第90話 姉と悩む
ガゴンと音を立てながら、自販機がその身を揺らす。
微糖の缶コーヒーを自販機から取り出しながら、私は自分の分の小銭を自販機に入れていく。
……何飲もっかな。ブラックか、カフェオレか。
しばらく空中で指先を遊ばせてから、結局決めあぐねて、白乃さんと同じ微糖にした。どっちつかずだから、普段はあんまり選ばないんだけれど。
どことなく、曖昧な気分だったのかもしれない。気を引き締めたいわけでもなく、かといって緩めたいわけでもなく。
そんな、どことなく地に足がつき切らない感覚のまま、冷たい廊下を独り歩いてく。もう少し陰り始めている、窓の向こうをぼんやりと眺めたまま。
こつこつと自分の足元で響いているはずの足音が、どことなく遠く向こうで響いているように聞こえてた。
※
「ん、ありがと」
文芸部の部室に戻って、缶コーヒーを手渡すと、白乃さんは、そう静かに頷いた。
私は、白乃さんの向かいの席にそっと腰掛けて、なんとはなしに自分の分の缶コーヒーの蓋を開く。
しばらく、二人して、特に何を言わずに、コーヒーをすするだけの時間が流れる。
「……で、最近どうだ?」
そんな状況を察してか、白乃さんは苦笑気味に、そう私に尋ねてきた。…………これじゃあ、相談しに来たのに、上手く口に出せない子どもみたいだ。…………まあ、あながち間違いでもないんだろうけど。
「…………慣れましたね」
口から漏れた言葉は、別に嘘でもない。
「ふーん、慣れたか。新しい生活に?」
何気ない調子で会話は続く、そうなるように、整えられた声色で。
「―――はるが、私を忘れたことに」
声が口に出た瞬間、一瞬、ほんの微かな一瞬、空気が止まった。
その停止が、ほんの少し、私の胸に針のような痛みを連れてくる。
「………………そうか」
白乃さんは、私の言葉に、あえて目立った反応はしてこない。それがせめてもの救いだろうか。
「一か月も経つと、さすがに慣れてきました。そんなことより、はるが今、困ってることを何とかしなくちゃいけないし。学校も、家のことも、やるべきことは色々あるし」
その大半を、今は人に委ねているわけだけど、それでもすべきことがなくなったわけじゃない。
そうやって、はるのために何かをしていると、当たり前なんだけど、思い知らされる。はるの中には、もうかつての私がいないことを。
「………………」
「まあ、別にそれでいいとは想うんです。頑張るって決めたし、はるが昔してくれたことの恩返しみたいなものだから。それに、はるのために何かをしてあげるのは、結構好きです。ご飯作ったり、ちょっと慰めたり、困ってたら手を差し伸べたり…………でも」
「……………………でも?」
ふっと息を吐いて、天井を仰ぐ、眼元から雫が零れていかないように。胸の奥でじくじくと滲む痛みに、気を向けないために。
「時々、ちょっと悲しくなります」
零れた言葉は、我ながら平坦で、感情の一つも滲んでないかのような声だった。
「………………」
白乃さんは、どんな顔してるだろ、今はうまく見れないけれど。
「ああ、はるは本当に何も覚えてないんだなって。一緒に料理したことも、想い出のコップも、いつも一緒に見てた朝のテレビも。何もかも、ぜんぶ、ぜーんぶ」
「………………」
眼元から熱い何かが零れそうになる。でもそれはじっと耐えていたら、喉の方に降りていってくれる。こうすれば、零さずにすむことを、私は知ってる。
「そうやって、今のはるに、昔のはるを重ねちゃうのを、自覚するとちょっと嫌になります」
理屈では解っていること。別にはるが忘れたくて、忘れたわけじゃない。今の記憶を失くしたはるが、悪いわけでもない。
でも、ただ、それでも、はるの隣に居ると………………。
「………………」
ふと、情景が重なってしまう瞬間がある。
喉の奥で必死に誰かが、戸を叩いているような、時がある。
想い出してと、忘れないでと。
罪も責任もない、あの人に、訴えてしまいそうになる時がある。
そんなことは決して―――絶対に―――許されてはならないけれど。
「でも、たまに……ちょっとだけ……想っちゃうんです」
そんな理不尽で、謂れのない情動が。
