第102話 私と黒江—③
物心がついた頃には、もう、お父さんはいなくなっていた。
お母さんと、私のことで喧嘩して、いなくなっちゃったんだって。
そのお母さんも、お家に帰ってくるのは、何か月かに一回だけ。
6歳になるまでに、お母さんの手に直接触れたことが、一体何回あったっけ。
会いたくて、触れたくて、お話したくて、抱きしめて欲しくって。
でも、その全部が、叶わなくって。
田川さんは困ったような笑顔で、何時も言っていたよね。
お母さんは―――『特別』な人だから。
だから、私に、会いにはこれないの。
お父さんは―――『普通』の人だったから。
だから、私が、重荷になってしまったの。
わからなくて、わかりたくなくて。
でも、あの日、お母さんが撮った、蒼い、蒼い空の写真を見た日。
私は―――気づいてしまったの。
こんな綺麗な写真に釣りあうような価値は、私にないって。
幼稚園の運動会で、転んで一人だけ、ゴールできなかった日。
周りにいる沢山の、皆のお父さんやお母さんを見て。
私は知ってしまったの。
こんな私に、構うような意味は誰にもないって。
そう考えたら、納得できたの。
お母さんが、会いにきてくれない理由が。
お父さんが、私を置いて去った理由が。
ちっぽけな、私の頭でも、理解できてしまったの。
そりゃあ、そうだよ。
愛されるような価値なんて。
大事にしてもらえるような意味なんて。
私には何もないから。
だから、何時頃からか、止めてしまったの。
田川さんに、『おかあさん、つぎ、いつかえってくるのかな』って、尋ねることを。
『おとうさん、あした、かえってきたりしないかな』って、夜に願うことを。
愛して欲しいなんて、言いません。私に、そんな価値はないから。
大事にしてなんて、想いません。私に、そんな意味はないから。
だから、これでいいんだと。
そう想って生きてきました。
あなたに出会った―――あの時までは。
※
「そういえばさ」
「黒江はどうして、私のこと、大事にしてくれてたの? 記憶はもう失くしちゃったのに」
軽快に、吹きすさぶ木枯らしの中を、舞い踊るみたいに、くるくるとステップを踏む。
そんな私を呆然と見据えながら、黒江は少し戸惑ったように眉をひそめた。
「どうしてって…………そんなの…………」
告げられる言葉は、少し痛むように滲んでる。まるで、気持ちを言葉にすることを躊躇っているみたい。でも、やがて諦めたように息を吐くと、首を横に振りながら、彼女は口を開いた。
「はるには、沢山大事にしてもらったから。その……恩返しみたいなもんだよ」
そんな答えに、私は思わずふっと笑ってしまう。肝心の当人が忘れてしまっているのに、律儀だなあこの人は。
「そっかあ、それだけ?」
言葉を口にしながら、まるで境界線を跨いでいるような、不思議な感覚が足先にある。心の境を、少しずつ踏んで確かめているような。微かな緊張感と、それにそぐわない軽やかな感じ。
「…………」
案の定、黒江は黙ってしまった。口にすることが躊躇われているのかな。でも、その答えのヒントは、昨日、見せてもらってしまった。
黒江は、私に、かつての私が好きだったと、告げた時。
どこか、何かを後悔するように、泣いていた。
どうしてだろう、今の私に想いを告げることを躊躇ったからなのかな。
それとも―――。
「私がいつか、想い出さないかなって期待してたから?」
口にすると、黒江の肩は、あっけないほどにがくんと揺れる。自分でも口にしながら浮かべる笑みが、少し悲哀に滲んでしまう。
「………………はる、ごめん」
「ううん、別におかしいことじゃないと想うよ。記憶を失くした人が、想い出してくれたらいいなんて。誰でも想うよ、多分、私が逆の立場でも想ってる」
それは、きっと、自然な反応。自然な想い。…………まあ、この人にとっては、それが許しがたいことなのかもしれないけど。
「……………………」
「でも、昨日、それは叶わなかった」
これから、どうなるのだろう、想い出すことはあるのだろうか。でも昨日、私は、黒江の話を聞いても、日記を見ても情景の一つも浮かんではこなかった。
壊れたファイルを、無理矢理開こうとしているような。どれだけキーを押し込んでも、ただ空虚なメッセージだけが返ってくるような。
「もしかしたら――――これから、一生かけても、私の記憶は戻らないかも」
そう口にしていると、喉の奥から、何か……とても大事なものが抜け落ちていくような錯覚がある。
10年という月日で、積み重ねたはずの願い、想い出、その残滓。
「そしたら―――」
