第100話 私と黒江—①
目が覚める前、夢を見ていた気がする。
手を伸ばした先にいるのは、少し大きな背中。
どこかで見たことのある、少し頼りないけれど、今の私より確かに大きな背中。
追いつこうと必死に手を伸ばすけれど、届かない、ねえ待ってって叫んでも、何時までたっても立ち止まってはくれない。
やがて、転がっていた石に躓いて、私の視界は傾いた。
ふと下を見れば、擦りむいた膝が赤く滲んでる。
泣いた気がする、痛いようって。
どうして、追いつけないんだろう、どうして、この足はこんなに短くて、この身体はこんなに小さいの。
そう涙を零していた頃に、ふっと視界に影が差す。
顔を上げると、さっきまでちっとも追いつけなかった女の人が、そっと私を見下ろしていた。
影になって、顔はうまく見えない。雰囲気は黒江に似ているけれど、なんだか少し違うようにも見えた。
大丈夫? って、何気ない調子で尋ねられる。
私は、うっと言葉に詰まって、何か言おうとするけれど、結局上手く言えないで。
そうやって、あうあうと言葉にならない音を零す私に、その人は少し首を傾げた。
そうして、やがて何を想ったか、ぽんぽんと私の頭を撫でだした。
あやすように、慰めるように、でもどことなく、おっかなびっくり。
訳も分からず、気付けば涙も引っ込んで、ただ唖然としていたら。
ごめんね―――。
って、そう突然謝られた。
え?
と、思わず声が零れると。
ずっと―――寂しかったんだよね。
そう、女の人は優しく告げた。
わからない、なんでそんなことを言っているのか。
でも、その言葉を聞いていると、また溢れるように涙が零れだす。
そうして、気付けば泣き声は大きく、どこまでも響くようになっていて。
わからない、わからないけど。
そうなの、私は、寂しかったの。
ずっとね、ずっとね。
誰も私のことを見てくれなくて。
誰も私のことを愛してくれなくて。
それが、ただ寂しくて。
そんな、ともすれば、当たり前のそんな事実を。
私はずっと、忘れていたの。
そうして、赤子のように泣き続ける私のことを、その人はぎゅっと抱きしめて。
大丈夫―――もう、大丈夫だよ。
そう言って、笑ってた。
もう、独りにしないから、あなたのことを、なかったことにはしないから。
大丈夫―――って。
その言葉の意味を、私は知らない。
その女の人が、本当は誰なのかすら、私は知らない。
でも、どうしてだろう。私は産まれてきてから、ずっと、この瞬間を待ち望んでいたような気さえする。
きっと、私はこの人に、抱きしめてもらうことを。
ずっと、待っていたのだと。
そう理解して、あらん限り泣いていた。
6年間、零すことの出来なかったはずの涙を。
その瞬間に、すべて出し切るかのように。
そうして、そんな時間がいくら続いたのかすら、わからないけど。
零れる雫の数は、段々と少なくなっていく。
雨が静かに上がっていくように。
夜闇にそっと朝日が差していくように。
息は荒れて、顔は濡れて、身体は震えたままだけど。
そんな私の傍に、しゃがみこんだその人は、袖で私の顔をそっと拭った。
そして、私の正面で、にんまりと笑みを浮かべると。
もう大丈夫―――だから。
そう言って、私の瞳をじっと見ていた。
そうして、初めて、私はそれが誰だか気が付いた。
だから―――頑張ってね。
呼吸が止まる。
私の妹を―――お願いね。
そうして、私は目が覚めた。
朝焼けの中、はっとして。
眼元には、ただ、渇いた雫の跡だけが残ってた。
※
ルンルンと手を振りながら、冬の住宅街を歩いてく。
昨日は、夜の道を歩いてたから、曖昧だけど多分こっちであってるはず。
ぬぬぬと唸りながら、脳内のあやふやなナビを必死で動かす。次は……右……多分、メイビー。
背後の黒江は、そんな私をぼんやりとした瞳で、どこか不思議そうに眺めてた。
ふっと、振り返ると、目に映る彼女の瞳は、どこか無機質で透明だ。
この一か月、ずっと見てきた優しい、姉のような眼をしてない。でも、それでいいと思う。彼女がそれだけ、少し肩の荷を下ろしたということでもあるから。
「ねえ、はる、もしかしてだけど……」
背後から、そんな声がして、私はうーんと頭を捻る。もちろん、着くまでのお楽しみといきたかったわけだけど……。生憎、私は昨日連れて行ってもらったばかり。結局、諦めて、両の手をひらひらあげた。
「…………ごめん、迷ったかも」
だけど、黒江は静かに首を横に振ると、すっと隣の道を指さした。
「あってるよ、そのまま右行ってから、階段上るの」
そんな彼女の言葉に、おお、と反応を示しつつ、小走りで道の先へと駆けてみる。……あ、本当だ。なんか見たことある階段。
そのまま、黒江が追いつくのを待ってから、そそくさと階段を上がっていく。なんとなく、先に到着したかったから。
「というわけで、今日のデート会場です!」
そういって、ばーんと効果音が付きそうな感じで、両手を広げる。
まあ…………、昨日来た、丘の上の公園なわけですけど。
別にさして目新しい場所ではないし、なんなら黒江の方が詳しいけどね。
そうやって、胸を張る私の方へ、黒江はゆっくりと階段を上がりながら、そっと辺りを見回していた。
