第1話 錆びた空の下で
はじめまして。『バーチャナイト』、ようやく書きはじめました。
人の嘆きを喰う兵器が空を歩く、そんな世界の片隅から、物語を始めます。まずは、主人公ナユタの暮らす街を、のぞいてみてください。灰色の空の下にも、ちゃんと、人の営みがあります。
人が、兵器の餌になる世界がある。
軍の殺戮機械は弾を撃たない。半径三キロの人間から、恐怖と絶望を根こそぎ吸いあげて動く。嘆くほど強くなる。だから軍は民を飢えさせ、おびえさせ、うつむかせる。幸福は燃料の目減りだ。この世界では、笑うことさえ罪になる。
そんな灰色の底で、おれ──ナユタは、ただ生きのびることだけを考えて生きてきた。あの光の少女に出会う、その朝までは。
「絶望の兵器より、僕の騎士のほうが、ずっと強い」。そんな一言を世界に叩きつける日が来るなんて、このときのおれはまだ知らない。
空が灰色に濁る朝は、だいたいろくなことが起きない。
根拠はない。ただ十七年も場末のスラムで生きていれば、天気と不運の相性くらい肌でわかる。晴れた日は配給が早く終わる。曇った日は兵の機嫌が悪い。そして空が病人の顔みたいな色をした朝は、きまって誰かが消えた。
崩れかけたビルの隙間から差す光は、どこかよそよそしい。昔はこの街にも駅があって、電車が走っていたらしい。今はレールが錆びつき、ホームだった場所に雨水がたまって、黒い鏡みたいに空をうつしている。
ナユタは配管の継ぎ目から滴る水を缶に受けながら、その鏡をぼんやり眺めた。ひと晩でこれだけ。ぽつん、ぽつんと落ちる音を数えるのが、目覚ましがわりだった。
黒い鏡に、自分の顔が揺れている。伸ばしっぱなしの黒髪は襟足で跳ね、前髪の隙間から眼光だけが鋭い。瘦せた頬。それでも肩幅だけは、年のわりに妙に広い。毎日、重い水を運んできた体だ。十七にしては草臥れた顔だな、と思う。
「……あー、かったるい」
首をぐるりと回す。節々がだるい。固い寝床のせいだ。
「また来てるな、あれ」
つぶやいた視線の先、遠い高層区で、巨大な影がゆっくり動いていた。人の形をして、人ではない。背丈は四十メートルを超えるだろう。真っ白な装甲が朝日をはじいて、神像みたいに街を見おろしている。
リアルドール。軍の殺戮兵器だ。
スラムの人間はあれを「白いの」と呼ぶ。本当の名を口にするのも恐ろしいからだ。あれが動けば人が死ぬ。撃たれて、ではない。
吸われて死ぬ。
一度だけ間近で見たことがある。三年前、隣の区画で白いのが稼働したとき、半径三キロの人間がいっせいに膝をついた。悲鳴すら出なかった。体から色が抜けるように、みんなどんどん干からびて、朝には乾いた抜け殻が通りに転がっていた。子どもも老人も、区別はなかった。
あれは人の憎しみを喰う。恐怖も絶望も吸いあげて動く。だから軍は民を痛めつける。痛めつけるほど燃料が増える。殴られた人間の嘆きが、そのまま兵器の力になる。こんな仕組みを考えたやつは、人の心を持っていないのだろう。そう思うことにしている。でないと、やりきれない。
「ナユタ兄ちゃん、水くれよ」
足もとで小さな声がした。痩せた男の子が二人、空き缶を抱えて立っている。弟のほうはまだ五つかそこらで、鼻のあたまが寒さで赤い。ナユタはためた水を半分わけてやった。自分の取り分が減るのはわかっている。それでもこの子たちの顔を見ると、手が勝手に動く。人を信じられるかどうかも、おれはいつもこの一点で量る。最後の一口を人にわけられる側か。そうでないか。それだけだ。
「こぼすなよ。それ、今日ぶんの命じゃん」
「うん。兄ちゃんはいいの」
「おれ、図体でかいし。少しくらい飲まなくても、ガチで平気だって」
嘘だった。腹の底ではいつも胃がきゅうと鳴いている。それでも子どもらが笑って路地の奥へ駆けていくと、まあいいか、という気になる。その背中を見送って、ナユタは小さく息をついた。
水をわけ、白いのの影におびえ、どうにか夜まで生きのびる。この街の朝はいつもそれだけだ。
ときどき思う。この灰色は、ほんとうは明けない夜なんじゃないか、と。朝が来てもずっと覚めない、長い悪い夢。みんなその底で、目を覚ますことも忘れてうずくまっている。……いつか、この夜から覚めたい。その願いだけは、どれだけ喉が渇いても胸の底で涸れずにいた。
もっとも、この街を統べる軍にしてみれば、ナユタのような人間こそが「悪」だった。管理タグも持たず、配給の計算に合わず、それでも水を分け、こっそり明日を願う。嘆きの帳簿をほんの少し狂わせる、小さな違反者。正しさは、いつだって上にいる者の持ちものだ。
だったら、と埃っぽい空を見あげる。……せめて最後まで、連中にとって都合の悪いほうの人間でいてやる。こんな世界で生きる、たったひとつの意地だった。
ねぐらに戻ると、壁にかけた古い写真立てが目に入った。色あせた一枚に、笑う男女。父と母だ。顔はもう、記憶の中でも少しずつぼやけてきていた。思いだそうとするほど輪郭が溶ける。それが怖くて、ナユタは毎朝こうして写真を確かめる。
二人は科学者だったという。北極の氷の底で、何かとんでもないものを見つけたらしい。ナユタが五つのとき、「迎えが来るから、それまで強く生きなさい」とだけ言い残して、ある晩ふっと消えた。それきり帰ってこない。軍に連れていかれて、もう生きてはいないと、近所の爺さんがぼそりと教えてくれた。
