閑話 男は苛立つ
下らないものを見た。
それが端的な感想だった。
あの後、交通事故らしき音を聞いて、外に出てみれば、交差点の真ん中で何も出来ずに泣き崩れる、馬鹿娘がいた。
その手の中には、血まみれの、あの写真家の娘。
そうら見ろ、と内心毒づく。
他人に依存するから、愛なんぞ頼りにするから、そんなことになる。
あれだけの金を使って、啖呵を切って、結末がこれかと、思わず嗤った。
馬鹿々々しい、下らない。
眼前に映るのは、さっきまでの強かさの見る影もない、無力な餓鬼。
そんな風に泣き叫んでいる暇があったら、さっさと救急車でも呼べばいい。泣いたところで傷の一つも閉じないのだ。やるべきことをさっさとやれ。そんな無意味なことで時間を潰すよう教えた覚えはない。
そもそも、交差点のど真ん中で泣いてんじゃねえよ。危機管理の一つもできないのか。轢いた側の運転手まで、動揺して事態がさっぱり進展してねえ。
交通事故の後処理は、一分一秒を争う、その迷いの差が、そのまま生死や後遺症の境を分かつ。
………………いや、どうだっていい。そんなこと、考えたところで、俺には一円の足しにもなりやしない。
だから、俺のするべきことは、このまま踵を返して部屋に戻ることだ。午後の予定だってある。
こんな茶番に付き合う、意味はない。
だから―――。
「――――」
「たすけて―――だれか」
だから―――。
奥歯を噛みしめて、足元に落ちていた煙草を、力の限り踏みつけた。
本当に下らない、何もかも、どいつもこいつも。
その弱さも、その愚かさも、その欠落も。
何もかも、馬鹿馬鹿しくて仕方がない。
こんな下らない苛立ちに、流される自分さえ。
殺してやりたくて仕方がなかった。
そのまま、吸い殻を蹴飛ばして、返したくもない踵を返した。
意味もない、理由もない、情もない、価値もない。
こんな苛立ちにすら、結局のところ、何もないのだと。
そんな言葉を繰り返して。
※
高校生の頃、読んでいた心理学の本に、『愛着』という言葉があった。
曰く、哺乳動物が、幼少期に発達させる、根源的な安心や信頼をそう呼ぶらしい。
幼少期に適切な『愛着』を持って育てられた個体は、他人を自然と信頼し、他者と適切な愛情をはぐくめる。
反対に、『愛着』を何らかの原因で、形成し損ねた個体は、常に不安と恐怖に苛まれ、集団の中で孤立していく。
その本の中に書いてあった実験では、猿の子どもを親元から離して、その様子を観察していた。
幼い時に親から離された猿は、攻撃的になり、他者を信頼しなくなり、場合によっては精神に異常をきたす。
ただ、そんな猿が、正しく育つ場合もある。
それはある猿に、母親の代わりに、毛布を巻いた『添え木』を与えた時だった。
柔らかくて温かい、そんな刺激があれば、それで愛着は形成されるらしい。
読んでいて、鼻で嗤ってしまったのを覚えてる。
愛情だなんだ、といってその程度かと。触れ合いと呼ぶのすら烏滸がましい。
毛布の巻いた添え木が、あるかどうか。その程度で、人は愛着を覚える。
そして、その程度すらなかったから、人は愛着を失うのだ。
この胸に空いた欠落は、この途切れることのない不安と猜疑心は。
たった、その程度で産まれたのだ。馬鹿々々しい。
そういえば、俺を育てた女も、俺を抱きしめたことなんて終ぞなかった。
ホスト狂いで、堕胎することも出来ずに、惰性で俺を育てた女だ。まあ、当然の帰結だな。
だから、自分が子どもを育てるときに、俺はそんなものは何も与えないと決めた。
触れ合いも、柔らかさも、温かさも。
それを知っている奴は、誰かを信じることができるから。誰かを愛することができるから。
そして、そういう奴が、どれほど愚かで弱いかを、俺は知っていた。
簡単に騙せる、簡単に思い通りに操れる。
だから、そんな馬鹿にはならないように。
俺は俺がされた通りに、あいつに接した。
もともと、持ちたくて持った子どもでもない。初めからコストをかける気もなかった。
ただ、そうやって、俺の分身のように育てたあいつを。
どうしてか、必死に抱き留めようとする『添え木』がいた。
自分自身が、愛の一つも知らない餓鬼の癖に。
偽物のまま、必死にあいつに、愛を伝えようとする奴を見た。
下らないと思った、何もかも。
こんな感傷すら、俺にとってはどうでもいい。
だから、そう、あいつらがどうなろうが。
どうでもいいのだ、初めから。
その先行きが天国だろうが、地獄だろうが。
俺にとっては関係ない。
――――そうだろう?
