第91話 私は―――
バターと生クリームを溶かしたチョコレートを、ラップを敷いたバッドにゆっくりと流しこんでいく。
零れないよう、気泡が立たないよう、静かにゆっくり、でも淀みなく。
波が川岸に届くのを、スローモーションで眺めるみたいに、チョコレートがパッドをゆっくりと流れていくのを、ただ眺める。
指が微かに震えているけれど、特にそれは問題じゃない。時間をかければ、チョコレートは確かにパッドに収まってくれるはず。
私は、それを知っている。
知識としてはわからないけれど、大丈夫、という直感が、私の背後でそっと頷いているみたい。
大丈夫、これでいい。
最後の一滴を、パッドに落としてから、ふぅっと軽く息をつく。
さっと容器の縁についたチョコも落として、軽くパッドを揺すっていく、こうすることで多分、底に沈んだ気泡が浮いてくる。
とんとんと軽く小刻みにパッドを揺らすと、小さな気泡がぽつぽつと湧いてくる。私の確信を、まるで証明してくれるかのように。
最後に軽く、ラップをかけて、容器ごとそれを冷蔵庫にしまい込んだ。
カタンと小さな音を立てて、しまわれていくチョコレートを、私は少しの間、何も言えないまま見つめてて。
でも、やがて、少しだけ頷いて、冷蔵庫の扉を静かに締めた。
息を吐きながら、背後を振りかえると、ぎゅっと両手を握った琥白ちゃんが、どこか緊張した面持ちでこっちを見てる。
「で、出来上がりですかね?」
「……うん、大体は。後は冷えたら、仕上げするだけかな」
そうやって、口にすると、琥白ちゃんはやったと小さく跳びあがる。私はそんな彼女の様子に軽く微笑んで、同時にふっと、自分の指をそっと見る。
6歳の記憶の中にあったそれは、もっと丸くて、不器用な、何もできない指だったはずだけど。
今そこにある私の指は、微かに震えながら、それでも確かに何かを成していた。
わからない、そんな感覚は、ともすれば初めてのはずなのに。
私の胸はどこか、安心したように息を吐いていた。
その吐息を、その安堵を、その感触を。
ふっと力の抜けた身体に、少しずつ熱が灯っていく感覚を。
どうしてか、私はずっと、知っていたような気もしてた。
そう、私はずっと―――。
※
『…………そっか、琥白の家まで行ってたんだ』
「……うん、九時半くらいまでには帰るから、ご飯は置いといてくれると嬉しいの。…………えっと、ごめんね、急に」
『ううん、りょーかい。寒いから、気を付けてね』
「うん…………じゃあ、また後で」
そう言ってから、スマホを耳から離す。そうして、一呼吸置いてから、そっと通話を終える。
ふっと顔を上げると、洗い物をしてくれている琥白ちゃんが、キッチンから顔を覗かせていた。
「灰琉せんぱーい、黒江どうでした? 怒ってませんでした?」
そう尋ねてくる琥白ちゃんに、私はそっと首を横に振る。
「ううん、大丈夫、寒いから気を付けてって」
私がそう言うと、琥白ちゃんはほっと胸をなでおろしていた。
「そうですかー、よかったー、私のせいで灰琉先輩が怒られたら、どうしようって…………まあ、黒江に限ってないとは思いますけど……」
そんな彼女の心配を聞きながら、私はそっとキッチンに戻って、琥白ちゃんが洗ってくれた食器を少しずつ片付け始める。他人様のお家のものだから、勝手はわからないけれど、ある程度無難なまとめ方にしておこう。
「琥白ちゃん、パッドはここでいい?」
「え、あ、はい。……ていうか、灰琉先輩、大丈夫なんで座っててください。チョコづくり、結局、ほとんどやってもらっちゃったし……」
言いながら、琥白ちゃんは濡れた指のまま、頬を掻いていた。私はそんな彼女の言葉に、軽く首を横に振りながら、食器をできるだけ丁寧に片づけていく。そうやって、自分の指が迷いなく動いていくのを確かめていくように。