怖いなあ、口にするだけで、涙が出そうになってしまう。
きっと、今の私にとっても、記憶が戻るというのは、ある種の願望だったはずだから。
こんな意味も価値も、何もない私じゃない、別の誰かに。
ある朝、ふと目覚めたら、魔法みたいに、変わってる。
そんな、儚い子どもが見る夢のような、希望だったから。
「黒江は、私のこと―――嫌いになる?」
本当は、泣き出してしまいそう。
お願い、『違う』って言ってって、喚いて、叫んで。
あなたを、困らせてしまいそう。
でも、それはきっと許されないことだから。
あえて、軽快に、あえて、朗らかに。
朝ごはんのメニューでも尋ねるみたいに、笑って尋ねた。
あなたは、息を詰まらせて、胸に何かが刺さったみたいに、言葉を失って。
でもやがて、泣きそうな顔のまま、首を静かに横に振った。
わからない、その意思が、どこまで真実なのか。
だって、あなたは優しい人だから、自分が辛くても無理をしているだけなのかもしれない。私があまりに惨めだから、憐れんでくれているだけなのかも。それとも、ただ、とっても義理堅いだけかもね。
もしかすると、愛する人の皮を被ったまま、あなたの隣に居ることは、救いようのない暴力にさえなるのかもしれない。
もし―――この人の幸せを本当に願うのなら、私は身を引くべきなのかもしれない。
でも―――。
「だよね、黒江なら、そうだろうなって……想ってた」
それでも―――私は。
「だから、あなたを―――好きになったの」
「ずっとね」
「私はずっと、愛される価値なんてない子どもだったの」
「お父さんはいなくなって、お母さんは会いに来なくって」
「でも、それは私がダメだったから」
「『特別』になれないから、『普通』にもなれなかったから」
「ずっと、ずっと」
「だから、仕方ないって」
「誰も、私のことなんて、見てくれなくて当たり前だって」
「ずっと、そう想っていたの」
「私は、愛される価値なんて、大事にされる価値なんて」
「何処にもないって…………そう想っていたの」
「でも……ねえ、黒江、憶えてる?」
「一か月前、初めて会ったばかりの頃」
「何もかも覚えてなくて、黒江のことすら、私は何もわからなかったのに」
「黒江はね、それでも、私を大事にしてくれたよね?」
「記憶がなくて、不安な私の傍にいて、一緒に笑って、隣で手を繋いでくれた」
「それから、たくさんの人がみんな私を大事にしてくれた」
「でも、あなたがくれたものだけが、どうしてか忘れられなくて」
「わかってるよ、黒江がずっと見てたのは、私じゃない、今の私じゃないってことは」
「でも、それでもね」
「私は、あの時、初めて誰かに―――大事にしてもらえたの」
「知ってたよ、黒江がホントは辛いのも。泣いていたのも。苦しんでいたのも」
「でも、それでもね、あなたは私の傍にいてくれた」
「私を独りにしないでくれた」
「震えながら、泣きながら、苦しみながら」
「それでも、私を抱きしめてくれた」
「『今の私』の手を、あなたはずっと握ってくれた」
「わかってるよ、わかってるの、黒江がそれで苦しんでたのも」
「でも、それでもね」
「あの時から、この一か月ずっと」
「私は、初めて、誰かに―――愛してもらえた―――気がするの」
「…………私の思い込み、だったらごめんね。でも、それくらい、嬉しかったの」
「誰かが、手を握ってくれること、誰かが、私を見てくれること」
「誰かが、声を聴いてくれること、誰かが、笑って頷いてくれること」
「傍にいてくれること」
「きっと、たったそれだけのことが」
「私―――本当に嬉しかったの」
「あなたにとっては、もしかしたら、義務とか、責任とか、そういうものでしかなかったかもしれないけれど…………」
「それでも、私はきっとね、大げさかもしれないけれど」
「あなたに―――救ってもらったの」
「過去の私のことは、わからない。これから、想い出すことも、出来ないかもしれない」
「そんな私が、あなたのそばに居たら、傷つけてしまうかな。苦しめてしまうのかな」
「でも、それでもね」
「どうか―――どうか、聞いてください」
「たった一か月しか、傍にいない私だけれど、記憶もない私だけれど」
「あなたのことが――――大好きです」
「『いつかの私』にはなれないけれど、『今の私』のままだけど」
「だけど―――それでも――――」
「あなたの隣に、居させてください」
「こんな、ちっぽけな私だけれど」
「あなたを好きで――いさせてください」
それだけが、こんなちっぽけな私の。
たった一つの―――お願いです。




