな気持ちが緩んでいく。
身体に触れる温かさが、ほんの少し、荒れる息の震えを抑えてくれる。
触れ合う頬の柔らかさ、撫でられる指の優しさ、重なる身体の温かさ。
どれも、たった6年の私の記憶にはないものだったけれど。
身体は、ただ、その感触だけで安心してしまう。
まるで、壊れてしまった記憶以外の何処かが、そのぬくもりを覚えているような。
嗚咽と、喘ぎを漏らしながら、そんな温もりに触れながら。
縋るようにその身体に抱き着く。
まるで、産まれたばかりの赤ん坊みたいに。
初めて誰かに抱きしめられた子どもみたいに。
ただ、そのぬくもりに縋ってた。
※
あれから、しばらくたって、冬の日はだんだんと落ちていく。
窓から差し込む弱い明かりが、暗くなっていくのをぼーっと眺めながら、私はもぞもぞとベッドの上で座り直した。
………うーん、まだ、ちょっと気持ち悪い。下着の中が濡れているような、擦れるような、そんななんともいえない感じがする。おもらしをそのまま、放置しているような不快感というか。
そして、それを感じると同時に、今日起こった出来事が頭の中でフラッシュバックして、うーってなる。泣きながら赤ん坊みたいに、大事なとこのお世話をされた事実に、顔がぼんって沸騰しそう。
そんな私に、隣の黒江は、本に落としていた顔を上げながら、不思議そうに首を傾げてた。その顔を見ると、余計に顔が紅くなるから、そっと知らないふりをする。
そうして独りでこっそり悶えていると、部屋の隅に座っていた、男の人……黒江のお父さんらしい……が、ふぅっと息を吐きながら腰を上げた。それから、腕時計を見ると、顔を上げて私たちをそっと見下ろす。
「俺たちはそろそろ引き上げる。あと何かあったら、ナースコールでも押せ」
え、と思わず口から声が零れた。
そ、そっか。病院ってずっといられるわけじゃないんだ。入院してるのは、あくまで私だけだから、二人は別の場所に帰らないといけない。
ちょっと考えれば、すぐわかるそんな事実に。思わず頭が真っ白になる。
そっか、昨日は私、目を覚ましてすぐ寝ちゃったから、気付いてなかった……。これから、しばらく独りなんだ。
喉の奥が、なんでかぎゅっと締めつけられるような感じがする。
いや、でも私は17歳なんだ。独りで病院にいるくらい、わけないよね。きっとご飯食べて寝るだけだし。
そう、ただでさえ、今日はいっぱい迷惑かけてるし、これ以上困らせちゃいけないのだ。
そうやって、頭で自分に言い聞かせてはみるけれど。
「………………はい」
口から漏れた言葉は、情けないくらいか細くて、すぐに消えてしまいそうだった。
ダメだ、心配かけちゃいけないのに。
お腹の奥がじくじくと痛むのを、ぐっとこらえて上を向く。大丈夫、大丈夫だから。
そうやって、顔を上げて、前を見た。
笑え、いつもみたいに。幼稚園で、お母さんとのテレビ電話で、何度も何度もやってきた。
大丈夫。
私は、大丈夫だから。
そうして顔を上げた瞬間に、黒江の視線が一瞬だけ、こっちに向いて。
「大丈夫で―――「ねえ、親父。病院って泊まれるんだっけ?」
私が声を出そうとした瞬間に。
「え―――?「……どうだったかな、金払えば、仮設ベッドくらい借りれた気もするが」
何でもないふうに、そんな会話が始まっていた。
「そっか、出来そうだったら、今から、申請お願いしていい?」
黒江のお父さんも、そんな様子にさして驚いた雰囲気もない。
「…………構わんが、お前らの荷物はどうする? 確かに、旅館に置きっぱなしなんだろ?」
まるで淡々と、事務手続きを進めるみたいに、会話を続ける。
「んー、そうだね……。親父が家で預かっといて? で、お義母さんが帰ってきたタイミングで返してくれたらいいや」
私はそれに何も言えないままで。
「……わかった。俺は手続きを終わらせたら、旅館で荷物受け取って、そのまま引き上げる。それでいいな?」
二人がやりとりを終えるのを、ただ唖然として見つめてた。
「ん、オッケー。はる、ってなわけで、ちょっと病院に泊まれるか聞いてみるね?」
そうして、黒江は私にそっと微笑むと、ひらひらと手を振ってくる。
私はそんな彼女に何も言えないまま、顔を俯かせることしか出来なくて。
「やっぱ、独りは寂しいもんね」
そんな彼女の言葉に、隠した顔がただ熱く火照るのを感じてた。
※
