第95話 私はあなたと―②
「―――後悔……しない?」
そんなあなたの、どこか掠れるような声に。
「―――うん」
そう、頷いた瞬間。
思わず声にならない言葉が漏れた。
この1ヶ月、黒江は、ずっと私の前では笑顔を絶やすことがなかった。優しく、穏やかに、きっと記憶の無い私を安心させるために。
でも、その裏で、本当は―――――。
その事実を、私は心のどこかで、ずっと気づいていたはずなのに。
ふっと、黒江の顔から、嘘のように表情が立ち消える。
まるで、さっきまでの心を失くしたみたいに。
でも、数瞬して、違うと気づく。
だって、きっと、これが。
「―――そっか」
黒江の、本当の―――。
「じゃあ、ついてきて」
そう言って彼女は、無造作に私に背を向けると、どこか覚束ない足取りのまま歩き出す。
その時、一瞬見えた瞳はどこか虚ろで、いつも見ていた笑みの欠片すら見当たらなかった。
そうして、私のことを振り返りもせずに、彼女はふらふらと歩を進めていく。
何処に行くのかも、何故行くのかも、告げないまま。
多分、きっと………………ううん、間違いなく。
これが、本当の彼女の心なのだと。
ずっと、私の前では隠してた。
本当の彼女の顔なのだと。
どうしてか、すんなりと理解できていた。
怖い―――ような気がする。
息は覚束ないし、心臓はバクバクいってる、指先は寒さと違う理由で震えてる。
でも。
それでも、ここで逃げるわけにいかないことだけは。
ここで、何も見なかったふりができないことだけは。
きっと、してはいけないんだろう。
もし、このままこの人の心に蓋をしてしまったら。
きっと、私はこれから一生後悔すると。
それだけは、わかってしまう。
だから、震える足で、目頭が熱くなるのを感じたまま。
私は一歩踏み出した。
暗闇の中、独りふらふらと歩いていく、あなたの背を追うように。
冬の夜闇に染まる道を、歩き出す。
あなたに置いて行かれぬように。
あなたを置き去りにしてしまわぬように。
そうやって、足を踏み出すと。
どうしてだろう、誰かが背中を押しているような、そんな気がした。
一瞬、振り返っても、誰もいない。そんなことはわかってる。
でも、どうしてか。
どこかの誰かが、私のことを励ましてるような。
そんな気がした。
頑張れって、小さな声で。
そんな声に応えるように。
私はそっと頷いて。
黒江の元へと歩き出す。
この暗闇の先に、何があるのかなんて、わからないまま。
それでも、その背中を追いかけた。
※
どれくらい、歩いたんだろう。
10分か、20分か。
少しずつ、寒さに身を震わせたまま、山の傾斜の階段を上り続ける。
その間、黒江は何も言わない。時々、こちらの方を振り返るけれど、すぐに視線を戻してしまう。
なんだか、少し不思議な感じ、この一か月私に向けてくれた優しさは全く別の、どこか冷たくて、少し暗い視線。
それだけ思うと、酷く、怖くて不安になるような気がするけれど。
その瞳を見ていると、どうしてか、そんなに怯えるような気にはならなかった。
多分、私は、あの視線を知っている。
ああいう眼をした彼女を知っている。記憶はなくとも、多分、何度となく目にした、あの瞳を覚えてる。
その視線を、特別、怖がる必要がないことも。
だから、私は終わらない沈黙の中を、ただ黙ってついて行った。
不安も緊張も、もちろんあるけれど、それでもきっとこれでいいんだと。
どこか、曖昧な確信だけを携えたまま。
「…………ついたよ」
そうして、黒江の声に誘われて、顔を上げた。
視線の先に映るのは、街灯に照らされた、小さな公園。丘の上から、暗闇に染まった街を見下ろすような、そんな場所。
私は思わず、少し息を呑んで、その光景をじっと見る。
「…………ここが、どこか、覚えてる?」
横目をこちらにかすかに向けて、黒江はそっと尋ねてくる。少しだけ、何かを期待するように。
でも、私はその問いに、首を横に振ることしか出来ない。6歳までで、ここにきた記憶はない。記憶喪失の後でも、もちろんない。
「…………そっか」
そう小さく声を漏らしながら、黒江はキィっと音を立てて、近場にあったブランコに手をかけた。そのまま、そこに腰を下ろすと、キィキィと音を立てながら、そっとブランコを揺らし始める。
私も同じように、隣のブランコに腰を下ろした。ただ、持ち手の鎖が、酷く冷たかったから、そのままただ座るだけ。黒江は気にせず漕いでいるけど、冷たくないのかな……。
「今年のクリスマスにここまで来たの。八木原家でクリスマスパーティがあったから、二人でいって、その帰りにね」
暗闇の中、微かに揺れる気配と共に、黒江はブランコを漕ぎ続ける。小さく揺れる程度に、どこか遠くを見つめるように。
「それで、まあ、色々あってさ。…………あの指輪、覚えてる?」
そんな彼女の問いに、私は少し息を詰まらせる。そうして、小さくうんと頷いた。
私が目が覚めた時から、ずっと傍に遭った指輪。小さくて簡素で、内側に『My Dear』とそう刻まれた、あの指輪。
今は、失くさないように家の机にしまってあるけれど、あの指輪の存在が、私にとってはずっと謎だった。誰が、どうして、私にどういう意図で渡したのか。でも―――。
「あれ―――私が送ったんだ」
……………………。
「誓いの証っていうか…………まあ、個人的な決意表明のつもりでさ。クリスマスプレゼントってことにして」
…………………………。
「『My Dear』にしたのは……半分、日和ったからかな。それ以上の言葉を、送る勇気がなくてさ…………。準備してた時はまだ、はるから返事貰ってなかったし」
返事……そう口の中で、小さく繰り返す。
「私って、いつもそう……。肝心なとこではいっつも、臆病でさ……。そんな私を、はるがずっと手を引いてくれてた。大事な時は、全部はるが守ってくれた……」
そうぼそっと言葉を零して、あなたはブランコを静かに止めた。
「出会った時から、ずっとそう。そんな、あなたにずっと焦がれてた」
そうして、私を見た、あなたの顔は。
「ねえ、はる――――」
静かにそっと、どこか泣きそうな顔で、微笑んで。
「愛していたの、あなたのことを」
「私はずっと」
「あなたに、恋をしていたの」
「――――ごめんね」
そうして微笑む、あなたの頬から、雫が静かに落ちていく。
冬の夜風に溶けるように、夜闇の中に消え行くように。
私はそんな彼女の言葉に。
咄嗟に声を、出せないでいた。
何を言うべきか、何を返せばいいのか。
何一つわからないまま。
今はただ、言葉を失うことしか、できないでいた。