形見はふたつ。この写真と、母がいつも抱えていた古いハンドヘルドのパソコン。アーク・ドライブ、と母が呼んでいた角ばった旧式の機械だ。
電源はとうに入らない。何度試しても、画面はうんともすんとも言わない。側面から伸びた細いケーブルの先に、注射針みたいな金属の端子がついている。不気味で、だけど捨てられなかった。これだけが母の手のぬくもりを覚えている気がして。
「……行ってくるよ、母さん」
写真にそう言って、機械を布にくるみ、背中へ負う。肌身離さず持ち歩くのが癖になっていた。盗まれたら、もう取りかえせない。
きょうは配給の列に並ばなきゃならない。わずかな合成食のために、朝から晩まで立ちつくす一日。それでも並ばなければ明日の分が消える。ここでは並ぶことすら、生きる力のいる仕事だった。
広場に着くと、もう長い列ができていた。みんな目を伏せている。声を上げれば兵に目をつけられ、目をつけられれば白いのの的にされる。沈黙だけがここでの身の守りかただった。咳ひとつにも、みんなびくりと肩をすくめる。
列の中ほどで、痩せた男がこそっと前へ割りこもうとした。横はいりだ。近くの若い男が小声で「おい、横はいりすんなって」とたしなめる。それでも声を荒げる者はいない。もめごとは兵に目をつけられる。みんな、ぐっとこらえていた。
「よう、小僧。きょうも生きてるか」
列のうしろから、しわがれた声がかかった。隻腕の老人、ガンツだ。昔は軍にいたという噂だけが、この街で彼の素性を物語っている。多くは語らない男だった。
「ガンツの爺さんこそ、しぶとすぎじゃん」
「死にぞこないってのはな、簡単にゃくたばらねえのさ」
老人は欠けた歯を見せて笑った。だがその目は、広場の先をじっと見すえている。ナユタもつられて視線を向けた。
そのときだった。
空気がぴりっと張りつめた。
列の先頭で兵士たちがざわめき、一台の装甲車がすべりこんでくる。黒塗りの車体に、見たことのない紋章。高層区の人間だ。普段はこんな場所に降りてこない上の連中が、わざわざ足を運んできた。それだけで、ただごとではない。
扉が開く。降りてきたのは、仕立てのいい軍服の若い将校だった。年はナユタとそう変わらない。なのに、その目には温度がなかった。人を見る目じゃない。棚の品物を値踏みするような、冷たさ。
将校は広場をゆっくり見わたして、うっすら笑った。
「いい濃度だ。恐怖も、絶望も、ちょうど熟れてる」
背すじを氷みたいなものが走った。熟れてる。まるで収穫の話だ。ここにいる何百人もの人間を果実かなにかだと思っている。
「クオン様だ……」
ガンツが低くうめいた。その名を知っているらしい。
「狩りが趣味の、いかれた若造さ。民を狩って笑う。上はそれを黙認してる。あいつにとっちゃ、おれたちは生きた的でしかねえ」
クオンが気だるげに指を鳴らす。遠くの高層区で、白いのがぐるりとこちらを向いた。四十メートルの影が一歩を踏みだす。地面がどん、と遠く揺れた。
逃げ場はない。誰もがそれをわかっていた。わかっていて、動けない。動けば撃たれる。動かなければ吸われる。どちらにしても終わりだった。
それでもナユタの足は、無意識のうちに子どもたちの消えた路地へ向きかけていた。あの子らだけは、せめて逃がしてやりたい。胸の奥で、無茶な願いだけが脈を打つ。
「……兄ちゃん」
いつのまに戻ってきたのか、さっきの子どもらが服の裾をつかんでいた。小さな手が震えている。水をわけてやったことなど、もう何の助けにもならない。喉の奥がからからに乾いていく。
「動くなって。じっとしてろ」
二人を背中にかばい、ゆっくり腰を落とす。逃げたところで白いのの足は速い。見つかれば一巻の終わりだ。せめて人の壁の陰にまぎれるしかない。
クオンが装甲車の屋根によじ登り、芝居がかったしぐさで両腕をひろげた。
「さあ、始めようか。今日はどれだけ嘆いてくれるかな。たっぷり聞かせてくれよ。その悲鳴が、僕の糧になる」
誰かがこらえきれずに泣きだした。赤ん坊の声だ。母親が必死に口をふさぐ。だがもう遅い。その小さな恐怖を嗅ぎつけたように、白いのの頭部がぎちりと回り、広場へ完全に向き直った。
視界のすみで、ガンツが舌打ちをして、腰の後ろから錆びた拳銃を抜いた。たった一挺の、骨董品みたいな銃。それでこの化け物に立ち向かう気か。老人の背中は、もう逃げる気などないと言っていた。
「爺さん、やめろって! そんなもん効くわけ──」
ナユタの声をさえぎって、白いのが右腕を持ちあげた。
空気がぞっとするほど冷たくなる。三年前と同じだ。体から色が抜けていく感覚。指先から力が逃げ、膝ががくんと折れた。背中の子どもらが、声もなく崩れていく。
まずい。吸われる。
薄れていく意識のなかで、背負った機械の重みだけがやけにはっきりしていた。母の形見が、とくん、と脈打った気がした。
空が低く鳴った。
長い一日が、最悪のかたちで幕を開けようとしていた。
第一話、読んでくださって、ありがとうございます。
派手な力はまだ出てきません。けれど、この静かな一日が、あとで効いてくる……はずです。次回、ナユタの運命が、大きく動きます。どうか、見届けてやってください。