「ううん、準備は全部琥白ちゃんがしてくれたんだし、全然いいよ。むしろ夢中になって全部やっちゃって、ごめんね。あ、それと今度、材料費持ってくるね?」
そうやって、零れていく言葉に、どうしてか妙な納得感が私の中で湧いてくる。こうやって、口にするのが自然、こう告げるのが普通。
少し面食らった琥白ちゃんを端目に、自分の指が動いていくのを、ただじっと見る。
そう、私はこれを知っている。
記憶は何も戻ってない、眼を閉じても浮かぶのは、6歳までの光景ばかり。
でも、それでも、この指は迷いなく動いていく。
そんな言葉にならない実感だけを、私はゆっくりと辿っていった。
目の前に落ちた一本の毛糸を、そっと手繰っていくように。
6歳の記憶にはない、17歳の記憶の残滓に。
ただじっと、耳を澄ませたままでいた。
※
記憶を失くして、目が覚めて。
この一か月、私は訳が分からないまま、ただ漠然と過ごしてきたような気がする。
ずっと何かが、ずれているような、そんな感覚。
見ず知らずの誰かの身体に、勝手に間借りしているかのような。
そんな、居心地の悪さと、申し訳の無さを、ただずっと感じてた。
だって、私は何も知らないんだもの。生理のことも、伸びた背丈も、膨らんだ胸も、制服の着心地も、高校の勉強も。
誰かに大事にされるということも――――姉妹がいるという感覚も。
私は何も知らなかった。
だって、6歳までの私の世界に、そんなものは何処にもなくて。
だから、17歳の私は、今の私にとって、遠く向こうの誰かの様だった。
分厚いガラスの壁を隔てた向こうで笑っている、知らないどこかの他人みたい。
みんなが私のことを見ているけれど、違う誰かを見ているような気がしてた。私じゃない、誰かを、みんな見ているんじゃないかって。
本当の私には、こんなに大事にしてもらえる価値なんて、何処にもないのに……。
そう想っていたのだけれど―――。
チョコづくりをしてる時、何かがふっと糸のように繋がった。
ガラスの向こうに居た、知らない私と、今の私が。
ふっと小さな糸でつながった。
どうしてだろう、わからないけど。
言葉にならないまま、私はそのあやふやな何かを、必死に、ぎゅっと握りしめていた。
これは、きっと、大切なもの。
私と私を繋ぐ手がかり。
こんな今の私の先に、いつかの私は確かにいたのだと。
そんな、本来は当たり前のはずの事実の、ほんの一欠けら。
わからない、どうして、今これを想ったのか。
わからない、これから、どうなっていくのかも。
わからないけど。
冷蔵庫でしっかり冷やしたチョコを、そっと切り分けて。
ココアパウダーを振って、くっつかないように、ラッピングをする。
汚れないよう、綺麗になるよう、何かをそこに込めながら。
小さな袋にリボンを結んで、出来上がったものを、私は微かに指を震わせたまま、じっと見た。
そんな私に、琥白ちゃんはどこか、優し気に微笑んで、そっと尋ねてくる。
「ねえ、灰琉先輩、これ、誰に渡しましょっか?」
そうやって、尋ねられた問いの答えを。
私は、最初からずっと知ってた気がする。
ぽつりと漏らした私の言葉に。
琥白ちゃんは、どこか満足げに頷いていた。
そうして、私は、帰り際、琥白ちゃんと白乃さんに見送られながら。
暗くて寒い、冬の夜道を駆けだした。
白い息を、向かい風に、棚引かせながら。
家で待つ、あの人の所へ。
何を伝えればいいのか、どんな顔をして渡せばいいのか。
何一つわからないまま。
それでも、誰かに背を押されていくかのように。
ただ、冬の夜道を駆けていた。




