第63話 私は何も出来ない
病院の廊下を、小走りで駆けていた。
顔を真っ赤にしながら、逸る息をどうにか落ち着けながら。
目を覚ますと自分は17歳になっていて、記憶の消えた10年の間に知らない義妹が出来ていて。
そして、その義妹にキスをされてしまった。
…………そういう本が探せば、世の中のどこかにありそうだなあ。
それにしても、うう……、なんで、どうして、こんなことに。
頭がぐるぐるして、心臓がばくばくして、身体はずっとどこか火照ってる。
だって、私の主観ではファーストキスなんだよ?! それが、私視点では初対面で、義妹で、女の子同士で!?
お、お、落ち着けというのが無理なものでしょう!!
病院の廊下は冷たいはずなのに、燃えるような身体はさっぱり冷えず。頭をぶんぶんしながら歩いているのものだから、通りすがりの看護師さんが不思議そうに見つめてくる。
うう……いかん、落ち着こう。
そう想いながら、トイレのある場所にようやくたどり着く。
というか、全身打撲と包帯だらけなのに、こんな脈拍がおかしくていいものだろうか。なんか、さっきからお腹も妙に落ち着かないし。
もじもじと、身体の奥から湧いてくるかゆみを堪えながら、個室に入ってトイレの便座にそっと腰を下ろして。
パジャマのズボンを下ろそうとした時点で、ふと気づく。
なんか……、変に気持ち悪いような。
汗が酷く蒸れているような、お腹の奥がずしんと重たいような。
何かが―――濡れているような、そんな違和感。
そんな疑念を抱きながら、すっと下ろした下着の影から、『それ』が見えた瞬間。
頭の奥から、さっと冷たい何かが、滴り落ちるような感覚がした。
え。
赤い。
絵の具の黒を、わずかに混ぜたような、そんな粘度を持った何か。
違う、血だ。
え。
さっきまで火照っていた頬が、一瞬で熱を失ってしまう。
足の隙間から、濁った雫が下着を伝って、私の下腹部を汚していく。
じわじわと、何かが広がる。
言葉にならない感情が、お腹の奥をぐちゃぐちゃにかき混ぜて、不快感がじわりと喉から昇ってくる。
そのまま、トイレの個室の中で、何もできずにただ固まる。
思考と行動が、その赤に全て塗りつぶされてしまったみたいに。
どう……どうしたらいいんだろう。拭け……拭けばいいのかな。
慌ててトイレットペーパーを手に巻きつけて、恐る恐るその場所に手を伸ばすけれど、じわりと赤黒い染みが広がって、思わず手が滑ってしまった。
そのまま、染みた血が手について、足について、あちこちが赤黒い跡で汚れてしまう。
ああ、ああ。
ど、どうしたら。
わからない、助けを呼ぼうにも人の気配もない。
スマホは病室に置いてきちゃった。こんな恰好のまま、外にも出られない。
誰か、誰か。
―――たすけて。
そう呟いてみるけれど。
うまく声にならなくて。
喉からひりひりと痛みが湧いてくる、息が震えてどうしようもなくなる。
頭が真っ白になって、どうしたらのいいのかもわからない。
誰か。
そう願ってみるけれど。
誰を頼ればいいかなんて、何もわからなかった。
どうやって助けてもらえばいいのかすらわからない。
結局、何もできずに、そのまま震えることしか出来なくて。
怖くて、辛くて、仕方がなくて。
独りで、泣き声を上げることもできないまま。
私はただそこに居て。
ああ、やっぱり―――。
そんな言葉が、喉から漏れかけた瞬間に。
「はるー? 大丈夫?」
扉の向こうから、そんな声がした。
※
「う、え…………うう」
「はいはい、大丈夫だよ。心配しないで」
結局、その後、心配して様子を見に来てくれた黒江に、泣きつくことしか出来なかった。
「ごべ…………ごべんなさい」
「はるは、悪くないから。謝んなくていーよ。だから、ほら、大丈夫」
義妹のはずの女の子に、情けなく下も履いてない状態で、濡れた顔を受け止められる。ぽんぽんと優しく背中を撫でられて、どうにか鼻水で詰まった呼吸を続ける。
「血…………血が出ちゃって。どうしたらいいか……わかんなくて」
「うん、ビックリしたね。……生理は、わかる?」
そうやって、黒江は私を抱き留めながら、穏やかな口調で尋ねてくる。私は絶え絶えな息のまま、その肩で必死に首を縦に動かした。
生理はわかる。知識としては、どんなものかは知ってる。
でも、いざ目の前にするのは、今の私は初めてで。独りで。血を見ただけで、どうしたらいいかわからなくなってしまった。
「………………うぅ……ゔん」
「そっか。……別に何もおかしい事じゃないから、安心して? 病気とか事故のせいじゃないし、血が出たからってはるが悪いわけでもないし」
「………………ゔん」
「でも、びっくりしたよね。……私も気付いてあげたらよかった。ごめんね?」
