第58話 姉を置いていく―④
「んーーーーーーっ!!」
マンションを出て、一人グーッと伸びをする。
胸の奥に血が巡るような達成感と、荷物を下ろし終えた後のような昂揚感。
微かに指が震えているけれど、それさえ不思議と心地いい。戦い終えた後の、武者震いみたいだね。
ふふふ、っと思わず笑って、高層マンションをそっと見上げる。
あの一番上にいるのかな、あいつ音がいない時は、窓の外で煙草を吸うのが好きだったから、こっち見てるかも。ま、遠すぎて私は全然見えないけど。
ざまあみろって、念のため晴れやかな空に向かって、舌を出す。
どうせ誰も見えてないけど、それがなんだかおかしかった。
あー、頑張った。すんごい、頑張った。多分、生涯で一番緊張した。
帰ったら、はるに褒めてもらおう。たくさん、たっぷり。今日くらい、甘えてしまう。
いつもはるは、私が頑張ったら些細なことでも褒めてくれるから、きっと今日はありえないくらい褒めてくれそう。後はー、旅館でゆっくり温泉に浸かって、サロンとかはると一緒に受けちゃおっかな。やったことないから、ちょっと楽しみー。
なんて、一人で浮かれながら、帰り道をゆらゆらと歩いてく。
行きと違って、タクシーがいつ拾えるかわからないのが、ちょっとネックかな。
でもまあ今は、こうやって歩くのも悪くない。
冬の冷たい風の中を悠々と、火照った身体を冷ましていくように。
雪が陽の光を反射して、変に眩しくて、笑っちゃう。
ざくざくと、足元から響くを音を聞きながら、そうやって歩いていると。
遠くで、少し不自然なくらい、急いで走ってる誰かがいた。
…………まさかね、旅館からは結構離れてるし、そんなわけない。
そう想ってはみるけれど……。
…………。
………………うーん、どうみてもはるだなあ。
待っててって、メッセージは送ってたはずだけど、私そんな信用ないかな……。
そうため息をついてみるけれど、まあ……ちょっと嬉しいのも、事実ではありまして。
あなたが心配して、探しに来てくれたのだと想うと、それだけで少しにやけてしまう。
あーあ、すっかり飼いならされちゃったな。
でもまあ、いいかと、はるに向かって手を振った。
大きく、大きく。ここだよーってそう示すみたいに。
そしたら、はるは交差点の向こうで、しばらく右往左往してたけど、やがてこっちを窺って、ぴょんぴょんと跳ねだした。
はは、気づいてもらえたみたいで何より。
私は笑って、そのまま大きな交差点の前で、信号が変わるのをそっと待つ。
はるはなんだか、そわそわしているような、慌てているような、そんな様子が遠くから見ても分かった。どうどう、落ち着いて、と思うけど、まあ、実際顔を合わすまでは無理そうだね。
それにしても、なんで慌ててるんだろうね。……なんかあったっけ。
それとも、ただ私がいないだけで、これだけで心配してくれたということだろうか。
まあ、いいか。どうせ目の前にいるのだし、会って確認したらそれでいい。
そう、それで、いいよね。
もう、すぐそこにいるんだし。
だから、今はただ、時間を待つ。
この信号が、青に変わって。
あなたと顔を、間近で合わせて。
言葉を交わす、その時を。
ただ、待っていた。
そうしてやがて、信号は青に変わって。
あなたは、すぐに私に向かって走り出して。
車が。
目の前を。
通り過ぎた。
「え?」
「はる?」
どんって、小さな音がした。
何か車にぶつかるような。
まるで、誰かが轢かれたような。
そんな呆気ないくらい、簡素な音。
そうして道路に倒れるあなたから。
白い雪の、その上に。
ゆっくりと、紅い血が滲んでた。
これが、私と『はる』の、最後の記憶。