胸の内に、ふっと湧いてしまうことがある。
「…………なるほどなあ」
白乃さんは、少し何かを吐き出すように、ため息を吐く。
…………少し、話を重くしすぎたかな。ちょっとしたお悩み相談くらいのつもりだったけど。
「………………すいません、愚痴っぽくなりました」
だから、そう軽く謝罪をすると。
「別にいいよ、むしろちょっと安心した」
白乃さんは、缶コーヒーを啜りながら、そういって静かに笑ってた。
「…………安心?」
……どこに安心する要素があったんだ。
「んー……そうだな、お前も案外人間だったんだなと」
そう言って、白乃さんは少し意地悪気に瞳を細める。まるで猫か何かみたいに。
「…………どーいう意味ですか? てか私、何に見えてるんですか?」
そうやっかみを向けてみるけれど、白乃さんはけらけらと笑うばかりで、さっぱり怯む様子もない。
「んー、なんだろな。ロボット? AI?」
挙句に、そんなことを言ってくる始末だ。はあ、とため息を吐くけれど、脳内の琥白がうんうんと頷いてきやがる。うるさいなあ、八木原姉妹は。
「そりゃあ、わるうございました。いつも冷血ですみません」
思わず漏れた声は、どこからどう聞いてもぶーたれていた。くそう、人を何だと思ってるんだ。
「はっはっは、拗ねるな、拗ねるな。…………まあでも実際、お前もそんな風に悩むんだなって、ちょっと安心したのは確かだ」
そういってけらけら笑う白乃さんを半眼で見ながら、私ははぁとため息を漏らすばかりだ。
「いや、悩むでしょ、普通に考えて」
だから、そうぼそっと呟いたら。
「そうだな、悩むな、普通」
そう、当たり前のように返された。
「………………」
そんな白乃さんの言葉に、どうしてか喉が詰まってしまう。
「…………私から見たら、まあそりゃそうだろうなって感じだ。昔の灰琉の姿も、まあ、そりゃあ思い出すだろ。多分、灰琉が逆の立場でも、同じようなこと思い出しているし。私や琥白でも、多分同じことしてる」
そう言ってにっと笑いかけられて、思わずバツが悪くなって少し俯く。
「まあ…………そう……なんですかね」
我ながら、返事の切れがすこぶる悪い。
「そう、普通だ。むしろ自然なくらいだ」
言いながら、白乃さんは、こつんと音を立てながら、缶コーヒーを机に置いた。そのまま指で、バランスを取るように、からからと傾けて遊んでる。
「………………」
普通、自然、そうなのだろうか。こんな、どうしようもない想いが湧いてくるのに。それが許されていいこととは思い難いのに。
「口に出して、本人にぶつけてないだけ、大層な話だ。私なら、ひと月で二・三回は探りを入れてるし、こはくなら五回は爆発してる」
そう言って、白乃さんは傾きかける缶コーヒーを何処か、愉しむように眺めてた。倒れそうで倒れない、ギリギリを探るみたいに。
「……………………そういうもんですか?」
そう尋ねてみるけれど、返答はどこか察していたような気もする。
「そういうもんだよ」
言いながら白乃さんは、そっと笑ってた。どことなく、いつもはあまり見せない優しい表情で。
私はしばらく、何も言えないまま、じっとその傾きかける缶コーヒーを眺めてた。倒れるか、倒れないかの境界を行ったり来たり、いつか倒れそうだけど、不思議と白乃さんの指でぎりぎりのバランスが保たれている。
いっそ、倒れてしまえば楽なのだろうか。そう思ってしまう時もあるけれど。
「………………」
そう言うわけにもいかないんだよね。
脳内で琥白が『じゃあ、私が貰うけど?』と意地悪な視線を向けてくるし。
ふぅっと肩の力を抜きながら、私も手に持っていた缶コーヒーをこつんと置いた。
そしたら、白乃さんはちらっと私の方を見て、変わらぬ調子で話を続ける。
「………………灰琉には、昔のこと話してるのか?」
その言葉に、微かに胸の奥が疼いたけれど、私は静かに首を横に振る。
「…………まだほとんど話してないです。お医者さんが言うには、まだ不安定な時期だから、周囲が思い出させるのは負担が大きいだろうって―――」
そう言った後、少しだけ、息を止めた。
