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もう姉妹には戻れない  作者: キノハタ
第8章 わたしとあなた

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第91話 私は―――

 バターと生クリームを溶かしたチョコレートを、ラップを敷いたバッドにゆっくりと流しこんでいく。


 零れないよう、気泡が立たないよう、静かにゆっくり、でも淀みなく。


 波が川岸に届くのを、スローモーションで眺めるみたいに、チョコレートがパッドをゆっくりと流れていくのを、ただ眺める。


 指が微かに震えているけれど、特にそれは問題じゃない。時間をかければ、チョコレートは確かにパッドに収まってくれるはず。


 私は、それを知っている。


 知識としてはわからないけれど、大丈夫、という直感が、私の背後でそっと頷いているみたい。


 大丈夫、これでいい。


 最後の一滴を、パッドに落としてから、ふぅっと軽く息をつく。


 さっと容器の縁についたチョコも落として、軽くパッドを揺すっていく、こうすることで多分、底に沈んだ気泡が浮いてくる。


 とんとんと軽く小刻みにパッドを揺らすと、小さな気泡がぽつぽつと湧いてくる。私の確信を、まるで証明してくれるかのように。


 最後に軽く、ラップをかけて、容器ごとそれを冷蔵庫にしまい込んだ。


 カタンと小さな音を立てて、しまわれていくチョコレートを、私は少しの間、何も言えないまま見つめてて。


 でも、やがて、少しだけ頷いて、冷蔵庫の扉を静かに締めた。


 息を吐きながら、背後を振りかえると、ぎゅっと両手を握った琥白ちゃんが、どこか緊張した面持ちでこっちを見てる。


 「で、出来上がりですかね?」


 「……うん、大体は。後は冷えたら、仕上げするだけかな」


 そうやって、口にすると、琥白ちゃんはやったと小さく跳びあがる。私はそんな彼女の様子に軽く微笑んで、同時にふっと、自分の指をそっと見る。


 6歳の記憶の中にあったそれは、もっと丸くて、不器用な、何もできない指だったはずだけど。


 今そこにある私の指は、微かに震えながら、それでも確かに何かを成していた。


 わからない、そんな感覚は、ともすれば初めてのはずなのに。


 私の胸はどこか、安心したように息を吐いていた。


 その吐息を、その安堵を、その感触を。


 ふっと力の抜けた身体に、少しずつ熱が灯っていく感覚を。


 どうしてか、私はずっと、知っていたような気もしてた。


 そう、私はずっと―――。






 ※






 『…………そっか、琥白の家まで行ってたんだ』


 「……うん、九時半くらいまでには帰るから、ご飯は置いといてくれると嬉しいの。…………えっと、ごめんね、急に」


 『ううん、りょーかい。寒いから、気を付けてね』


 「うん…………じゃあ、また後で」


 そう言ってから、スマホを耳から離す。そうして、一呼吸置いてから、そっと通話を終える。


 ふっと顔を上げると、洗い物をしてくれている琥白ちゃんが、キッチンから顔を覗かせていた。


 「灰琉せんぱーい、黒江どうでした? 怒ってませんでした?」


 そう尋ねてくる琥白ちゃんに、私はそっと首を横に振る。


 「ううん、大丈夫、寒いから気を付けてって」


 私がそう言うと、琥白ちゃんはほっと胸をなでおろしていた。


 「そうですかー、よかったー、私のせいで灰琉先輩が怒られたら、どうしようって…………まあ、黒江に限ってないとは思いますけど……」


 そんな彼女の心配を聞きながら、私はそっとキッチンに戻って、琥白ちゃんが洗ってくれた食器を少しずつ片付け始める。他人様のお家のものだから、勝手はわからないけれど、ある程度無難なまとめ方にしておこう。


 「琥白ちゃん、パッドはここでいい?」


 「え、あ、はい。……ていうか、灰琉先輩、大丈夫なんで座っててください。チョコづくり、結局、ほとんどやってもらっちゃったし……」


 言いながら、琥白ちゃんは濡れた指のまま、頬を掻いていた。私はそんな彼女の言葉に、軽く首を横に振りながら、食器をできるだけ丁寧に片づけていく。そうやって、自分の指が迷いなく動いていくのを確かめていくように。


