第2話 喰らう神
前回のつづきです。
少しつらい回になります。それでも、この痛みを書かないと、このあとの光が、ちゃんと光らない。そう思って、書きました。覚悟して、読み進めていただけたら。
世界から音が消えた。
正確には消えたように感じただけだ。白いのが腕を掲げたそのとき、広場の空気ごと、何かが一気に引き抜かれた。人々の悲鳴も、赤ん坊の泣き声も、まるで水を吸う砂のようにあの巨大な化け物のなかへ吸いこまれていく。
ナユタは膝をついたまま、動けずにいた。体の芯から力が抜けていく。血が冷たい水に変わって、指先から流れ出していくような感覚。三年前に見た、あの干からびた抜け殻の光景が、今まさに自分の身に起きようとしている。
呼吸が浅くなる。まぶたが重い。立たなきゃ、逃げなきゃと頭では叫んでいるのに、体がまるで言うことをきかない。意思と肉体のあいだに、分厚いガラスが一枚はさまっているみたいだった。
「あ……あ……」
背中の子どもらが崩れるように倒れた。小さな体がみるみる生気を失っていく。ナユタは残った力でその二人を抱きよせた。だめだ。こんなところで。こんな、わけもわからないまま。
装甲車の屋根の上で、クオンがうっとりと目を細めていた。
「ああ、いいね。実にいい。ほら、もっと悲しんでごらん。もっと怖がって。君たちの絶望はちゃんと役に立つんだ。虫けらにしては上等な使い道だろう?」
人の命を電池かなにかのように語る声。そこには怒りすらなかった。あるのはただ、退屈しのぎの愉悦だけ。
ナユタは子どもらの顔をのぞきこんだ。兄のほうがうっすらと目をあけて、何か言おうとしている。くちびるがわずかに動く。
「……みず、ありがと」
それだけ言って、少年の目から光が消えた。弟のほうはもう反応しない。小さな手がナユタの服をつかんだまま、だらりと垂れた。
まだ、温かい。さっきまで笑っていた。路地の奥へ駆けていった。それがもう、動かない。
弟のにぎりしめた空き缶が、かたりと地面に落ちた。さっき半分わけてやった水が、乾いた土に黒いしみを広げて、すぐに消えていく。ナユタはその缶を拾うことも、できなかった。
ナユタの胸に、どろりと熱いものがこみあげた。恐怖は、いつのまにか、べつのものに変わっていた。
だが怒れば怒るほど、体から力が抜けていく。白いのはその感情を喰っている。憎むほどに、太る。抵抗するほど、餌になる。逃げ道が、どこにもない。
「爺さん……!」
かすれた声で、ナユタはガンツを探した。
老人は立っていた。片腕で錆びた拳銃をかまえ、化け物の足もとで仁王立ちになっている。年老いた背中がこきざみに震えていた。それでも、倒れない。
「よう、化け物。ひさしぶりだな。おれはまだ、お前らを許しちゃいねえ」
ガンツが引き金をしぼる。乾いた銃声がひとつ、ふたつ。弾は白いのの装甲にはじかれて、火花も立てずに落ちた。何の意味もない。わかっていて、撃っている。
それでも老人は撃つのをやめなかった。
「むかしな、おれもあっち側にいたんだ」
ガンツの声が妙に穏やかに響いた。まるで世間話でもするみたいに。
「軍の整備兵だった。白いのに油をさして、ねじを締めて、こいつがどれだけの人間を乾かすか、知らんふりをしてた。女房も、娘も、おれが手入れした機体に吸われて死んだ。皮肉な話だろう。おれは自分で自分の家族を殺す手伝いをしてたってわけさ」
誰も、何も言えなかった。ただ、老人の背中だけが、まっすぐにそこにあった。
「だからな、小僧。おれはここで死ぬのが、ちょうどいい。けどお前はちがう。お前はまだ、誰かに水をわけてやれる手を持ってる。そういうやつが生きなきゃいけねえんだ」
「ほう。おもしろい虫がいる」
クオンが指を一本立てた。
白いのの視線がガンツへと向く。次の瞬間、老人の体がぐにゃりとかしいだ。拳銃が手から落ち、乾いた音を立てて転がる。老いた体から、残り少ない生気が音もなく抜けていく。
「がっ……」
「爺さん! やめろ! やめてくれよ!」
ナユタは叫んだ。喉が裂けそうなほど叫んだ。それでも、何も変わらない。ガンツの体はゆっくりと前のめりに倒れていった。倒れる間際、老人はこちらを見て、かすかに笑ったように見えた。何か言おうとして、口が動く。
──生きろ。
声にならない声がたしかにそう言った気がした。
どさり、と乾いた音がして、ガンツは動かなくなった。隻腕の、しぶとい死にぞこないの老人は、それきり二度と起きあがらなかった。
ナユタのなかで、何かが音を立てて壊れた。
「う……あ……ああああっ!」
