第92話 姉を―――
独りになると、ふと考える。
一か月、そう一か月。
記憶を失ったはるの隣に、私は立ってた。
姉のように、母のように、いつかあの人がしてくれた沢山のことに報いるために。
耐える覚悟はしてたつもりだ。はるがしてくれたことに比べたら、きっとまだまだ10年くらいはお世話しないと釣り合わない。
わかってる、まだまだ挫けるわけにも、諦めるわけにもいかない。
そうならないように、親父に啖呵を切って、お義母さんに抱きしめてもらって、琥白に励まされて、白乃さんに諭されて、みんなに手伝ってもらってるんだから。
わかってる―――はずなのだけれど。
最近、ふと気を抜くと、身体中に細かい傷が走ったような痛みを感じる。
誰かといるときは大丈夫、でも独りになった途端、ふと暗い海の中にいることを思い出すように。
手や足に、ふと力が入らなくなる時がある。壊れたロボットがいくらレバーを倒しても、うんともすんとも言わないみたいに。
時々、口にするべき言葉が見つからなくて。
曖昧に、ただ笑うしか出来ない時がある。
…………そういえば、はるもよくこんな風に笑ってたっけ。困ったように、言葉に詰まって、ただ曖昧に。
おかしいなあ、今日、白乃さんに愚痴って、ちょっと落ち着いてたはずなのに。
冬の夜道をぼんやりと独りで歩いてく。こつこつと、アスファルトの上を、どこかおぼつかない足取りのまま、ただ漠然と。
琥白から連絡があった、はるが返ってくるはずの電車の時間を目安に、駅へと向かう。
ただスマホを見ても、肝心のはるから連絡はない。かつてのはるなら、こういう時は絶対連絡があったはずだけど。
………………ダメだ。考えるな、そんなこと。
今のはるに、責任は、落ち度は、何もないんだから。
私がずっと、私だけがずっと、いつかの残像を追っているだけ。
瞼の裏に焼き付いたあなたの面影を、もう失われたはずのそれを。
ただ手放すことができていないだけ。
…………それが普通だ、って白乃さんは言ってたけど。
そうなのかな、そうだとして、どうしたらいいんだろう。
この胸の内に抱えた、大きな、大きな、黒くて濁った大きな何かを。
私は、何処に置いておけば、いいのだろう―――。
足が段々とゆっくりになっていく。
冷たい夜道の中で、徐々に、何かに足を取られるていくように。
暗い水底を、独りで歩いているような。
底の見えない、淀んだ何かが、ずっと私を掴んでいるような。
ダメだ、行かなきゃ。はるを迎えに行かなくちゃ。
なのに、足は段々と。
ゆっくり、ゆっくり。
進む力が弱くなって。
ふと、気付いた頃には。
どうしてか、動かなくなっていた。
レバーを幾ら押しても、足が動かない。動け、動けと、頭からの指令は鳴りやんでいないはずなのに、身体が従うことを止めてしまったみたいだ。
がこんがこんと、レバーを必死に傾ける音だけが、頭の中で響いてる。
でも、現実は何一つも変わらなくって。
暗くて寒い夜道の途中で、独りぼっち。
何処にも行けず、何処にも帰れず。
ただ、どうしたらいいのかも分からないまま。
冬の風の冷たさが、じわりじわりと、私の体温を奪ってく。
早く、迎えに行かなくちゃ。そうでなくても、こんなとこにいたら、風邪引いちゃう。
そう、解っているはずなのに。
私は、何もできなくて。
眼元から、何かが零れそうになっているはずなのに。
夜風が冷たくて渇いているせいかな。
雫の一つも、零れてくれない。
どうしたらいいんだろう。わからない。
これから、どうしたらいいのか。
どうやったら、この足が進むのか。
今は、何も。
何も――――。
わからないよ。
たすけて―――。
「おねえちゃん」
そうやって、私が泣きついた、あの日のことを。
あなたは、もう覚えてはいないのだけれど。




