第56話 姉を置いていく―②
クソ親父は、しばらく私を睨み殺すなような眼をしていた。でもやがて、ため息をつくと、目の前の封筒を改めだした。
「…………餓鬼の癖に、随分、金持ちだな。あの写真家の金でも抜き取ってきたか?」
そんな奴の言葉に、私はべっと舌を出す。
「あんたじゃないんだから、そんなことしないっての。…………もともと、私が自分で貯めた学資金。投資で稼いだ立派な私のお金だっての……まあ、元手はお義母さんから借りたけど。それももう返してあるし」
「だとしても、餓鬼の小遣いの延長にしては、大層な金額だ。元は何用の金だこれ?」
「……金の話だけ流暢に喋んないでよ。……元は高校卒業したら、家を出るためのお金だったの」
要するに、これは家を出るという名目で、はるから離れるためのお金だったのだ。はるを傷つけるくらいなら、先に私が出て行けばいい。そう想って貯めてたお金だったわけだけど。
…………生憎、もうその必要もなくなってしまった。
「なるほど、健気なことだな。…………まあ、一時間ってところか」
「ふざけんな、私の大事な将来のための金だぞ。三時間はよこせ」
「…………一時間半だ。それ以上はまからん」
けちくせえ、と舌を出しながらぼやくけど、あいつは澄ました顔で封筒を懐にしまってた。……くそう、苦労して貯めたってのに。
ま、でも、ここまでは半分予定通りかな。
とりあえず、あのクソ親父を、無理矢理交渉の席に座らせた。ここまでは申し分ない。
まあ、こっからは、結局ノープランなんだけどね。
旅の始まりの頃は、何を伝えるかも決まっていなかった。何を伝えられるかすらわからなかった。なにせ、一か月前まで、私はこいつの言葉一つで、何もできなくなっていたのだ。
身体が根源的に覚えてる、恐怖を、不安を、無関心を。
息が荒れる、身体が冷たくなる、意思が折れそうになる。
胸の痛みが、身体の奥でずっとアラートを鳴らしてる。
それを全て認識したうえで、抵抗することなく、そっと貯まった息を手放した。
重く、重く。心の奥から引きずり出すように、詰りたいこと、喚きたいこと、縋りたいことを手放していく。
別にいい、どんなにみっともなくたって。
そうやって、深々と息をする私を、あいつはただ色のない瞳で見つめてた。
金を払った以上は、この時間の間は、私が何を言おうが聞こうとしてるらしい。
律儀なことだね、腹立たしいくらいに。
だから、最後にふっと息を吐いて、私は静かに小さく言葉を漏らした。
「――――憎かった」
目の前の色のない瞳は、何一つ揺るがない。
「あんたがずっと」
「人を人とも思わない、金しか見てない、関心の一つもない、そんなあんたがずっと憎かった」
「潰してやりたかったし、バラしてやりたかったし、気持ち悪かったし、いっつも反吐が出そうだった」
「人を騙して、女を騙して、さもあたりまえみたいな顔をして」
「そんな手口を私にずっと教え込んでくるのも、気色悪かった。どんな神経してたら、そんなことを子どもに教え込めるんだって、いっつも腹が立ってた」
「荒れた女の相手を私にさせて、自分は素知らぬ顔ばっかり。何度も何度も、女をとっかえて、そのたび何にも知らない子どものふりさせて。大した世話もしない癖に、外ではいい親みたいな顔してるのも、キモかった。ああ、今思い出しても吐き気がする」
「でも、それより、なにより」
「そんな、あんたに―――そっくりな自分が憎かった」
ふっと目を閉じながら、胸の中の膿を出すように言葉を続ける。
「人を騙す才能も、人に持て囃される才能も、どれも彼もが、あんたの言ったとおりになる。誰も彼もが、本当の私のことなんて、何も知らないで騙される」
「はるを見るとぐちゃぐちゃしたい想いが湧いてくる。怖くて、不安で、仕方なくって、それを抑えるために支配したくなる。小鳥の翼を切るみたいに、この手から離すのが怖くなる」
「私は愛を信じられない―――って、あんた言ったよね」
「本当にそうだよ。どれだけ愛してるとか、大好きとか言われても、私は心のどこかでずっと疑ってる。そんなわけないって、そんな風に愛してもらえる自信がないから、合理的な理由をずっと探してた」
「ホントは愛に理由なんて、何処にもないのにね」
「そんなことも、私は知らないままだった。教えられるまで、何一つも分からないままだった」
はるの言葉が、笑顔が、脳裏をよぎる。
「最近、ようやく……ちょっとわかってきた……かな」
ふぅって漏れた息が、少し肩の力を抜いていく。
クソ親父は、ただ静かに私を見ていた。
「認めるよ、私は『あんた』だ」
「『あんた』と同じ、人でなし。愛も知らないし、簡単に人を騙せる、詐欺師の娘」
「きっと、これからどれだけ時間をかけても、私の心から人への『不信』が消えることはないと思う。どれだけ温かい言葉を貰っても、心の中に空っぽの孔はぽつんと空いたまんまだと思う」
言いながら、自分の胸の中心をそっとなぞった。
微かに痛くて、微かに力が抜けていくような。
そんな感触に、ふっと微笑む。
「それが怖くて、憎くて仕方がないけど」
「―――でも、それでいいみたい」
「私がどれだけ欠けてても、私のことを見てくれてる人がいる」
はるの背中が、ふっと瞼の向こうに浮かんだ。
「私がどれだけ人でなしでも、ちゃんと叱ってくれる人もいる」
琥白が、白乃さんが、お義母さんが、いろんな人が、私に向かって微笑みかけてくれているような、姿が浮かんだ。
「まだ、上手く信じることは難しいけど」
「でも、それでもいいみたい」
ぐっと握っていた手を、そっと離した。
なんだっけ、どっかの昔話にあったよね。
孔の中の宝物を取ろうと必死に手を握りしめても、孔から手を出すことはできないけど。
掴み取ろうとした宝物を手放して、初めて、その手を孔からだすことができるのだと。
まだ、その感覚を、ちゃんと理解できたわけではないけれど。
「私は、私でいいみたい」
きっと、それが、人でなしで、心の欠けた私がようやく見つけた、最初の言葉。
はるの隣にいるために、私が手にした、ちっぽけだけど確かな答え。
ふぅって息を吐いて、あえて、にっこりと笑みを浮かべてやる。
何も言わず、何も聞かず、ただ私を見ているだけのその男に。
私と同じ、欠けだらけの、そんな男に笑って告げる。
「ねえ、お父さん」
「私、幸せになってやるから」
「ざまあみやがれ」
そんな私の答えに、父親はふんっと軽く鼻を鳴らした。
心底つまらなさそうに、心から面白くなさそうに。
私そっくりな顔をして。
「勝手にしろ」
そうして、私は吐き捨てられたような、そんな言葉に目一杯、笑って頷いた。
そんな台詞が、私にとっては、何よりの賞賛の言葉だったから。
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