第64話 姉のふりをする
「生理用品は……いくつか見繕った、適当に使え。あとは替えの下着、ウェットティッシュ、痛み止めは、確か医者に処方されたのがあったろ。使うか知らんが、一応血液落としも入れてある」
女子トイレを出たすぐそこのところで、親父がぶっきらぼうに渡してきたビニール袋の中を検分する。私は、ちょっともやっとしながら、その中身を改めていた。
「…………なんか手際いいの、腹立つなあ」
普通、男が生理用品の買い走りなんてさせられたら、多少なり不手際が出るものだと思うけど。
「女の相手をするときに、生理関連の世話ができると、色々と取り入りやすいからな」
「さよですか……」
聞くんじゃなかった、と内心舌を出す。まあ、今はその手際の良さに救われてるけどさ。
「他に、必要なものは?」
「ううん、ない。すぐ私達も戻るから、先、部屋に行ってて。請求はまとめて、後でよろしく」
そんな私の言葉に親父はそっと頷くと、背中を向けて、部屋に戻っていった。私はそれを見届けたら、すぐに振り返って、トイレ内の個室に戻る。
何はともあれ、今はやるべきことをしないと。他に誰もいない女子トイレの中、はるのいる個室に戻る。すると、不安そうに俯けられていた顔が上がって、震えるような瞳を向けてきた。
絶妙に、胸の中の庇護欲を揺らされながら、ふうっと息を吐く。
…………落ち着け、今は心を揺さぶられてる場合じゃない。
というか、一瞬離れただけで、そんな泣きそうな表情をしないで欲しい。そのまま抱きしめたくなってしまう。
「ごめん、お待たせ。じゃあ、気持ち悪いのだけ変えちゃおっか」
そう言いながら、個室のドアを閉めて、はるの膝の前にそっと腰を下ろす。
「う…………うん」
はるはどこか不安そうに頷きながら、でもそのまま動く様子はない。頷いてはいるけど、具体的に何をするべきかまでは、思い至っていないのだろう。
身体と知識は17歳でも、記憶や精神は6歳のままだ。
ふぅっと息を吐きながら、胸の震えをぐっと抑えて、はるの汚れた下着に手を伸ばす。
「ごめんね、これ、脱がしちゃうね?」
そう言って、そっとはるのショーツに手をかけて、ゆっくりそっと、怯えさせないように足から引き抜いていく。
そうしていると、胸の中が不整脈を打つみたいに、じくじくと滲む感覚がするけど。今だけは見ないふりをする。
今、なにより大事なのは、はるを安心させること。
それ以外の感情は、二の次だ。
はるは少し不安そうにしたけれど、そのまま、抵抗なくショーツははるの脚から離れていく。
それをすっと外し終えて、そのまま空いたビニール袋に詰めてしまう。入院用の簡素なやつだし、もうこのまま捨てちゃおう。
それから、替えの下着の封を解いて、淡々とナプキンを付け直す。大丈夫、一緒に暮らしたんだもの、はるが使うサイズは頭に入ってる。
…………まあ、さすがに直接替えたことはないけどさ。
そうして、はるに下着を着け直してもらおうと思ったところで、少し手を止める。
ショーツを引き抜くときに、足が少しおりもので汚れてた。……それになにより、やっぱり大事なところを、ちゃんと直接拭いた方がいいんだろうな、不衛生だし。
多分、はるの記憶がちゃんとあったら、一生しないであろうこと。
逸る心臓は無理矢理呼吸で抑えつけて、そっとウェットティッシュを、太ももに優しくあてがう。
「ごめん、着ける前に、一回拭くね?」
そういって、あなたの頭を優しく抱き留めながら、ゆっくりゆっくりはるの大事なところに、そっと濡れたティッシュを当てる。ビックリしないように、傷つけてしまわぬように、かたかたと震えるあなたの肩を抱きながら、そっと、でも丁寧にそこの血糊を拭きとる。
はるの息が肩で、震えている、熱いのに少し冷たい不思議な感覚。
胸の奥は痛い程、拍動してるけど、表情はただ穏やかな笑みを張り付ける。
そうして、そっと大事なところを拭き終えて、他に血汚れがないことを確認してから、その脚にゆっくりとショーツを通した。
そうして、最後にパジャマのズボンを上にあげて、労わるようにあなたの頭を撫でる。
「うん、頑張ったね、えらいよ、はる」
そう言って、笑ったら。
あなたは、涙に顔を濡らしながら、でもおずおずと頷いた。
その頭を、もう一度ゆっくり抱き留める。
甘い空気の中に、消毒液と血の香りが混じった、淡い匂いがする。
冬場の冷たいトイレの中で、その震えるぬくもりをただ感じながら。
ふぅっと一つ、はるに気付かれないよう息を零した。
『お姉ちゃん』も大変だなあ、なんて想いは言葉にしないまま。
未だに少しぐずる、あなたの肩を抱いていた。
※
そんな諸々の処置を終えて、病室に戻ると、何食わぬ顔で親父は部屋の隅の椅子に座ってた。当然、何があったかなんて聞いてこない。
私も当たり前の顔をして部屋に戻るけど、はるだけは顔を赤らめて俯けたまま、おずおずと私の後ろに隠れてた。気のせいか、私の服の裾をずっと掴みっぱなしだ。
とてもかわいくていじらしいけど、やっぱり少しショックだったろうか。
6歳の精神にとって、突然の生理というある種の暴力的な体験は、いったいどれほどのダメージになるのだろう。