腹の底から、声がほとばしった。怒りでも、悲しみでもない。もっと原始的な、ただの叫び。涙が勝手にあふれて、頬を伝い、地面に落ちた。
その涙のぶんだけ、また力が抜けていく。わかっている。わかっているのに、止められない。この気持ちを押し殺すことなんて、どうしてもできなかった。
クオンがひとつ、あくびをした。退屈そうに、手の爪をながめている。何百人を乾かしておいて、その顔に浮かぶのは、ただのけだるさだけだった。
「泣くなあ。いい声だ。でも、そろそろ飽きてきたな。きょうの収穫はまあ平年並みってところか。もう少し気のきいた絶望を期待してたんだがな」
そして、ちらりとナユタのほうを見て、にやりと笑う。
「おい、そっちの小僧。最後にまとめて吸ってしまえ。子どもつきなら、きっと濃いぞ」
白いのの巨大な手のひらが、ゆっくりとナユタたちのほうへ向けられた。手のひらの中央で、青白い光が渦を巻きはじめる。あれが放たれれば、終わりだ。自分も、この子たちも、ガンツと同じ乾いた抜け殻になる。
ナユタは子どもらを強く抱きしめた。せめて、この腕のなかで。せめて、ひとりきりで逝かせないように。
まわりを見れば、広場じゅうの人間が倒れ伏していた。配給に並んでいた何百人が、声もなく地に伏している。まだ息のある者も、もう指一本動かせない。みんな、ただ生きのびたかっただけなのに。水をわけあって、肩を寄せあって、それでもどうにか明日を迎えたかっただけなのに。
そのささやかな願いすらも、この連中は許さない。
「ごめんな。おれ、兄ちゃん失格だ……なんにも、守れねえ」
ぎゅっと目を閉じる。背中の機械がまた、とくん、と脈打った。気のせいじゃない。たしかに今、母の形見が、生き物みたいに鼓動した。
その瞬間、ナユタの手のひらに、ちくりと痛みが走った。
見れば、背負っていたアーク・ドライブのケーブルが、布の隙間から這い出して、彼の手首にからみついている。先端の、注射針のような端子が、かすかに震えながら、血管の上をなぞっていた。まるで場所を探すみたいに。
「なん、だ、これ……」
機械の表面に、消えていたはずのわずかな光が、ぽつりと灯った。小さな、けれどたしかな光。暗い部屋にひとつだけ灯るろうそくのような、頼りないぬくもり。
ずっと動かなかった母の形見が、今、目を覚まそうとしている。
端子の先から、細い痛みが腕の奥へ伝わってくる。血管をたどって、心臓のほうへ、何かがのぼっていく感覚。恐ろしいはずなのに、なぜか、いやな気はしなかった。むしろ、ずっと昔に手をつないでいた誰かが、もう一度その手を握りかえしてくれたような。そんな、懐かしい心地。
母がよく、この機械を胸に抱えていたのを思いだす。壊れてもいないのに、まるで赤ん坊でもあやすみたいに、そっと撫でていた。あのとき母は何を見ていたのだろう。
白いのの手のひらで、光の渦がふくれあがる。放たれるまで、あと数秒。
不思議だった。あれほど抜けていくばかりだった力が、今はゆっくりと体の中へ戻ってくる。いや、戻ってくるのとは少しちがう。アーク・ドライブがナユタの血のなかから何かを吸いあげ、それを別のかたちに変えて、押しかえしてくる。白いのが人の絶望を喰うようにこの機械は、ナユタの中の何かを糧にしようとしている。
怖くはなかった。ただ、確信だけがあった。これは味方だ。母が遺してくれた、たったひとつの味方。
意識の奥で、眠っていた記憶の断片が、ふいに閃いた。父に肩車をされて見あげた青い空。母の作る、少し焦げた卵焼き。三人で囲んだ、小さな食卓の灯り。思い出せなかったはずの景色が、封じの向こうから、つぎつぎと浮かび上がってくる。どれも、あたたかくて、やわらかい。ナユタがこの世でいちばん取り戻したかった、宝物のような景色。
その景色が端子を通して、胸の奥へ、なだれこんでくるのがわかった。
戻ってくる。大事なものが、ひとつずつ。長いあいだ霧の向こうにあったものが、今、確かに手の中へ返ってくる。この子らと、この街を守れるなら。眠っていた力よ、ぜんぶ目を覚ませ。
ナユタは何も考えられなかった。ただ、母の声が、遠い記憶の底からよみがえる。
──迎えが来るから。それまで、強く生きなさい。
迎え。まさか、これが。
青白い光がまばゆく膨張した。
世界が白く灼けた。
読んでくださって、ありがとうございます。
ガンツという老人のことは、書いていて、こちらまで苦しくなりました。彼の最後の言葉が、ナユタをどこへ連れていくのか。次回、ようやく、母の形見が、動きだします。




