第3話 有線の祈り
母の形見、アーク・ドライブが、目を覚まします。
力には、代償がある。この物語の、いちばん大事な約束ごとを、この回で書きました。ナユタが何を差しだすのか、見ていてください。
白く灼けた世界が少しずつ色をとりもどしていく。
ナユタは自分がまだ生きていることに気づいて、ぼんやりとまばたきをした。放たれたはずの光は彼には届いていなかった。正確には届く寸前で見えない壁にはじかれていた。
体の前に淡い光の膜が張っている。シャボン玉のような、たよりない輝き。それが白いのの放った一撃を受けとめ、じりじりと押しかえしていた。
腕のなかの子どもらも無事だった。乾いた抜け殻にはなっていない。小さな体はまだやわらかく温かい。
「……なんだ、これ」
声がかすれた。頭がうまく働かない。ついさっきまで何かとても大切なことを考えていた気がするのに、それが思いだせない。靄のかかった頭のなかで、ただひとつ手のなかの機械の熱だけが現実だった。
アーク・ドライブが手のなかで熱を持っている。さっきまで氷みたいに冷たかった旧式の機械が、今は心臓みたいに脈打っていた。側面の端子はしっかりとナユタの手首に食いこんでいる。血管を通して何かが行き来しているのが感じられた。
まわりの景色がやけに遠い。倒れた人々も、そびえる白いのも、すべてが水の底から見あげる空みたいにゆらゆらとにじんでいる。そのなかで手のなかの機械の鼓動だけが、やけにはっきりと伝わってきた。
とくん、とくん、とくん。
まるで二つの心臓がひとつのリズムを刻みはじめたみたいに。
画面に見たことのない文字がつぎつぎと流れていく。古い言葉だ。父や母の書斎で一度だけ見たことのある、あの不思議な文字。白銀の輝きを持つ、流れるような字体。母はこれを「ずっと昔の、やさしい人たちの言葉」だと言っていた。あのときは意味がわからなかった。今もわからない。それでもなぜか胸の奥がきゅっと締めつけられる。
その文字の流れが、ふいに速さを増した。手首の端子から、じん、と熱が這いのぼってくる。何かが照らし合わされ、確かめられていく。言葉にはならないのに、その感覚だけがはっきりと伝わってきた。どこか懐かしい、やわらかな気配をまとって。
「母さん……これ、おれ、どうすればいいんだ」
答えはない。母はもう、どこにもいない。写真のなかの笑顔も、今はぼんやりとしか浮かばない。かわりに端子を通して伝わってくる感覚が、はっきりと変わった。さっきまではただざわめきを感じるだけだった。今は血の奥で眠っていた何かが、こちらの意識に応えてゆっくりと目を覚ましていく。
ナユタは直感した。これは目覚めなのだ。
自分の血の奥に眠っていた力が、強く願うほど封を破って返ってくる。
父と母は北極の氷の底で、こういうものを見つけたのだろうか。人を乾かす兵器に対する、たったひとつの答え。それをわが子の血のなかに隠して遺していったのか。
迎えが来る、と母は言った。
今になって、その意味がわかった気がした。迎えは人ではなかった。この機械と、そのなかに眠る何かだったのだ。
光の膜の向こうで、クオンが眉をひそめた。
「おや。防いだのか。虫けらのくせに、妙な手品を使う」
白いのがもう一度腕を掲げる。さっきより強い光が手のひらに集まっていく。ひとつめの一撃でさえ広場の人間を半分吸いつくしたのだ。つぎが来れば、この膜はたぶんもたない。
ナユタは倒れた子どもらを見おろした。まだ、かすかに胸が上下している。生きている。間にあうかもしれない。
迷っている時間はなかった。
ナユタはひとつ大きく息を吸った。心臓がばくばくと鳴っている。それでも迷いはなかった。
「わかったよ、母さん。おれは、ここで引かない。あんたたちがくれた力、ぜんぶ使わせてもらう」
空いたほうの手で端子をぐっと押しこんだ。針がさらに深く血管へ沈む。鋭い痛みが腕を駆けあがり、頭の奥で火花が散った。
その瞬間、眠っていた力が濁流のように目を覚ました。
父の大きな手。肩車をされて見あげた、まだ青かった空。母の鼻歌。少し焦げた卵焼きの匂い。三人で眠った、せまくて温かい布団。「おはよう」「おやすみ」「いってらっしゃい」。ありふれた、何でもない言葉たち。
それがひとつ、またひとつと端子を通して胸になだれこんでくる。長いあいだ霧の向こうにあった母の笑顔が、父の声が、まぶたの裏で一瞬だけくっきりとよみがえる。とっさに、つかみとろうとした。だが速すぎた。浮かんでは霧の向こうへ引いていく。あの卵焼きの匂いも、母の鼻歌も、父の肩の広さも、空の青さも、もう少しで届きそうなのに、指のあいだをすり抜けて、また遠ざかっていく。
