03話:夫は外で食べてきたようです
ニナは、不思議そうに私を見上げた。
「新しいお母さま」がどういうことなのか、まだ分からないらしい。
少しだけほっとして、その髪を撫でた。
セシリアが立ち上がり、夫へ向き直った。
「オルランド様。わたくし、今日は帰ります」
「帰る?」
夫が私を一瞥した。
「君が遠慮することはないんだ」
「奥様も、今日の今日でお分かりにならないでしょうから。お疲れのところ、私のことで言い争っていただきたくありませんの」
夫は何か言いかけて、口を閉じた。
「……君に気を遣わせてしまったな」
「では、馬車まで送ってくださいます?」
「ああ。もちろんだ」
夫は彼女の背に手を添え、扉へ向かう。セシリアが振り返って、ニナへ小さく手を振っていた。
「ケーキはどうしますか?」
「いらない。食事は済ませてきた。それと、明後日は王子殿下の誕生祝いだ。祝辞を明朝までに用意しておいてくれ」
振り返りもせずにそう言うと扉が閉まった。
二人分の足音が、廊下を遠ざかっていく。
ニナは閉まった扉を見ていた。
私は自分の椅子を、その隣へ寄せた。腰を下ろすと、つま先がやっと床につく。夫の背丈に合わせて誂えた椅子だ。
「おめでとうって、言ってほしかったですね。お父さまにも」
ニナが、小さく頷いた。
「ニナ、ありがとうって、れんしゅうしたの」
「ええ。聞いていました」
「いえなかった」
膝の上で、小さな指が服の裾をつまんでいる。
「ニナ。お誕生日おめでとう」
朝にも言った。けれど、もう一度言いたかった。
「……ありがとう、かあさま」
その声は小さかった。
私はその手をそっと撫でてから離し、ニナの皿を、匙の届きやすいところへ寄せた。
「食べましょうか」
「……とうさまの、のこっちゃう」
「明日の朝、食べてもらいましょう。一晩置いたほうがおいしいそうです」
「ほんと?」
「本で読みました。確かめたことはありません」
「ないの?」
「はい。ですから、明日、お父さまに聞いてみましょう」
ニナは少し考えるようにしてから、匙を両手で握り直した。
小さな口にケーキを運ぶと、青い目がぱちくりと丸くなる。そのまま何も言わずに、もうひと口、今度は少し急いで頬張った。
口の端に蜂蜜を光らせたまま、ニナは顔を上げた。
「かあさま、これ、てんさい」
「ありがとうございます。傾いていますが」
「かたむいてるから、てんさい」
「では、次もこの形に」
「うん」
小さな肩が、ぴょこんと上がった。
口の端の蜂蜜を拭ってやる。そのあとで、ニナは一度、扉を見た。
私も顔を向けたが、誰も来なかった。
* * *
食べ終えた娘を、ターラが寝室へ連れていった。
その背中を見送ったところへ、使用人が夫の旅の荷を運び込んできた。
荷の中身は、いつも私が先に改める。宿の勘定書や政務の書類を、夫は衣服と一緒に詰めてくるからだ。
着替えの衣服を畳み書類を分けていると、鞄の底から紙が出てきた。
宿の勘定書――
南の湖畔の宿
七泊
二名様。
私は、宿の名をもう一度読んだ。
夫が視察に向かった国境は東にある。南ではない。そもそもこの湖は王都のほど近くだ。
部屋代に馬の飼い葉の費用、葡萄酒……
そして、婦人用の香油が三瓶。
銘柄には覚えがあった。さっき食堂に漂っていた、あの甘い香り。
最後の日付は、今日。
夕食代、二名様。祝い菓子付き。
——食事は済ませてきた。
紙の端に、宿の主人の添え書きがあった。
『また奥様とご一緒にお越しくださいませ』
私は、この宿へ行ったことがない。
しばらく、その一行を見たのち、白紙を一枚取った。宿の名も日付も金額も、添え書きまで、一行ずつ書き写す。原本は私の書類箱に収め、鍵をかけた。
廊下の先、夫の書斎にはまだ灯りがついていた。
扉を二度叩き、開ける。
「祝辞はできたか?」
夫が書類から顔を上げた。私は机の上に、勘定書の写しを置いた。
「その前に、旅の報告をしてください」
「報告? お前に?」
宿の名を読んだ夫の目が、止まった。
「東の国境へは、何日に行ったんですか」




