第94話 姉とチョコレート
初めて、はるにバレンタインを貰ったのは、小学二年生の頃。
大体二週間くらい前から、なんだか妙にソワソワしてて、家政婦の田川さんと何やらぼそぼそ話すのをよく見かけてたっけ。
私がキッチンに行ったり、冷蔵庫を開けると、露骨に慌てだして。牛乳を取りたかっただけなのに、わざわざ代わりに取ってくれてた。
まあ、何かしようとしてるのは、嫌でもわかった。
田川さんも、私が『気付いてる』ことに気付いていたのか、苦笑いでしーっと口に指をあてていたっけ。
これじゃあ、どっちが秘密を抱えてるのか、わかったものじゃない。
……なんて、想いながら、14日の夕ご飯の後に、私は予想通りチョコを受け取った。
手作業で結んだのがよくわかる、不格好なリボンと、少しくしゃっとなった小さな袋。
それを手渡すはるの顔は真っ赤で、心配げに私の方を見つめてて。
私が袋を開けて、中から小さなチョコレートを取り出すと、それだけでちょっとびくっとして。無造作に口の中に入れると、余計にビックリしていた。
確か、あれも生チョコだったかな。っていっても、本当に溶かしたチョコレートに生クリームを混ぜただけのものだったけど。
形は不格好で、パッドに入れて作るだけのものが、よくこんなに歪になるなと逆に感心してたっけ。
続けざまに、二つ目を口にした私に、はるは何処か恐る恐る首を傾げてた。
どう? 美味しいって? 尋ねるみたいに。
あの時、私なんて答えてたっけ…………。
「甘い」
…………なんか、我ながら、情緒もくそもない返答だった気がする。
そんな、ろくでもないはずの感想に、はるは跳びあがりそうなくらいに喜んでいた。
そんな様子を、私はチョコレートを口に頬張ったまま、ぼんやり見ていて。
そうして、ようやく、袋にくっついていた小さなメッセージカードに気が付いた。
そこに書いてあったのは、薄ピンクのカードに綴られた、少し拙いはるの筆跡。
『くろえへ
ずっと、ずーっと、わたしのいもうとでいてください。
はるより』
私はそれをどこか曖昧に見つめながら、抱き着いてくるはるにされるがままになっていた。
まあ、私は所詮、もう離婚した連れ子の義妹で、今の関係は吹けば消える蝋燭みたいなものなんだよ、と。
……口にしないだけの情緒くらいは、さすがに当時の私にもあったけど。
あれから、毎年、はるはバレンタインになると、私にチョコを作ってくれた。
さすがに、途中からお互い慣れて、日常の延長で貰うようになったけど。私も次の年からは、ちゃんと準備するようにしてたし。
繰り返すうちに、そんなやり取りもすっかり手慣れて。私はいつも少し高めのチョコレートを、買って渡していたけれど、はるは毎年わざわざ手作りをしてくれいた。
いつもいつも、毎年この時期になると、私のいない時間を盗み見てはキッチンを占拠して、当日までは、絶対に隠し通すという、強い意志を見せていたっけ。まあ、相変わらず、バレバレなんだけど。
あの時のメッセージカードは、どうしてか今でも、私の机の奥にしまってある。
『ずっと、わたしのいもうとで―――』
なんて、口にした当人が、もう約束を忘れてしまったけれど。
そのはず―――なんだけど。
「 」
胸に押し当てられた小さな包みを見て、言葉が上手く見つけられない。
なんで、どうして。バレンタインには、まだ少し早いよ。
そんな、ありきたりな返答さえ、上手くできない。
ああ、琥白とつくったのかなとか、今日はこれをしてたんだねとか。
言えることは幾らでもあるはずなのに。
思考が、呼吸が、処理を忘れたみたいに停止してる。
だって、だって、だって…………これは。
少し右側が崩れた、いつものリボン。普段はあまり使わない癖に、こういう時だけ選んでくる、薄いピンクの可愛らしい包み袋。
そうして、開いた封の中にあったのは。
最初は拙くて、型から切り出すのすらおぼつかなくて。不器用で、いっぱい触るから手の温度で溶けて、ぐちゃぐちゃだったのに。
でも段々と慣れていって、コツを掴んで、少しずつ少しずつ、綺麗な四角い形にまとまるようになった。
あの時と同じ、生クリームを混ぜたチョコレート。
