第62話 姉を依存させる
他に誰もいない病室の中、私とはるでただ過ごす。部屋の隅に椅子を置いたクソ親父は、そっと見ないふりをして。
一応の暇つぶしに持ってきた文庫本を広げながら、ちらっと様子を窺うと、ベッドの上からこっちを横目に窺っていたはると目が合った。手には、スマホがじっと握られている。
「え……あ……う」
「…………? どうしたの、はる」
「え、えと…………ううん! な、なんでもない! あ、そうだ、と、トイレ行ってきます!!」
「ん、了解。部屋でて右ね」
いいながら、はるは少し顔を紅くしながら、スマホを持ったまま部屋を出て行く。どことなくおぼつかい足取りで、スリッパをぱたぱたと鳴らしながら。
そんな背中を、ぼんやりと眺めて、扉が閉まったあたりで、はあと背後からため息が聞こえてきた。
「おい……、何やらかした」
ちらっと振り返ると、私と同じように、本に目を落としていた親父が胡乱な眼で私を見ていた。しかし、何をやらかしたとは心外な。
「キスしただけだけど?」
ぶっと何かがむせるような音がした。そのまま、ごほごほと親父が息を詰まらせる音を聞きながら、閉まった扉をぼんやりと眺める。はる、早く帰ってこないかなー。
「記憶喪失の相手に……? 普通するか? そんなこと……」
そんな背後からの声に、私はつんと視線を逸らす。
「結婚詐欺師に、常識とか問われたくないんだけど」
まあ、そうは言いつつも、ちょっとやってしまった自覚はある。
何せ今、はるから見れば私は、限りなく他人に近い家族っぽい人。
本来は初対面の人にするように、段階的に親しくなっていくべきなのだろう。
しかし、まあ、そういうのを完全にすっ飛ばして、距離を詰めてしまった。案の定、はるは酷くぎこちなくなってしまっている。
照れや動揺が表に出てくれてるのがまだ幸いかな、恐怖や嫌悪が先に出されてたら、ちょっとまずかった。我ながら、だいぶ賭けに出てしまった気はする。
「結婚詐欺師に、やばいと思われる程度の手口なんだよ…………」
うるさい、正論をぶつけてくるんじゃない。なんか、段々心配になってくるから。
そのまま、あえて言葉を無視してやると、再び深々とため息が零された。くそう、まるで私が、色ボケで、何もわからないはるに手を出したみたいじゃないか。割とそれであってるけれど。
「………………」
ただ、あの時、階段の踊り場ではるが浮かべた顔は。
寂しそうで、不安そうで、どことなく困ったような笑みを浮かべてて。
幼い頃、仕事に向かうお母さんへ、何も言えなかった頃と同じ顔をしていた。
ああいう時のはるは、私が何を言っても「大丈夫だよ、私は平気」と言うだけで。
その瞳から零れそうな何かを、必死に抑えていたような気がする。
だからかな、ちょっとわからせたくなった。
そんな、見せかけの大丈夫が、本当に私に通じる気でいるのかと。
ちょっと、思い知らせたくなった。
………………うん、要するにカッとなったんだな。
そんな私に、親父は改めて、嘆息をついていた。
「…………はあ、ここまで色ボケに教育した覚えはないがな。頼むから、契約期間の間に、余計な問題を起こしてくれるなよ」
うるせえ、これ以上、人の傷をほじるな。ちょっと、後悔はしてるんだ。
だから、んべっと舌を出しながら、あえて拗ねた顔をしてやる。
「そしたら、あんたの報酬がなくなって万々歳じゃん」
「そしたら、お前はこの三日の安全と利便性を失うんだ。あの姉に万が一があっていいなら、それでいいんじゃないか?」
…………くそう、そこではるを盾に出してくるんじゃない。……まあ、言う通りな部分もあるから、多少自重はするけどさ。
でも、こいつ相手はたとえ理屈が通っていても、感情が納得しない。我ながら、めんどくさい部分だけれど、変えてやるつもりもない。
「…………ふーんだ」
なので、小説に戻って素知らぬ顔をする。ていうか、はるはどうしてるだろう、トイレの場所で迷ってたりするのかな。
そんな思考をしていたら、ぱたんと本が閉じられる音がした。ちらりとそちらを窺うと、親父は相変わらず色のない瞳で、どこか不思議そうに首を傾げてた。
「それともあれか―――依存させ直すのが目的か?」
空気が一瞬しんとなる。
「元々、共依存じみてたからな、今の内に快楽を覚え込ませて、離れなくさせるのが狙いか?」
そんな奴の表情は、どことなく冷たく、感情のない虫のようだった。
「なるほど、そしたら今度こそあいつは、お前から離れられんだろうな」
静かに、でも内心、見下しているのがよくわかる声だ。
「意思も、尊厳も奪って、自分のものにする。赤子と同じだ、どうにでも染められる」
私はそんな奴の言葉に、そっと眼を閉じる。
「ああ―――俺が教えた通りだな」
そうして、どこか冷たく言い放つ奴に、私はふぅっとため息を吐く。
しばらく、微かに張り詰めた空気が、部屋を満たす。
それにしても……私がはるを依存させてるって?
