第97話 私はあなたと―③
「愛していたの、あなたのことを」
「私はずっと」
「あなたに恋をしていたの」
咄嗟に、私は言葉の意味を理解が分からなくて。
ただ固まった氷のように、唖然とすることしか出来ずにいた。
愛? 恋?
この人が? 私に?
それを6歳の私の心は知らない、知識も記憶も、何一つそれを私に教えてはくれないけれど。
黒江の眼から、涙が雨のようにぼたぼたと落ちていく。
ずっと彼女の意思で、この一か月堰き止められていたはずの心が、ぼたぼたと冬の夜の中に落ちていく。
それを、見た時、おもわず、ああと息を吐いてしまった。
そうか―――そうだったんだ。
ずっと、解らなかったこと、記憶のない私を、ずっと大事にしてくれていたあなた。
姉のように、母のように、友達のように、私の隣にあなたがいてくれた本当の理由。
そうして、あなたがずっと明かしてくれなかった、その訳を。
零れる雫が、教えてくれる。
ああ、そうか、この人はずっと―――。
愛されるなんて、知りません。まして、恋なんて解りません。
今の私の心は、それを何一つも理解できないけれど。
思い返せば、そう、ずっと。
この一か月、あなたの隣に居て感じた、あの感触は。
温かくて、優しくて、安心して、なのに時々、ドキドキして。
息が穏やかになる感覚も、胸が高鳴るような感覚も。
眼が離せないような感覚も、ずっと声を聴いていたくなるような、あの感覚も。
全部、全部―――全部。
私の身体は、ずっと答えを教えてくれていたんだ。
かつての私と、あなたがどういう関係だったのか。
あなたは私に恋をしていたと言うけれど、それに私がどう返したか。
あなたは、それを頑なに口にしない。
きっと、そうすることで、私が無理に嘗ての役割を演じないようにしてくれている。
でも、そんなあなたの優しさを感じるたびに、わかってしまう。
あなたが、私を、どれだけ大事にしてくれたのか。
私が、あなたを、どれだけ大事に想っていたか。
あなたは何も告げないけれど。
それが、私にとって、何より確かな答えだった。
「ありがとう――――ごめんね」
そうか、私は―――いつかの私は。
あなたに、恋をしていたんだね。
そう言いながら、思わずあなたの身体を抱き寄せる。
それが何の慰めにもなっていないことを、理解したまま。
あなたが求める私は、今の私じゃないのだと。
それだけを、理解したまま。
涙が一筋、夜に流れた。
あなたが零す涙と、今、私が零したものでは、きっと込められた想いは全く違う。
今の記憶を失くした私は、きっとあなたの涙を、本当の意味で止められる立場に居ない。
それは、かつての私が座っていた特等席。あなたの隣に用意された、たった一つの、大切な場所。
あなたはそれを、たった独りで悼んでる。
………………いいなあって想った。羨ましいなって。
どんな日々を過ごせば、こんなに愛してもらえるのだろう。どんな想いを育めば、こんな恋ができるのだろう。
一体、これから、どんな手を使ったら。
この人を、私に振り向かせることができるだろうか。
ちりっと、小さな音がする。
微かに、火花が散るような。
胸の奥、その暗い奥底で。
何かが、確かに瞬くような。
その、感覚に耳を澄ませたまま、私は静かにあなたの泣き声を聞いていた。
冬の公園の、夜の狭間、吹きすさぶ冷たい風の中。
あなたを、ただ、抱き留めながら。
今の私の記憶の中に、産まれて初めて、芽生えた何かを。
じっと、ただ感じてた。
人はこれを何と呼ぶのだろう。
恋かな、愛かな。
――――――――嫉妬かな。
※
それから、泣き崩れる黒江と一緒に、家に帰った。
風邪を引かないよう、その身体を温め合いながら、そんな見え透いた言い訳を重ねながら。
ごめんねと謝るあなたに、私は静かに微笑んで、大丈夫、私が聞いたんだからとなんでもないフリをして。
帰宅後、部屋でぼんやりとしたくろえを寝かしつけた後、私は食事もとらずに、自室へとそっと戻った。
そうして、パソコンの起動ボタンを押す。電気もつけないまま、暗闇に浮かぶスクリーンをじっと見る。
『日記』
と、書かれた、パスワードがかかった、たった一つのファイル。
私を拒絶する、いつかの私の忘れ形見。
黒江と私が、いくら試しても開かなかった。だから、この日記を見る方法はもう、どこにもないのだと、そう諦めていたけれど。
引き出しから、小さなリングをそっと取り出す。
銀色のシンプルなリング、飾りも刻銘も何もなく、刻まれいてるのは『My Dear』とただそれだけ。
これは黒江が私に送ったものらしい、あの人が、いつかの私に愛の証として渡したもの。
それを受け取って、私はどんな気持ちになっただろう。
困惑したかな、不安だったかな、義理とはいえ姉妹で、女の子同士、誰に何を言われるかわかったものじゃない。
でも―――でもきっと。
指輪の縁を、そっと静かになぞっていく、冷たく無機質で、なのにどこか感情を揺らすようなその感覚を。
私は、ただなぞってく。
この指輪は、記憶を失くした私が、目覚めた時から傍に遭った。
くろえと一緒に出た旅先で、事故に遭うまで、肌身離さず手元に置かれてた。
もし、拒絶していたのなら、もし、後ろめたさを感じていたのなら。
そんなこと、するのだろうか。
なんて……理屈は結局、ただの当てずっぽうに過ぎないのだけれど。
だって、結局のところ、これはそう。
私がこの身体の感情から読み取った、ただの勘に過ぎないのだから。
日記のフォルダをクリックすると、パソコンはパスワードを求めてくる。
お前は誰だ?
そう尋ねてくるかのように。
残念、私は別に、この指輪の本当の持ち主ではないけれど。
でも、今はそれで構わない。
あの人の隣に居られるのならば。
キーボードにそっと指をかけると、淀みなく手は動いてく。
まるで、初めから答えを知っていたかのように。
「My Dear」
そうして、エンターキーを押すと同時に。
あれだけ私を拒絶していたはずのフォルダは。
嘘みたいに、あっさり開いた。
開いた先にあったのは、たった一つのワードのファイル。
名前はおんなじ、『日記』。ただ、それだけ。
そこに私は、暗闇の中、カーソルを伸ばしてく。
息が少しだけ、震えてる。
何か、大切な何かに、踏み込もうとしている感覚が、私の指を微かに揺らしてく。
それでも、一つ息を短く吐いて。
私は、そのファイルを開いた。
かつての私が、何をして、何を想ったか。
その手がかりを探すため。
涙を浮かべる黒江の顔を、瞼の裏に浮かべたまま。
開いた、ファイルの、その先は――――。
12月×日。
妹にキスされた。




