第57話 姉を置いていく―③
長く、長く息を吐く。
産まれてきてからずっと、背負い続けてきた荷物を、そっと降ろすように。
痛みも、怒りも、憎しみも、悲しみも。
全てを認めて、全てを下ろす。
もう全てを話した。全てを伝えた。
だから、そう―――。
目の前の男を、そっと見る。
もう――――私はこいつを、これ以上、恨まなくていい。
憎んだ事実は変わらない、傷ついた過去も変わらない。
決して好きにはなれない。多分、生涯許そうとも思わない。
でも、これ以上は、もう要らない。
これ以上私の心に、こいつのための居場所を、わざわざ用意してやらなくていい。
許したわけでも、忘れたわけでもないけれど。
でも、今は、これからは、こいつは私の人生に大きな影を落とさない。
だから、いい。構わない。
これ以上、私の想いと関心は、もうあげない。
くぅーっと、伸びをすると、緊張していた身体がゆっくり弛緩していく。
にへらっと零れる笑みが、我ながら少しだらしない。でも、そんな脱力感が、ちょっと心地いい。
にっと笑って見てやると、あいつは大層、鬱陶しそうな顔をしていた。いい気味だねと、心底思う。
……しかし、こうやって改めて見ると、なんだか可哀そうな男だね。
あれだけ絶対的に見えた視線が、指が、なんだか随分とこじんまりして見える。
まるで色なんて何もないように見えた瞳も、今ではそういう色だと思ってしまえば、存外可愛らしく見えてくる。……いやさすがに、ないな。
…………でも案外こいつも、結局、ただの親に捨てられた子どもだったのかもしれない。
そんな風に想っていたら、どこか胡乱な声が飛んできた。
「……本当にそれでいいのか?」
そんな声に、私は笑って答えを返した。
「何がー?」
そうやって問うと、男は少しうざったそうに眉根を歪める。
「…………人間は解りやすさを望むぞ?」
低く、静かに、どことなく不安を煽るような声、そう調整された声。
「………………」
私はあえて、何も言わない。
「…………『姉妹』で、『恋人』か? お前らがそこに、どんな複雑な感情を抱こうが、他人はそれを理解しない」
黙って聞く。今はただ、そのままの、言葉を受け止める。
「大概の人間はな『レッテル』が好きだ。単純で、分かりやすい、そういう役割を他人が演じることを望んでる」
「何故だかわかるか? めんどくさいからだ」
「他人をいちいち理解するのに、無駄にコストをかけたくない。だから、分かりやすい『レッテル』を他人に貼る」
「『姉妹』とか、『恋人』とか、『普通』とか、『特別』とかな。お前の場合は『副会長』とかもか?」
「そういう名前は全部レッテルだ。こうあってほしいっていう勝手な期待。そして、そんな勝手な期待が裏切られると、人はそれに拒絶反応を起こす」
「『姉妹』は『普通』こうしない。『恋人』は『普通』こんな関係じゃない。馬鹿は理解が面倒だから、そうやって、自分のレッテルを押し付ける」
「人は他人に矛盾を許さない。たとえ、自分がどれだけ矛盾していようとな」
「自分の考える『普通』から外れたら、それだけで、相手を軽蔑する。差別する。『そんな人だと思ってなかった』が、いつの時代も馬鹿の常套句だ」
「人間は本来、多面的だ。いい奴が必ずいいことはするとは限らないし、悪い奴がすることも全て悪とは限らない」
「でも、そんなのはどうでもいいんだよ。だって、めんどくせえからな」
「お前らが、どれだけ高尚な想いを並べようが。他人にとってはどうでもいい。『姉妹』じゃない。『女同士』じゃない。『恋人』じゃない。『普通』じゃない。それだけで、勝手な軽蔑と差別が、お前らに常に付き纏う」
「もう一度聞くが、それでいいのか?」
「仮にお前が耐えられても、あの愚鈍な姉はその声に耐えられるのか?」
「結局、お前が隣に居ることで、あいつは不幸せになるんじゃないのか?」
そうやって嘲るように、男は嗤う。視線には明確に、外道の色が灯ってる。
私はそんな答えに、ふむと一つ思案して、ちょっと首を傾げた。
「え? 心配してくれてるの?」
空気が止まった、一瞬、凍りついたかのように。
しばらく沈黙が、リビングをじっと覆ってた。