想像することはできても、結局は今のはるにしか推し量れない感情だ。
よしよしとその頭を撫でると、少しだけはるの頭がそっと、私に寄せられてくる。
記憶があるころには、多分、みせてくれない甘えに思わずうっと胸が詰まる。何故だか、少し、罪悪感まで湧いてくる。
なんか、無垢な子どもを手籠めにしているような……。必要なことだとはわかりつつも、なんともいえない気分にもなってしまう。
ある程度自重しないと、本当に、ダメな過ちを犯してしまいそう。
だから、まあ、あまり近づきすぎるのもよくないかな……とか思ったんだけど。
「…………どこ行くの?」
「ん? 飲み物でも買ってこよっかなって」
しばらく時間が経って、ふと腰を上げたところで、はるは不思議そうに首を傾げてた。私の服の裾を小さく摘まみながら。
「………………そっか」
そう言った後、どことなくしゅんと顔を俯かせる。まるで、親に見放された子どものようだった。
「………………………はるも、くる?」
だから、なんとなく、そう言った方がいい気がした。
そして、そんな私の言葉に、はるはすっと顔を上げると、私の顔をじっと見た後。
「うん」
そう言って、小さく、でも確かに頷いた。
そうして、売店の自販機まで行く間も、はるは私の服を摘まんだまま、後ろをとことこついてきて。私がカフェオレを買うと、どこか興味津々と言った感じで、その様子を眺めてた。
はるも飲む? と、聞くと、無言でこくこく頷いてくる。
そのまま、ベンチで二人してカフェオレを啜っていると、隣でなんだか小さくおおっと呟く声がした。多分、記憶の中で飲んだことはないんだろうけど。身体は大人だから、味の好みは変わんないのかな。
そのままごくごくと、勢いよく飲むはるを横眼に眺めながら、思わずくすっと笑ってしまう。
そんな私をはるは、少し不思議そうに見つめてた。
それからの後は、都度、私が席をはずそうとすると、はるはじーっと私のことを無言で見つめてきた。どうしたの? って聞いても何も答えないけど、一緒に来る? って聞くとぴょこぴょこついてくる。私の服の裾を摘まんだまま。
そんな、私たちを親父は何とも言えない視線で見つめてた。
………これは、なんだろ懐かれたかな。
気分は子ガモを連れて歩く、親ガモのよう。
一応、全身打撲で頭も打ってるはずだけれど、意外とはるは元気について歩いてくる。
嬉しいと言えば、嬉しいけど。実態としては、私以外頼れる相手がいないんだろう。
記憶にない、知らない場所、知らない人たち。
そんな中で、トイレでの一件から、とりあえずこいつは信用できるっていう扱いにはなれたのかな。
悪い気もしないけど、本当にどこにでも着いてくるから、ちょっと苦笑いも浮かんでしまう。私のトイレにまでついてきたしね……。さすがに、個室の外で待ってもらったけれど。
子どもが出来た親とかは、こういう心境なんだろうか。
浮かんでくるのは、弱みに付け込んでいるような罪悪感。そして、まあ依存させるという当初の目標を達成したような感覚。あとは、シンプルに生き物として可愛すぎて、どうしようという動揺で胸が埋め尽くさせれてる。
そんな、何とも言えない空気の中で、私は独り個室の中で少し息を吐いた。
外でははるが待ってるから、あまり長居は出来ないけど。
「………………」
口から漏れた息が、微かに震えてるのを感じた。
わかってる、ちょっとだけ無理してる。
『はるが―――大切な人が、傷ついて、自分のことまで忘れてしまって、「大丈夫」なんてことあるわけないの』
お義母さんの言葉が、脳裏をゆっくり通り過ぎていく。
はるの世話をするっていう名目と、どたばたで押し殺してはいるけれど、多分、私の心はまだその事実を受容れきれてない。
本当は、今の瞬間にでもはるに飛びついて、そのまま泣き出してしまいそう。ねえ、お姉ちゃん、想い出してよ。忘れないでよって。あんなに好きだったんだよって、そう叫び出してしまいそう。
でも、今のはるには、そんな言葉受け止められない。
何より、誰より、今苦しくて寂しいのはる自身なんだから。
漏れた吐息に少し熱がこもってる、それを押し殺すように、長く長く、吐き続ける。
無理はしちゃダメって言われてる。それはわかってる。だから、やり過ぎはしない。
でも、同時に出来るだけ、頑張りたいと想う私もいた。
きっと、10年前、はるも同じ気持ちだったから。
私が独りぼっちになって、はる自身も寂しいのに、それでも私の手を取って。
あの時、守ってくれた、あの人に、あの想いに。
今、報いる時だから。
ふぅって一つ息を吐く。それを区切りに前を向く。
眼元に滲んだ、微かな涙は、今はそっと優しく拭う。
頑張れ、私。
今、大切なあなたの心を救うために。
頑張れ。
そうして、扉を開けて、少し不安そうに首を傾げるあなたに、そっと優しく笑いかけた。
「お待たせ、はる」
きっと、今、あなたにとって私は嵐の中で見つけた、ただの添え木のようなものかもしれない。
でも、それでも構わない。
あなたがくれた、いつかの優しさに報いられるのなら。
構わない。
今、この役割を全うできるなら。
そんな私を見つめて、あなたの不安そうな表情が、少しだけ和らいだ。
今は、それだけで充分だった。