「あ……」
痛みはあった。頭の奥で何かが灼けるように熱い。鼻の奥がつんとして、生あたたかいものがひとすじ唇を伝う。けれど、その痛みの向こうでたしかに何かが目を覚ましていく。長いあいだ眠っていた、おれ自身の力が。
胸の底から熱いものがせり上がってくる。
これが、おれの力か。
頭の奥で、ぱちりと留め具の外れる音がした気がした。熱が一段、深くまで通っていく。眠っていた力がまた一枚、封を破って応えてくる。その手応えだけが腕の芯に残った。
「……かまわない。やってくれ」
強がりではなかった。こわさよりも胸が高鳴っていた。思い出せなかったはずの父と母が、たった今たしかにそこにいた。顔も声もまだ霧の向こうだ。けれど、もう、のっぺりとした影ではない。手をのばせばいつか届く。そんな予感があった。
それでも、ナユタは歯を食いしばった。
倒れた子どもらに目を落とす。それから、遠ざかっていく思い出のほうへ、一度だけ視線を泳がせた。すぐに、また子どもらへ戻す。のばしかけた手を握りしめ、奥歯を噛みしめた。
思い出せないその顔が、どこかで笑ってくれた気がした。
光の膜がぐんと強さを増した。たよりなかったシャボン玉が分厚い鏡のような壁に変わっていく。白いのの二撃目がその壁に激突し、派手な火花を散らして四方へはじけ飛んだ。
地面が揺れ、砂ぼこりが舞う。広場じゅうがまばゆい光に包まれた。
腕が痺れていた。見えない壁を支えているのは自分の腕ではないのに、全身が重い水を担いだときのようにきしむ。歯の根がかちかち鳴る。それでもナユタは踏ん張った。半缶の水を運ぶのに慣れた肩だ。これくらいで膝を折ってたまるか。
倒れていた人々がうっすらと目をあけた。乾ききる寸前だった体に、わずかながら生気が戻っていく。ナユタの足もとで、兄のほうの子どもが小さくうめいて身じろぎした。
間にあった。
その実感が全身を熱くする。頭の奥の痛みも、今だけは忘れられた。守れた。ひとりでも、ふたりでも。この手でたしかに守れたのだ。
光の壁の中心で輝きがいっそう強くなる。まばゆさに目を細めながら、ナユタは、そこに生まれようとしている何かを見つめた。
機械の声が、澄んだ響きでそう告げた。
『バーチャドール、顕現します』
ナユタの目の前、光の壁の中心で、何かがかたちを結びはじめていた。ちいさな、人のような影。
白く灼けた光のただなかに、ひとつの輪郭が立ちあがる。
長い髪が重力をわすれたようにゆらめいていた。細い手足。やわらかな曲線。けれど、そのまとう空気は、どんな兵器よりも張りつめていた。
銀の髪が光を弾いて、ひとすじひとすじが細い糸のようにきらめく。金の瞳は、まだ焦点を結びきらないまま、それでもどこかなつかしげに宙をさまよっていた。
クオンがはじめて笑いを引っこめた。装甲車の屋根の上でわずかに身をのけぞらせる。余裕たっぷりだった若い将校の顔に、はじめて戸惑いの影がさした。
「……なんだ、それは。そんな兵器、聞いたこともないぞ」
白いのが威嚇するように低くうなった。その巨体のまとう空気が、ぴりぴりと焦りを帯びはじめる。人の絶望を喰う化け物が、たった一体の小さな光の影を前にしてたじろいでいる。
光のなかの影がゆっくりと目をあける。
その瞳がまっすぐにナユタをとらえた。
世界で彼だけを見ているような、深い、深いまなざしで。
ナユタは息をするのも忘れて、その姿に見入っていた。恐ろしいはずの状況なのに、なぜか涙がこぼれそうになる。彼女を知っている気がする。ずっと昔から、どこかで。けれど、その「昔」がどんなものだったか、もう思いだせない。
光の少女がそっとくちびるを動かした。
まだ声にはならない。けれど、たしかに何かを伝えようとしていた。
広場に満ちていた絶望の空気が、少しずつ別の何かに塗りかえられていく。
それはずっと忘れていた、あたたかな光の気配だった。
手首の端子が脈を打つたび、冷たい金属が熱を帯びていくのがわかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
思い出を失うという設定は、書きながら、ずっと胸が痛かったです。でも、失うからこそ、生まれるものがある。次回、ついに、彼女が姿を現します。