「………………ゔうん」
何も分からないまま、子どもみたいに、年下の義妹に慰められる。黒江は髪をさっと揺らしながら微笑んで、おでこを私の額にうりうりと合わせてくる。そうやって、励ましてくれているみたい。
「さて、とりあえず現状をどうにかしないとね……」
そして、黒江はそう言うと、んーっと唸りながら見回した。私の手にはまだ血が付いたトイレットペーパーが握られていて、私のせいで黒江の服も少し血で汚れてしまっている。
慌ててそこを拭こうとしたら、ぽんぽんと頭を撫でられた。慌てないって言われてるみたいで、安心と不安といろんな感情が混ざって、ぼろぼろと涙が零れるのが止まらない。
「よし、今とりあえず手に持ってるのは流しちゃおう。後は、できるだけ拭いて、ナプキンは私のをとりあえず使って……。っていっても、色々足りないか」
しばらく、口元に手を当てて、考えていた黒江はすっと腰を上げた。えって思わず口から声が漏れてしまう。
「ちょっと、必要なもの取ってくるから、待ってて? すぐ戻るし。私以外に誰か来ても、無理にドア開けなくていいからね?」
私の涙を袖で拭いながら、黒江は優しく微笑んだ。それから、私の頭を何度も撫でて、それでも涙を零し続ける私を、あやしてた。
その間、私は何も言えず、ただぼろぼろと雫を零すことしか出来ないまま。
「ごめんね、ちょっとだけ待ってて?」
そう言って、黒江が後ろを向いた瞬間に。
思わず、咄嗟に手が伸びて。
その服の裾を、掴んでしまった。
「あ…………」
ほんの少し、小さく摘まむ程度の力。
でも、黒江の身体はびくんと止まって、私の方を不思議そうに振り返った。
「えと……はる?」
そう心配そうに首を傾げて、私の顔を覗き込む彼女に。
「………………」
私は結局、何も言えないで。
「……え、えと…………離れないほうがいい?」
そうやって問われても。
ただ涙を零すことしか出来ないでいた。
※
「…………ってわけだから、一式お願い。うん、私ちょっと動けないから。院内のコンビニなら、大体売ってると思う。うん、頼んだ」
結局、そのまま黒江を、その場に引き留めてしまった。
黒江はしばらく悩んだ後、どこかにスマホで通話をかけていた。
なんだか酷く迷惑をかけているような気がして、それでまた、泣きそうになる。でも、そんなことすら見透かしたように、くろえは私の背中をぽんぽんと撫でていた。
「大丈夫、気にしないでいいよ。すぐ、なんとかなるし」
そう言って、スマホをポケットにしまうと、私の手にあったトイレットペーパーをそっと受け取る。
それをそのままトイレに流すと、ポケットから出したウェットティッシュで、私の身体を少しずつ拭いてくれた。
顔を、手を、太ももを…………あと、汚れてる大事なところの傍を。
ウェットティッシュの冷たい感覚が、お腹に触れて、一瞬びくってなったけど、くろえはそんなこと気にした風もなく、優しく丁寧に拭いていく。
なんだか、こんなことをされていると、まるで自分が赤ん坊か何かになったみたいだ。……おしめの世話でもされてるような。
さすがにそのころのことは、覚えてないけど、こんなに大きくなった身体で、大事なところの近く拭かれいているのは、少し恥ずかしい、黒江もこんなことしたくないだろうし……。
優しくそっと、私の身体を拭き終えて、黒江はふぅっと息を吐いた。
その頬が少し、血で汚れているのは……私が指で触ってしまったからだろうか。
「ん? はる?」
思わずそこにすっと手を伸ばして、私が汚してしまった顔を綺麗にしようとする。でも、滲む血は薄く弾き伸ばされるだけで、指だけじゃちゃんと拭けない。
「…………? ああ、汚れてる? いいよ、後で拭くから」
そう言いながら彼女は、頬に赤い跡をつけたまま、何気なく笑った。
私はそんな姿に何も言えないで、少し目線下げることしか出来ない。
申し訳なさ、恥ずかしさ、無力感、色んなものがない交ぜになって、ぐるぐるとお腹を痛めつけてくる。
「ほら……、もう、そんなに落ち込んだ顔しないで?」
言いながら、彼女はそっと私の頭を撫でてくる。
そうすると、なんでかお腹の中に抱えてたものが、どろっと溶け出していくみたいで。
そうして、余計に訳も分からず泣いてしまう。
胸が痛くて、お腹が痛く、喉が痛くて、ぼろぼろで。
違うのに、泣きたいわけじゃないのに。
お礼を言って、後片付けして、本当は全部自分で出来なきゃいけないのに。
こうやって、誰かにしてもらって、安心してしまっている自分がいる。
うう………………。
そうして、結局、何も言えないまま、一つ下の義妹に頭を撫でられながら。
私は、ただ泣き続けることしか出来ないでいた。