「それに多分……そうやって想い出させようとしたら、はるは、昔の自分になろうとしちゃう気がするんです。周りの期待に応えて、望まれた姿に、無理矢理なろうとするかもしれない……それが、少し怖いかな」
私がそう言うと、白乃さんは静かに頷いていた。
「………………そうか、まあ、そうだろうな」
かつんと音を立てて、白乃さんの指から缶コーヒーが倒れた。ただ中身はもう入ってなかったらしく、カラコロとどこか空虚な音だけが響いてる。
「私たちは……特に……『普通の姉妹』じゃないから―――」
缶はゆっくりと机の上を転がっていく。カラコロと、まるで自ら堕ちていくみたいに。
「―――もし、それを今のはるが知ってしまったら」
どう―――なるのだろう。
また、一緒になれるのだろうか。それとも、違う私達になるのだろうか。
それならまだ、構わないけど。
でも、きっと何より怖いのは。
あの人が、自分の心を封じ込めて、私の隣で笑ったふりをしてしまうこと。
昔のはるの真似をして、今のはるの心を抑えつけて。
そうやって――――。
缶が、机から、堕ちていく―――――。
ピタリと。
その瞬間に。
白乃さんが、指で止めていた。
そっと、小さく、何気なく。
静かな微笑みを、浮かべたまま。
「わからんな―――」
そう言って、倒れた缶をゆっくりと立て直していく。指一つで、ふらふらと、とても静かに。
「人がどう『なる』かだけは、誰にもわからん。今の灰琉が、どうなるか。昔の灰琉を知って、何を思うのか、どうなろうとするか」
そうして最後に、カタンと音を一つだけ立てて、缶はそっと立ち上がる。
「わからんな…………」
そうして、白乃さんは珍しく、少し自信なさげに笑ってた。
「…………」
そんな先輩の表情に、私は何も言えないままで。
「…………当の灰琉はどうなんだ、昔のことは、あまり知りたがらないのか?」
何気なく紡がれる言葉の続きに、私は少しだけ目線を伏せた。
「どう……なんでしょう。時々、知りたそうな顔をする時もあるんですけど、口に出して聞いてくることは、ほとんどないかな。一応、聞き返したりするんですけど、やっぱりいいって……」
昔の話題が上がる時、はるの瞳はいつも、自信なさげに揺れている。その揺らぎを見ていると、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚がする。
「そうか……病院では、なんて言われてるんだ?」
「…………本人が興味を持って聞いてくるまでは、控えた方がいいって。逆に、興味を持ったなら、教えてあげる時期かもしれないって」
いつか、そんな時が来るのだろうか、もし仮に来たとして、私はちゃんと向き合えるのだろうか。
机の上に少し突っ伏すように、頭を落とすと、ぽんぽんと手のひらが降ってきた。そのままわしわしと、どこか無造作に頭を撫でられる。少し情けないような気もするけれど、微かに安心している私もいる。
問題は何も解決していない。というよりまだ、向き合うことすら始められていない。
そのはずなのだけど。
「琥白には内緒にしててくれな、あいつ、私がこういうのしてると怒るから」
少しだけ、その手のひらの感触に、縋ってしまう私がいる。
これから、どうなるのか、何も分からないけど。
ただ言葉を漏らして、想いを零して、それを受け止めてもらってる、それだけで。
少しだけ、気が抜けてしまう。
「…………琥白、意外とお姉ちゃんっ子なんですか?」
まるで白乃さんの妹みたいに、そうやって撫でられる。
「いーや? 人にしてたら、ぶーぶー文句言う割に、自分がされるとぷんぷん怒り出す。子ども扱いするなーって」
そんな言葉に、思わずぷっと吹き出した。
そうして、二人で、どこか抑えたような小さな笑い声を漏らしながら。
私はそのまま、髪がさらさらと撫でられる音の中、そっと眼を閉じていた。
そうやって、撫でられる感触が、いつかのはるの手のひらと重なって。
わからない、これからどうなるのかは、何一つ。
はるが、私が、どうなるか。
わからない、ままだけど。
「でもなあ、黒江」
「あの灰琉が、本当に、お前の心配してる通りになるかなあ?」
そうやって、少し揶揄うような白乃さんの声は。
どこか祈るようにも、聞こえた気がした。




