第93話 私はあなたと―①
あなたに大切な人はいますか?
わかりません。
誰かを大切にしたことはありますか?
わかりません。
そもそも大切ってどういうことですか?
ごめんなさい、わかりません。
6歳までの記憶しかない私には、そんな問いに出せる答えは、きっとないのだと想ってた。
だって、誰かを大切にしたことなんてないし。
大切にしてもらったことも、ないような気がしたから。
だから、こんな私を、皆が大事にしてくれる理由が分からなかった。
私のどこにそんな価値があるの?
それとも、今の私にはないけれど、いつかの私には価値があったの?
わからない。10年という途方もない時間をかけても、私なんかじゃそんな価値は得られない気がするけれど。
お母さんの個展で見た、あの鮮烈な蒼い空の写真のような。
そんな『特別』にはどうあがいても、私なんかじゃ届かないものだと想ってた。
なのに、10年後の私は、どうやら沢山の人に大切にされていたみたい。
それをこの一か月で、否が応でも理解する。
お母さんと仲直りして、文芸部の部長になって、生徒会の人と知り合いで。
そして―――。
『そもそも―――お前が変えたんだ』
誰かの人生を変えて。
………………本当に、そんなこと出来てたのかな?
考えれば、考えるほど、その私は、今の私から遠ざかっていくような気がしてた。
だから、知るのが怖かった。
ずっと、ずっと。
自分じゃない知らない誰かが、進む道の先にいるみたいで。
それを知ってしまったら、それに気づいてしまったら。
私は、今の『特別』じゃない私は、ここにいる権利を失くしてしまうような気がしてたから。
ずっとずっと、怖かったんだ。
幼いフリをして、無力なフリをして。
この一か月、私は、いつかの私からずっと逃げていたような気がする。
知らなければ、気付かなければ。
ずっと、弱い私のままで、いられるような気がしてたから。
でも、そんな私の隣で、泣いている人がいた。
弱い私を、無力な私を、必死に守って、そばに居て。
私は、その人のことを、何一つも覚えていないのに。
その人が、どうして私を大事にしているのかさえ、何も知らないのに。
涙を隠して、言葉を隠して、姉みたいに、親友みたいに。
血の繋がりもないはずなのに。
ずっと、私の傍にいてくれた。
誰かを大切にしたことはありません。
大切が何なのかすら、よく分かっていません。
どうしてそうするのかすら、解りません。
でも、それでも。
そんな私でも。
このたった一か月の時間の間。
大切にしてもらったことだけはわかります。
その手がかりを、私は目覚めてからずっと、実は手にしていたような気がします。
だって、記憶は、失くしてしまったけれど。
想い出も、もう何処にも残ってはいないけど。
でも、それでも、この身体には17年の月日の残滓が、確かに宿っていました。
包丁を持つ手先が、チョコレートを切る些細な指の動きが、私にそれを教えてくれます。
この失くした10年の間、お前は確かに生きてきたんだと、何かを為していたんだと。
お前は確かに、頑張っていたんだと。
きっと私、不器用なんで、大したことは、出来ていないと思うけど。
でも、どうやら、どうにも。
何もしていなかった、というわけでもないようです。
きっと頑張って、ご飯を作って、きっとたくさん失敗しながら、誰かのために悪戦苦闘していたのでしょう。
そんな少しおちょっこちょいな姿なら、どうしてか、ちょっと想像できます。
それが沢山の人に大切にして貰える程、価値があったことかはわからないけど。
ずっと、遠く向こうの、知らない誰かのように見えた、かつての私が。
そうして、初めて、少しだけ近くに見えました。
10年という長い月日の先で、ほんの少しは頑張っていた私。
きっと不器用なまま、きっと沢山失敗を重ねながら。
それでも何かを為していた、そんな、いつかの私への微かな糸を。
今日、初めて、掴むことができたような気がします。
そうして、ようやく、私はその糸がもう一本、既に手の中にあったことに気が付きました。
こんな私を、ずっとずっと大切にしてくれた人。
何も覚えていない私の、何もできなかった私の、それでも傍に居てくれた人。
その人の隣に居ると、胸が安らぎます。
不安や痛みが、その人の腕の中にいると、嘘のように消えていきます。
触って、照れて。
撫でて、安心して。
握って、ドキドキして。
6歳の私にとっては、知らない感情ばかりだったけど。
それを受け取る資格があるのかすら、ずっとわかっていなかったけど。
でも、想い出を全てを忘れても、この身体はきっと覚えていたのです。
積み重ねた10年が、傍に居てくれた記憶の残滓が。
ずっと、あの人のことを、求めていたのです。
今の私は、それを何も知らないけれど。
もう―――何も知らないままには、したくありませんでした。
だって、あの人が泣きそうな顔をすると。
私も、泣きそうになってしまうから。
どうしてかは、わからなくても。
その想いだけは、わかってしまうから。
走ります、走ります。
夜道を独り、白い息を荒げながら、それでも今は、あの人のところへ。
寒くて、震えて、息は絶え絶えになってるけれど。
胸に抱きかかえた、小さな包みを手放さぬよう。
早く、早く。
零れそうな何かすら、今は、ただ置き去りにして。
私のことを、大切にしてくれた。
あなたのもとへ。
※
「………………はる?」
「黒江!!」
そうして、暗い冬の夜道の真ん中で。
ぽつんと浮かんだ、小さな街灯の下。
やっと見つけたあなたの元へ。
私は精一杯、駆けていきました。
そうして勢いのまま、手に持った小さな袋を、あなたの胸に押し付けて。
「あのね、これ、私が、作ったの」
「――――だから、受けとって、欲しいな」
泣きそうになりながら、そうやって精一杯に笑う私を。
あなたは、じっと見つめていました。
どうしてか、言葉を失くしたように。
どこか、泣きそうな顔をして。
暗い夜道の真ん中で、まるで迷子の子どもみたいに。