※
「―――っていうわけだ、理解できたか?」
俺がそう言うと、羊宮 紅梨は、電話の向こうで沈黙していた。
「先に言っとくが、俺だってかけたくなかった。くろえの馬鹿が、電話の一つもまともにできないから、代わりにしてるだけだ。用が済んだら、さっさと切るぞ」
言いながらちらりと、椅子の上で呆然としたまま座るくろえを見る。あの姉の記憶喪失が発覚してから、ずっとこんな調子だ。あまりに無能すぎてイライラする。
そのまましばらく沈黙が続いて、もういいかと、通話を切りかけた直前に、ふっと向こうで息が吸われた。
『そう……、くろえはどう? 元気にしてる……わけないか』
「壊れたおもちゃみたいになってるよ、操り人形でも、もうちょっとマシに動く」
ここまでやわに育てた覚えはなかったが、やはり弱くなってるかな。俺に啖呵をきった時は、もうちょっとマシに思えたが。まあ、依存関係なんてのは、結局はそんなもんか。
『添え木』が一つなくなる。それだけで、全ては無惨に元通りだ。
『そっか……。はるは、落ち着いてる?』
羊宮 紅梨は微かに息を零しながら、言葉を続ける。
「むしろ能天気すぎて、毒気が抜かれる。記憶が抜けたせいで、自分の現況がよくわかってないんじゃないか」
さっき見た時は、自分のスマホを触って、おおってなんか感動してたしな。浦島太郎にでもなった気分なのかもな。
まあ、今後は記憶がないことを自覚するたびに、不安定になるかもしれんが、それは俺の知ったことじゃない。
というか、俺に向かって、変に丁寧に接してくるから、逆に気持ちが悪いくらいだ。
まあ、なんにしても、ようやく餓鬼のお守りから解放されると息を吐く。
『オッケー、了解。じゃあ、私が帰るまで、超特急で三日くらいかかると思うから。それまで二人をよろしくね』
……とか、思っていたのに、この女、とんでもないことを言いやがる。
「はあ? なんで俺がそんなことしないと―――」
こっちは、ただでさえ予定をキャンセルして損害が出てるんだ。これ以上、付き合う意味はどこにもない。そう突き付けてやろうと、口を開きかけた瞬間に。
『ああ、報酬なら払うわよ、もちろん。こー見えて結構お金持ちだから、あんたが三日で産みだす利益分くらいは上乗せしたって構わないわ』
思わず、絶句する。
ふざけるな、これ以上、こんな奴らに関わりたくもない。
「正気か? 一度、娘を棄てた奴に、そんなことを頼む馬鹿が何処に居る」
漏れた言葉が、怒りで荒れているのがよくわかる。普段、仮面をかぶってる時は絶対出さない声だが、どうせこいつには一度本性がバレてる。構いやしないと、言葉を続けようとするのだが。
『そうね、あんたは金が全ての人でなし。
…………だからこそ、金さえ積めば信用できるんでしょう?』
二度目の絶句。
誰だ、こんなこと吹き込んだ奴は……。いや、一人しかいない。思わずそばに居たくろえを睨むが、ぼーっとしてこっちを見てもいやがらない。
『それとね、私、行動で人を見る主義なの。あんたは、間違いなくロクでもない奴だけど。今日、確かに私の娘たちを助けた。その一点だけは信用してるつもりよ?』
対して紅梨のやつは、さも当たり前のように、朗々と言葉を続ける。くそ、10年前に騙した時は、もっと自己中で馬鹿な女だったはずなのに。
『ていうわけで、二人をお願いね? あ、もちろん、二人に何か害になることをしたら。その時点で、報酬はなしだから』
