第101話 私と黒江—②
「どうして―――?」
そうあなたは、言葉を零す。
視線を凍り付いたように固まって、唇は微かに震え続けてる。
これがきっと、この一か月、彼女が隠してきた秘密の最奥。
「えっとね、黒江がくれた指輪……あれに刻まれてた文字が、日記のパスワードだったの」
『My Dear』と、刻んだ文字を、黒江は日和った言葉と言っていたけれど。
きっと、いつかの私にとっては、代えがたい程の、宝物のような言葉だったのだと思う。
姉妹で、恋人で、きっと誰に明かすこともできない関係。
それでも、あなたが懸命に考えて、名付けてくれたその名前が。
いつかの私にとっては、何よりも大切だったんだ。
だから、あれが私の心の……きっと、黒江にすら見せていなかった、最後の鍵になっていた。
黒江の瞳は、まだ揺れている。きっと私が告げた言葉の一つ一つが、彼女にとって信じられないほどの波紋となって、心を揺らし続けてる。
さて……どうしよっかなあ。
私はそっと腰を上げると、ふらふらと少し歩いて、くるんと黒江の方を振り返る。
幼い子どもがそうするように、両の手を広げて、境界の上で踊るみたいに。
落ち着いて話してあげたい気もする。もう少し待ってもいいのかもしれない。
きっと、昨日から、私は黒江のことを、慌てさせてばかりなのだから。
そう想いはするのだけれど…………。
胸の奥で、言葉たちは、今か今かと口にされることを待っている。
伝えたいの。言いたいの。この人に、私の想いを。
受け流してほしくないの。子どもの言い分だって、思われたくないの。
本当の私の想いを、聞いて欲しいの。
だから―――。
「日記にはね……昔の私の想いが、たくさん書いてあったの」
それでも、尚、言葉にしよう。
「初めてキスされた時のこと、不安だったこと、ドキドキしたこと、悩んだこと―――嬉しかったこと」
あなたへ、こんな私の想いを。
「それでも、最後にはあなたを、好きだって気付いたこと」
くるくると回りながら、笑いながら口にする。
「読んでた私が、ドキドキするくらい、17歳の私は、本当に黒江のことが大好きだったみたい。姉妹だからどうしようって、一杯悩んで、でもやっぱり、好きだってことをなかったことにはできなくて」
まだ動揺と困惑に揺れる、あなたへ目一杯の笑顔を向けて。
「やっと、黒江と結ばれて」
それが、どれほど残酷なことなのかを、理解したまま。
「そうやって、好き合ってたんだよね……私達」
この一か月、黒江はどんな気持ちで、今の私を見ていたのだろう。
「なんだか、ちょっと妬けちゃった……」
記憶を失くして、愛し合ったことすら忘れて、何も知らないままあなたの隣で。
「でも、最初はやっぱりびっくりしたけど、ちょっと納得感もあったの」
それがどれほど、この人の心を傷つけたのか、思えば想うほど泣きそうなってしまうけど。
「隣に居たらね」
でも。
「ドキドキするの」
それでも。
「手を繋いだらね」
笑え。
「安心するの」
精一杯。
「抱きしめてくれるとね」
目一杯。
「泣きそうになっちゃうの」
たとえ、声が震えても。
「何にも覚えてないんだよ? 出会った頃の記憶すらないんだよ?」
たとえ喉が熱くなっても。
「なのに、なのにね―――」
笑わなくっちゃ。
「初めて、キスされた時。出会って、ほとんど時間も経ってなかったのに」
だって、これは―――。
「嫌じゃ―――なかったの」
私からの、6歳までしか記憶のない、今の私からの。
「きっと―――ずっと憶えていたの」
あなたへの。
「この身体はずっと、憶えていたの」
精一杯の。
「たとえ、記憶を失くしても、たとえ、想い出を失くしても」
私なりの。
「あなたに―――恋をしていたの」
愛の告白なのだから。
告げた言葉は、零れた雫は。
上手く拭うこともできない。
おっかしいなあ、本当はもっと、カッコよくやりたかったのに。
まあ、でも、そんなのが、私らしいと言えば、らしいかな。
黒江は、何も言わないで、私のことをじっと見ている。
ただ表情は固まったままだけど、雫だけはずっと頬から零れ落ちていて。
私は、そんな彼女に、目一杯に笑いかけた。
黒江は、時々、何か言おうとしてるけど、上手く言葉にならないみたい。
まあ、こんなに、衝撃的な事実を、色々言ってるからね、仕方ないとは想うけど。
しばらく、そうやって待っていたら、やがてようやくぽつりと小さな言葉が、彼女の口から漏れた。
「でも―――それは、私と…………『前のはる』の話だよ?」
掠れたような、今にも消えてしまいそうな、そんな声。
なのに、私の胸に、針を刺すようにちくっと微かな痛みが走る。
「うん…………そうだね」
だって、それはどうしようもほどに、事実だから。
この感情も、この感覚も。
結局は、いつかの私の残滓。
今の私が、自分から手にしたものじゃない。
「今のはるが…………無理に、なぞらなくてもいいんだよ?」
その言葉が、どうしようもない程の、優しさだということも。
「そうだね…………」
わかってる。
でも…………。
言いながら、黒江は余計に泣きそうになっている。自分で言ったことなのに、自分で傷ついちゃったのかなあ。
そーいうところ、黒江はあるよね。なんて、知った風にほくそ笑んでみたりして。
「本当はね―――」
そうして、口を開いた私に、黒江ははっとなって顔を上げた。
「ちょっと怖かったんだ」
「この一か月」
「本当は、私は、愛してもらう価値なんてない子どもだったから」
でも、わかってもらわなくっちゃ。
これは『今の私』の話だということを。
誰より『今の私』を大切にしてくれた、そんなあなたに。
ちゃんと、わかってもらわなくっちゃ。
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