「ま、そうかも」
よくわかってるじゃん。さすがは実の父親。
ただ、そう口にした当人は、私の言葉にどこか虚をつかれたように固まっていた。
なんだ、言い当てといて、その顔はないでしょ。
それとも、私が必死になって否定する想定だったのかな、それはご期待に添えず申しわけない。
ちらっと病室の扉を見るけれど、未だにはるが帰ってくる気配はない。だから、仕方なく本を置いて、ため息交じりに口を開いた。
「…………昔のはるってさ、結構自信なくて、不安がりで、臆病だったの」
ふぅって息を漏らすと、瞼の裏に、小さなはるの姿が想い描かれる。泣きながら、震えながら、私の『お姉ちゃん』のふりをしていた。
「でも、『お姉ちゃん』って役割を頑張ってる時は、そんなことおくびにも出さなくてさ。さも当然のように、立派なお姉ちゃんのふりしてたの。まあ、餓鬼の頃の私でも、すぐ気づくような強がりだったけどね」
いつも、いつもそうだ。冷たいベッドの中で、私の手を握るはるの手は、いつも微かに震えていた。
「だから、多分、私と出会う前は、きっともっと不安で苦しくて仕方がなかったんだと想う」
良くも悪くも、役割が人を作るという。はるにとって『お姉ちゃん』はきっと、その恐怖を抑えてしまうくらい特別なものだったのだ。
でも、それは今―――記憶と一緒に、無くなってしまった。
はるは、今、誰の『お姉ちゃん』でもない。
「きっと、今は、心の弱くて臆病な部分が剥き出しなんだよ。『お姉ちゃん』っていう鎧がないから、上手く守れないし、隠せない」
あの時、階段の踊り場で見せた、寂しそうな「大丈夫」はきっと、その何よりの表れだった。
「だからまあ…………出来る限りは、甘えさせよっかなって」
かつては、私が頼る側だった。
本当は不安で苦しくて、自分一人で立っていることすらおぼつかないはるが、私のために必死に添え木のような役割を担ってくれていた。
独りぼっちで上手く立ってられない私を、はるはずっと支えてくれていた。
それを依存と呼ぶのなら、そうなのだろう。
でも、私はあの時の記憶が、間違いだとか、本当は許されないことだったとは思わない。
「依存っていうなら、まあ、そうだけど。でも誰だって、最初は誰かに寄りかかってないと歩いていけないじゃない?」
多分、それは本来、大人に向けるべきものなのだけど、私たちはそれが上手くできなかったから。
別にそれを改めて責めるつもりもない。でも、あの時、私たちはきっとお互いに寄り添わないと生きていけなかった。
「いつかは離れるかもしれない、近づきすぎたら、相手の意思や自由を奪うかもしれない。…………でも、それでも、きっと人は誰かを頼りにしないと、生きていけないんだよ」
たとえ、それがどれほど歪んで見えたとしても。たとえ、それがどれだけ見せかけの『添え木』でも。
私達は、きっとこの形でしか生きていけなかった。
「だから、まあ……私ははるを、徹底的に甘えさせるつもり。落ち込んでたら、励ますし、自分を否定してたら、嫌でも自分の価値を解らせるし。孤独なんて感じさせてあげない。…………まあ、手段がちょっとあれだったのは認めるけどさ」
だから、結局、これは。
私がはるにしてもらったことを、返しているだけ。
あの時、私を死ぬほど甘やかしたあの人を、お返しに死ぬほど甘やかすだけ。
結局は、それだけの話だ。
「自由を奪うとか、尊厳を奪うとかは……まあ、やりすぎないように努力はするよ」
そんなこと、はるがした試しがないから、わからないけど。
べっと舌を出して、そう言いきってやると、親父は細めた目でじっと私のことを見ていた。相変わらず、何考えているかわかりゃしないや。