「は? ふざけ―――」
『じゃ、よろしく。あ、くろえに代わって?』
思わずスマホの方を睨むが、結局それで何も変わらない。苛立ちのまま、隣に居た奴にスマホを押し付けると、ぼそぼそと頼りない声で何かを喋り出していた。
ああ、くそ。どいつも、こいつも。
いや、わかってる。金になるのは確かだ。たかだか三日、餓鬼のお守りをするだけで、大金が手に入る。それは今後の予定を多少キャンセルしても、釣りがくる。
ただ、それでも苛立ちが抑えられない。いいように使われているのも、したり顔でわかったような顔をされるのも、どいつもこいつも気に食わない。
「…………ごめん、ありがと」
数分して、通話を終えたくろえの奴が、覚束ない声でそんなことを言ってきた。色々と言ってやりたいことはあったが、奥歯を噛んで、無理矢理抑える。
糞みたいだが、仕事は仕事だ。下らないことを言って、契約に文句を言われても面倒だ。
それでも抑えきれないため息を零しながら、額を抑えていたら、ふっとくろえの方から息を吐く音がした。
まるで、少し何かを振り切ったかのような。
「はるはさ―――」
そうして、呟くように言葉を漏らす。
「ずっと、私が独りになった時も、ずっと、抱きしめてくれてたの」
「私があの家で、独りになった時も、そんなことする理由もないのに」
「ずっと―――ずっと」
そうやって、泣き跡を晒したまま、どこか遠くを見つめるような目をしてる。
「…………だろうな」
あれはくろえの『添え木』になろうとした。本物の愛すら知らない癖に、その愛の代わりをしようとした。
それは、俺の人生にはなかった物だ。
「暗くて、辛くて、誰も信じられないのに、はるは私の味方をしてくれた」
「はるだって、しんどかったと想うの。お義母さんは、あんまり帰れなかったから、寂しいのははるも一緒だったのに」
「でも、それでもはるは、私の隣に居てくれた」
そこに別に恨みや、羨望はない。そんなもの必要だと思ったことすらない。
ただ、それでも―――。
「だから――――今度は、私が傍にいる番だ」
その『添え木』を得た時、こいつはどうなるんだろうかと。
ほんの刹那、あの時、考えたことがあっただろうか。
「今度は、私がはるを―――守るんだ」
そういう、くろえの眼は、涙で滲んで赤くなって、見れたものじゃなかったが。
その奥の瞳だけは、揺らぐことなく前を見ていた。
「―――そうか」
どうだっていい、俺にとって、そんなことは。
ただ、ふと想うことがあるとするのなら。
あの実験の続きは、どうだったろうか。
一度、愛を失った子どもは、それを後付けで取り返すことができただろうか。
不安と恐怖を覚えた、その先に。
『添え木』に出会うことに、意味はあったのだろうか。
わからない、興味もなかったから、大して記憶もしていない。
そもそも、実験の続きすらなかったかもしれない。
だから、俺は何も言わない。
くろえの決意も、覚悟も、吹けば消えるような淡い希望も。
肯定も、否定もしない。
そんなことに価値はないから。
だから、そう、どうだっていいのだ。
こいつらが幸せになろうが、不幸になろうが。
俺はどちらでも構わない。
そうだろ―――? と、病室の中で眠る、あの餓鬼に問いかける。
お前らが、どうなろうと、結局。
俺には何の関係もないのだから。