 「ううん、準備は全部琥白ちゃんがしてくれたんだし、全然いいよ。むしろ夢中になって全部やっちゃって、ごめんね。あ、それと今度、材料費持ってくるね?」


 そうやって、零れていく言葉に、どうしてか妙な納得感が私の中で湧いてくる。こうやって、口にするのが自然、こう告げるのが普通。


 少し面食らった琥白ちゃんを端目に、自分の指が動いていくのを、ただじっと見る。


 そう、私はこれを知っている。


 記憶は何も戻ってない、眼を閉じても浮かぶのは、6歳までの光景ばかり。


 でも、それでも、この指は迷いなく動いていく。


 そんな言葉にならない実感だけを、私はゆっくりと辿っていった。


 目の前に落ちた一本の毛糸を、そっと手繰っていくように。


 6歳の記憶(今の私)にはない、17歳の記憶(かつての私)の残滓に。


 ただじっと、耳を澄ませたままでいた。














 ※



 記憶を失くして、目が覚めて。


 この一か月、私は訳が分からないまま、ただ漠然と過ごしてきたような気がする。


 ずっと何かが、ずれているような、そんな感覚。


 見ず知らずの誰かの身体に、勝手に間借りしているかのような。


 そんな、居心地の悪さと、申し訳の無さを、ただずっと感じてた。


 だって、私は何も知らないんだもの。生理のことも、伸びた背丈も、膨らんだ胸も、制服の着心地も、高校の勉強も。


 誰かに大事にされるということも――――姉妹がいるという感覚も。


 私は何も知らなかった。


 だって、6歳までの私の世界に、そんなものは何処にもなくて。


 だから、17歳の私は、今の私にとって、遠く向こうの誰かの様だった。


 分厚いガラスの壁を隔てた向こうで笑っている、知らないどこかの他人みたい。


 みんなが私のことを見ているけれど、違う誰かを見ているような気がしてた。私じゃない、誰かを、みんな見ているんじゃないかって。


 本当の私には、こんなに大事にしてもらえる価値なんて、何処にもないのに……。


 そう想っていたのだけれど―――。


 チョコづくりをしてる時、何かがふっと糸のように繋がった。


 ガラスの向こうに居た、知らない私と、今の私が。


 ふっと小さな糸でつながった。


 どうしてだろう、わからないけど。


 言葉にならないまま、私はそのあやふやな何かを、必死に、ぎゅっと握りしめていた。


 これは、きっと、大切なもの。


 ()(いつか)を繋ぐ手がかり。


 こんな今の私の先に、いつかの私は確かにいたのだと。


 そんな、本来は当たり前のはずの事実の、ほんの一欠けら。


 わからない、どうして、今これを想ったのか。


 わからない、これから、どうなっていくのかも。


 わからないけど。


 冷蔵庫でしっかり冷やしたチョコを、そっと切り分けて。


 ココアパウダーを振って、くっつかないように、ラッピングをする。


 汚れないよう、綺麗になるよう、何かをそこに込めながら。


 小さな袋にリボンを結んで、出来上がったものを、私は微かに指を震わせたまま、じっと見た。


 そんな私に、琥白ちゃんはどこか、優し気に微笑んで、そっと尋ねてくる。


 「ねえ、灰琉先輩、これ、誰に渡しましょっか?」


 そうやって、尋ねられた問いの答えを。



 私は、最初からずっと知ってた気がする。



 ぽつりと漏らした私の言葉に。



 琥白ちゃんは、どこか満足げに頷いていた。



 そうして、私は、帰り際、琥白ちゃんと白乃さんに見送られながら。



 暗くて寒い、冬の夜道を駆けだした。



 白い息を、向かい風に、棚引かせながら。



 家で待つ、あの人の所へ。



 何を伝えればいいのか、どんな顔をして渡せばいいのか。



 何一つわからないまま。



 それでも、誰かに背を押されていくかのように。



 ただ、冬の夜道を駆けていた。

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