6歳までの記憶は、正直、そんなに多くはない。
小さすぎる頃のことは、覚えてないし、それ以外もどことなくぼやけてあやふやだ。記憶が抜けても、10年以上前だという事実に変わりはないみたい。
ぼんやりと覚えているのは、独りで本ばかり読んでいた幼稚園の光景と、家政婦の田川さんが帰った後の、誰もいない部屋の冷たさだけ。
そこにじわりと広がるような、どうしようもない寂しさばかり。
そんな寂しさを想い出すと、どうしてか喉が痛くて、眼元が滲んで震えてしまう。
でも、泣いたところで、独りぼっちの夜に聞いてくれる人など誰もいないから。
何時からだろう、泣き声をあげなくなったのは。
冷たい布団の中で、零れる涙の意味を失くしてしまったのは、いったいいつからだったろう。
結局、黒江の宿泊許可はすぐ下りた。
現金だけど、そんな事実に、胸を締め付けていた茨のようなものが、ふっと緩む感じがする。
迷惑をかけている罪悪感は消えて無くならないけど、それでも、独りじゃなくなったっていう安心感の方がちょっと勝ってしまう。
少し味の薄い病院食を食べ終えて、看護師さんに包帯のチェックをしてもらいながら、そんなことぼんやりと考えた。
私は、なんだかんだ、この黒江という覚えのない義妹のことを、ちょっと受け容れているんだろうか。出会ったばかりの頃は、わけがわからなくて怖かったとこもあったけど。でも、今は独りにしないでいてくれることが、ただありがたかった。
……あちこち、着いていくのは、ちょっとやりすぎかなあとも思うけど。でも、独りになってしまうと、なんだか、そのまま、今の私は夜風に流されて消えてしまいそうな不安があった。
考えすぎだとは思うけど。でも私は今、何もわからないし、誰も知らない。だから、黒江の中のかつての私の記憶だけが、ここにいていいという錨のような気がするから。
だから……離れるのが、少し不安なのかな。
包帯の検分を終えて、明るめの髪色の看護師さんは、にっと微笑んだ。
化膿してないし、傷も悪化してない、これなら身体拭いても良さそうだねって。
そう、言われて、私は思わずはっとする。
そう言えば、私事故に遭ってから、お風呂なんて入ってない。身体中怪我だらけだし、そりゃそうなんだけど。
消毒液の匂いで誤魔化されてから気付かなかったけど、もしかして、今の私って結構臭い……?
今日一日、黒江にくっついて回った光景が、頭の中に浮かんでさーっと血が冷たくなっていく。
「………………あ」
そんな私を黒江は不思議そうに眺めて、看護師さんはふっと何か思いついたような顔で、黒江を振り返っていた。
そうだ、知らない人より、妹さんに拭いてもらった方が、気持ち楽かな?
そうして、そんな言葉を口にした。
…………え?
思わず固まって、上手く返事が出来ない。
でも、そうか、家族……だもんね? それが自然……なのかな? わかんない。
そんな私を、黒江は少し首を傾げて窺っていた。
『どうする?』 って聞かれてるみたい。
え、え、えと。
ど、どう、どうしたらいいのでしょう……。
そういえば、結局、私と黒江の関係って、何なのだろう。
ただの義姉妹……というには、初めての、あの……キスが邪魔をする。
あの後、黒江は何も教えてくれなかったし。
も、もしかすると、何か『普通』じゃない関係ということもありうる。
結局、あわあわしているうちに、看護師さんはお湯とタオルを用意して、黒江にやり方を説明し始めてしまう。黒江はそれを熱心に聞いていて、伝え終えると同時に、看護師さんはカーテンを閉めて、笑って部屋を立ち去ってしまった。
「じゃ、身体拭こっか」
そういって、黒江が腰を上げて、湯気のたつタオルを手に、そっと私に歩み寄ってくる。
「………………え、と」
そうして、私が何も言えないうちに。
「ほら、はる―――服脱いで?」
そう、何気なく、私に脱衣を迫ってきた。
…………。
なんか、とんでもないことになっております!!
ど、どど、どどどど、どーすればいいのでしょう!?
いや、でも、とっくにもっと恥ずかしいこと、もうされてるし。臭うのはよくないし、ああ、でもでもでも…………。
そうして、暴れる感情で、虚空に腕をぶんぶん振りまわす私を、黒江は不思議そうに眺めてて。
結局、身体を拭き始める頃には、入れてもらったお湯は少し冷めていましたとさ……。
とほほ……。