「………………………………はあ?」
そうして、漏れた男の言葉は心底呆れたような、軽蔑した響きを伴っていたけれど。
「だって、私がはるとどれだけ不幸になろうが、あんたは一円だって損をしないじゃない」
私はあえて、笑ってやる。
「私たちがどれだけ、『レッテル』を貼られようと、詰られようと」
「あんたはそれで一円だって、損もしない、得もしない」
「それこそ、どうだっていいでしょう? あんたは、いつも『無関心』で、『合理的』で、『お金が全て』なんだから」
「なのに、そんなこと言うから、聞いたんだけど?」
「もしかして―――心配してくれてるのかなって」
胡乱な瞳がますます歪む、明らかに苛立ちに染まった表情に、思わず少しぞくぞくしてしまう。うーん、程々にしとかないと、つい楽しくなっちゃいそう。
我ながら、悪い癖だね、いやほんと。
「――――まあ、でも、別にそこまで楽天的にも想ってないよ」
だから、そろそろ真面目に答えようか。
少し息を落ち着けて、笑うような表情をちょっとひっこめて、声もいつもの調子に戻す。
それでも、対面の男の顔は、少し歪んでいたけれど。
「実際、あんたの言う通りだとは思うよ」
「知らない人に言ったら、十中八九嫌な顔されるだろうし。知ってる人でも、受け容れられない人は一杯いると思う」
「私たちが義姉妹だから、法律上は別に問題はないって言っても、そういうの理屈じゃないからね。感覚っていうか、感情っていうか……」
「そのせいではるが嫌な思いすることも……あるんだろうね。私が一緒に居たから流した涙は、きっと今までも、これからも、たくさんあると思う」
ふっと短く息を吸う、それでもと。
笑うあなたの顔を、想いうかべながら。
「でも、離れることは、もう諦めたの」
「自分の想いに、蓋をすることも」
「はるの想いに、知らないふりをすることも」
「諦めちゃった、だって、できなかったから」
「そういうのってほら、理屈じゃないでしょ? 感覚っていうか、感情っていうか」
「だからね、それでもやっぱり傍に居るって決めたの」
「隣にいることで、傷つけても、傷つけられても」
「それでも、想いに嘘は吐けなかったから」
「…………それにね、まあ、悪い事ばかりでもないと想うんだ」
「たくさんの人は受け容れてくれないかもしれない、みんなが望む私じゃないかもしれない」
「でもそれでも、きっと受け容れてくれる人もいるんだよ」
「複雑で、分かりにくくて、『普通』じゃなくても」
「そんな『私達』を、ちゃんと見てくれている人もいる」
少し瞼を閉じると、確かに何人かの人たちが、私に手をそっと触れてくれているような、そんな気がした。
琥白とか、白乃さんとか、お義母さんとか。生徒会のみんなとか。
そんなぼんやりとした、誰かの後ろ姿が見えた。
「そうやって、受け容れてくれる人もいるのに、諦めちゃったら、ちょっと勿体ないかな」
「知らない誰かに、傷つけられるからって、知ってる誰かの想いまで、無駄にしたくない」
「『私達』のことを、ちゃんと見てくれてる人の想いを、蔑ろにしたくない」
「『私達』の幸せを、ちゃんと望んでくれてる人がいるのに」
「私とはるが、それを諦めたら、勿体ないじゃん?」
「だからね、大丈夫」
「心配しないで」
そうやって、私は笑った。
「…………餓鬼の理想論だな」
お父さんの声は、どうしてか少し静かで。
「…………まあ、確かに」
私がそうやって、ちょっと日和ると。はあって、深いため息を漏らしてた。
「………………それこそどうなろうと、俺には関係ない、勝手にしろ」
そして、そんな呆れたような声に、私はそっと頷いた。
「うん―――頑張る」
ブーンブーンと音が鳴る。手元の携帯から、タイマーの終了を告げる音。
約束の一時間半は、こうして終わった。
そんな、終わりを見届けて。私はすっと立ち上がる。
ほら、やっぱり、大丈夫だったでしょ。
そんな意味を込めて、お父さんに笑顔を向けると。
彼は、どこか呆れたように、ため息をついていた。
まるで、聞き分けのない子どもに、そうするように。
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