まあ、今はどうでもいいけどね。
それにしても、はるが遅い。……頭を打ってるから、万が一ってこともあるんだよね。
ちょっと様子を見てこようと、そっと腰を上げる。
そんな私に、親父は少しだけ細めた瞳で私を見た。
「なるほど―――今度はお前が『添え木』になるわけだ」
そして、そんな、よくわからない言葉をぽつりと漏らした。
私はそれに何も応えず、ばたんと後ろ手に扉を閉める。
ふぅっと漏れた息が、少しだけ肩の力を抜いていく。
それでも、踏み出す脚には、確かに意思がこもってる。
微かに震えていることには、今は、気付かないふりをした。
※
病院の廊下を歩いて、トイレにつくとしまっている個室があったので、ここかなあと声をかける。
「はるー? 大丈夫?」
倒れてたりしたら大変だから、ちょっと気になったけど、衣擦れの音がするから意識を失ってるわけでもないらしい。うう……とか、ぐすっとか、何とも言えない音だけが聞こえてくる。
…………んー、いきなりキスは、さすがに動揺させすぎたかな。
しかし、あの寂しそうな顔を、塗り替える手段が他に思いつかなかった。……いや、嘘だな。もっといっぱいやりようはあったと想う。つい抑えきれなかっただけで。
なんて、独り反省をしつつ、はるの様子を窺う。ていうか、なんか泣いてない? さっきから、やたら、何かをこする音も聞こえるし。
「はるー……?」
もう一度尋ねると、がたんと音がして、しばらく沈黙が流れた。
首をかしげていると、やがて重々しく、トイレの鍵が外される音がした。
だけど、中からはるは姿を見せない。
………………?
なんとなく、周りに人がいないのを確認してから、そっとはるが入っている個室の扉に触れる。キィっと軋む音を立てて、扉が開く。
そこにいたのは、洋式の便座にちょこんと腰掛けるはるの姿。当たり前だけど、下は降ろされていて、無防備な太ももが少し視界に悪い。
暴走したばっかりだし、あまり見ないようにと心がけながら、横目で様子を窺うとどうしてかボロボロに泣いているはるの姿があった。
そんな手には、くしゃくしゃのトイレットペーパーが山ほど握られていて、そのどれもが、不自然に、赤黒く、滲んでる。
「………………あー」
しばらく、言葉を見失う。
…………そうか、そうだね。記憶が抜けてたら、そういうのが、わかんなくなってもおかしくないのか。
スマホは普通に触れるから、油断してた。思わずちょっと額を手で抑えてから、ふうっと軽く息を吐く。
「うう…………えと、………どうしよう」
そうやって、自分の身体の異変に涙ぐむあなたの声は、か細くて。
そんな姿さえ、可愛いと想えてしまうのは……まあ、私が歪んでいるからなのだろう。……よくないねえ。
不安にさせないよう笑いかけながら、私は内心こっそり反省する。
「大丈夫、大丈夫、心配いらないから」
そう言って、とりあえず、あなたの身体を優しく抱きしめる。
と、同時にそんな行いに、少し安堵してる自分もいる。
はあ、依存させるのか、なんて聞かれたけれど。正直、油断すると私の方が依存しそう。
だって、こんな可愛い生き物に泣きながら頼られて、張りきらない人間がいるのだろうか。
記憶がなくなって、不安で、辛くて、苦しいあなたを見ていると、胸に孔が抉れたように痛むけど。
こうやって、抱き留められるのが、嬉しいとも想えてしまう。
そんな矛盾に苦笑いを零しながら、私はおりもので濡れてしまった、あなたの手を、そっと握った。
大丈夫、大丈夫と、何度も何度も言い聞かせながら。
小さな子どもを、あやすみたいに。
そんな私の手の中で、あなたは涙に顔を濡らしながら、ぐすぐすと鼻水を啜ってた。