指先で軽く摘まめる大きさなのも、あの頃のまま。
少し、視線を上げると、はるはどことなく不安そうに私の方を窺っていた。
変かな? おかしくないかな? と言外に尋ねられている気がする。さっきまで、あんなに勢いよく来てたのに、もう不安になってきたのかな。
……そういうとこも、はるらしいけど。
暗い夜道の真ん中で、街灯の灯りだけを頼りに、吹き荒む冷たい風の中。
それとなく、チョコを一つ、口に運んだ。
「えっと…………どう……かな」
外気で少し固くなった、生チョコが、ゆっくりと私の冷たい体温の中で、本当にゆっくりと溶けていく。
硬く強張った何かを、少しずつ、解いてくように。
「………………甘いよ…………甘くておいしい」
私が、そう口にすると、あなたはぱあっと顔を明るくして、どこか泣きそうな顔で微笑んだ。
「よかった、えっと……頑張ったんだ。今日、琥白ちゃんと、一緒に作ってさ……」
そうやって少し恥ずかしそうに、赤らめた頬を掻く。照れのせいかな、寒さのせいかな。
「そう…………琥白にやり方教えてもらったの?」
私の知る限りでは、あの子、そういうスキルはなかったはずだけど。
「え、えと、レシピは教えてもらったかな……。あ、でもね、作り方はなんとなくわかったっていうか、こう指が勝手に動いたというか…………」
そうして、返ってきたはるの返答に私はそっと頷いた。……だよね、だって、何度も見慣れたチョコだったもの。
ほんの少しの癖も、微かなばらつきまで、本当に。
「そっか…………頑張ったんだね…………嬉しい」
あの頃の、あなたが作ってくれたみたいだ。
たとえ、それが身体に刻まれた、ほんの癖のようなものに過ぎなくても。
あなたの中に、かつてのあなたの名残が確かに残ってる。
それだけで、私は救われる。
「うん、えっと、それでね、黒江…………」
そう言って、あなたは続きを喋ろうとするけれど、私はその前にチョコの袋をそっと結び直した。そうして、あなたの手を取って、ゆっくりと歩き出す。
「つもる話もあるけど……今は帰ろ? このままだと風邪ひいちゃう」
そうして、あなたの歩調に合わせるように、ゆっくりと足を前に進める。さっきまでは、ぴくりとも動いてなかったくせに、あなたの前だと、かっこつけだねこの足は。
「え……あ……う」
そう、まだ、歩いていける。こうやって、あなたが少しでも温もりをくれるなら。
暗い深海を独りで行くような、呼吸すらままならない、静かで冷たい旅路でも。
私はまだ歩いていける。
そう想いながら、ふっとはるの手を引っ張ったら。
くんと微かに、腕が止まった。
え…………?
ふと振り返ると、はるがじっとその場に立ったまま、私を見ている。
どこか泣き出しそうな表情で、まるで何かを心に決めたみたいに。
私のことを、まっすぐと、滲んだ瞳のまま見つめてる。
「あの……ね、黒江」
「チョコの代わりじゃないけれど………………」
「お、お願いがあるの…………!」
「えっと…………えっと…………うー…………」
「えっと、うん…………うん!」
「あのね! 昔の私達のこと教えて欲しいの!!」
「その……、どういう関係だったかとか! どうやって出会ったかとか! い、色々!」
「き………………聞いてみたいの」
「ダメ…………かな?」
そうやって、震える声で、決意の言葉を告げるあなたを。
私は何も言えないまま、見つめてた。
いつかは、言わなくちゃいけないと解ってた。
あなたの心が、私の衝動が、それを許さないことは解ってた。
解っていた―――はずなのだけど。
いざ、あなたがその勇気を、見せつけてきた時に。
私はうまく、頷くことが出来ないでいた。
どうしてか、ずっと待ち望んでいたはずの、その言葉に。
私の胸の中は、嘘みたいに、凍り付いたように、暗く冷たく固まっていた。
「―――後悔……しない?」
漏れ出た声も、冬の夜風で、重く冷たく強張っていて。
そんな、私の揺らぐ想いとは裏腹に。
「―――うん」
あなたは、真っすぐと、頷いていた。
滲んだ瞳で、震えた唇で、覚束ない足取りで。
それでも、ただ、私のことを真っすぐと。
あの頃と、何一つ変わらない、そんな眼で私を見ていた。