当たり前だけど、別に昨日と何も変化はない。ブランコがあって、滑り台があって、少し街を見下ろせる。まあ、夜じゃないから、景色は違うのと、ちょっと寒さがマシくらいだろうか。
とはいっても、二月の冬の丘の上。吹きすさぶ木枯らしは、容赦なく私達の身体を熱を奪ってく。ぶるると、微かに身を震わせて、私はそそくさと近くのベンチに駆け出した。
なんとなくだけど、座ってる方がマシな気がする。そうして、身を震わせる私の隣に、黒江はそっと腰を下ろした。
「…………これがデート?」
そんな彼女の言葉に、私はうっと言葉に詰まる。むむ、確かにデートスポットにしては、やることがない。あと、寒い。
しばらく、いい感じの言い訳を探すけど、悲しいかな特に思い浮かばず。てへへと頭を掻くしか出来なかった。
「ちょっと、寒すぎるかな……」
そう言う問題ではない気がするけど。
「まあ、ちょっと寒いね」
黒江は、そういう問題だということにしてくれた。うん、気を遣われている。
ただまあ、何も考えなしに、ここを選んだわけでもないのでして。
「えーっとね、でも、やっぱり、『お話し』するならここがいいかなって思ってさ」
そう口にすると、黒江の方から、微かに緊張したような雰囲気が漂ってくる。息を少し詰めたような、何とも言えない感覚。
でも、私はあえて、意図的に軽く、明るく言葉を続ける。
「私もね、正直、昨日はすごくビックリしたの。その……思ってもみないことだったし、すぐに整理も出来なかったの。……今、ちゃんと整理できてるかも、微妙だけれど」
どちらかというと、少し勢いで行動している節はある。これが正しいのかも、別に自信はない。
「でもね、やっぱり、ちゃんと伝えるべきだと想ったの」
だって。
「黒江は、きっとたくさんの勇気を振り絞って言ってくれたんだから。私だって、その想いにちゃんと応えたい。何より、私が聞きだしたんだし。その分の、責任は……ちゃんと、取りたいの」
これは、私が始めたお話だ。
結末は、きっと、私の手で書き記さなきゃいけない。
口にしながら、そっと黒江の様子を窺うと、どこか重く痛むように視線を伏せていた。まるで、怒られる前の子どもみたい。こっちは、そんなつもり一つもないのにね。
なんとなく、可愛くなって、そのままその頭をそっと撫でてみる。黒江は最初
少し驚いたように肩を揺らしたけれど、やがて上目遣いでじっと私を見上げてた。
「別に、はるが無理に責任とる必要ないよ。私が抑えておくべき話だったし」
そうやって、返される言葉は、なんだか少しつんけんしている……怒ってるかな…………ううん、少し違う気もする。
「うーん……そーだとしてもね、なにより、私が言いたいからってとこもおっきいし」
そう、きっと、この言葉を、私は言わなければ気が済まないのだ。
色々と理屈をこねてみたりしたけれど、結局のところは、ただそれだけ。
「それでね、どこから話したらいいかな……」
黒江の頭を撫でたまま、虚空を仰ぎながら、ぼんやりと考える。
よくよく考えたら、昨日今日で色々起こりすぎなんだよな。まだ、頭の中でちゃんと整理しきれてない。
そのまま、うーんとしばらく悩んで、結局、直感に後押しされるまま、口を開いた。
「私―――ここで告白したの?」
ひゅ―――っと。
隣の黒江が、息を呑む音がした。
「え――――?」
私はそっと、ベンチに膝を載せて、抱きかかえるように身体を丸める。そうやって、少し寒さを誤魔化す振りをしながら、自分の頬を隠した。
「えっとね、実はあの日記…………開けられたんだ」
黒江が昨日、教えてくれたのは、『黒江が私を好きだった』ということまで。私も黒江を好きだったというのは、教えてはくれなかった。
多分、あえて言わなかったんだろう。そうしてしまえば、私がそれを無理になぞろうとしてしまう恐れがあるから。
その優しさを、理解して、見つめたうえで、あえて―――踏み越える。
あなたの心の境界線を、土足で越えるような感覚に、心臓が微かに跳ねる。
黒江の瞳は動揺と疑問で、ぐらぐらと揺れている。お口も少し開いて、ちょっと可愛い。
「そこにね、黒江とのこと書いてあったの。昔の私がどう想っていたか、どんな風に二人で想い合ってたか」
口にしながら、少しだけ罪悪感が胸を刺してくる。きっと世界で一番大事な秘密を、誰かに知られるようなものだから。
きっと、それは私とあなたの、誰にも触れられてはいけない聖域のはずだから。
でも、それを、解かったうえで――――。
「好き……だったんだよね」
踏み越える。
今度こそ、私はあなたの心に。
その閉ざした胸の奥の秘密に。
「好き―――あってたんだよね、私達」
手を掛ける。
息は、微かに震えてる。
熱は、身体の奥でじっと溜まってる。
少しだけ、黒江の表情を見るのが怖かった。
でも、あえて、震える息をぐっとこらえて、前を向く。
そうして、そこにあったのは。
「―――――――」
どこか、泣きそうな顔をしている、あなたの表情。
…………今の私には、そんなあなたに、頼りない笑みを浮かべることしか出来ないけれど。
それでも、どうかと、祈りながら。
私は、そっと息を吸い込んだ。
さあ、続けよっか。
私と、私と、あなたの話を。
もう、引き返すことはできないのだから。
※




