02話:どうやら彼は忘れていたようです
——は?
今、この人は何と言った。
今日から。この女性と。一緒に住む。
単語は全部知っている。つなげた意味が入ってこない。十年、夫の文書を直してきた私にも、この一文の直し方は分からなかった。
とりあえず、夫が連れてきた女性を観察した。
明るい金髪は丁寧に結い上げられ、首筋に一房だけ残してある。胸元の開いたドレスは、豊かな胸と細い腰によく似合っていた。首元には、大粒の赤い宝石。
甘い香水の匂いが、ケーキの置かれた卓まで届いてくる。
華やかで、きれいな人だ。
夫とはずいぶん親しいらしい。ただの知り合いなら、妻の前で手をつないだままでいる理由がない。女性のほうにも、手を離そうとする様子はなかった。
私は立ち上がり、卓を回ってニナの隣へ移った。
小さな手が私のスカートをつかむ。私はその肩に手を置いてから、夫を見た。
「そちらの方は?」
「セシリアだ。大商会の娘さんで、慈善会を手伝ってくれている」
慈善会を手伝うと、我が家に住むことになる。途中の説明がずいぶんと抜けているように聞こえた。
夫がようやく手を離し、セシリアが膝を折った。
「はじめまして、奥様。セシリアと申します」
きれいな礼だった。
ただ、顔を上げる途中で、彼女の目は私の服を襟元から裾までたどった。値段をつけた目だ。
たぶん、安かった。
「まあ、可愛らしい」
セシリアがニナの前に屈んだ。ドレスの裾が床に広がる。
「お名前は? おいくつ?」
ニナは答えず、私を見上げた。
私は肩をそっと撫でた。小さな体から、少しだけ力が抜ける。
今朝、ニナは乳母のターラを相手に「ありがとう、とうさま」を練習していた。
おめでとうと言われたら、そう返すつもりだった。
その言葉は、まだ出番を待っている。
「オルランド」
夫がこちらを見た。
「今日が何の日か、覚えていますか」
「何の日って——」
初めて、夫の目が卓へ下りた。
三つに切ったケーキ。誰も手をつけていない。いちばん形のよい一切れは、父親の皿に載っている。
「……あ」
その一音で分かってしまった。
「ニナの誕生日です。四歳になりました」
「そうか。今日だった。……向こうでいろいろ立て込んでいて」
セシリアが、笑みを残したまま立ち上がった。
「今日のお祝いには間に合わせると、出発前に約束しました」
「だから、帰ってきたじゃないか」
出発前には、娘に何を買って帰ろうかと、この人も笑っていたのだ。
私はそれ以上言わずに待った。
忘れていたとしても、今から言えばいい。
ニナが夫を見る。それから、私の袖をそっと引いた。
「……おめでとう、ないの?」
小さな声――
夫にではなく私に訊いた。
私が何を言っても、父親の一言の代わりにはならない。ニナの手を包み、夫へ顔を向けた。
「オルランド。ニナに、おめでとうと言ってあげてください」
夫は娘をちらりと見た。
けれど、すぐにセシリアへ目を戻した。
「分かってる。あとでな。先に、セシリアのことを話しておきたい」
あとで。
ニナは朝から、この人を待っていたのだが。
「セシリアも今日から家族の一員だ。お前たちにも、仲良くしてもらいたい」
ニナは、まだ夫を見ていた。
「その話は、あとで伺います。今は、娘のお祝いをしてください」
「帰って早々、お前はそればかりか」
「ニナは、そのために待っていました」
「お前な——」
夫が声を荒らげかけたとき、セシリアがそっとその腕に手を添えた。
「オルランドさま。わたくしのことで、奥様と揉めないでくださいませ」
夫の肩から力が抜けた。
「君が気にすることじゃない」
声まで柔らかくなっている。
ニナが私の手を強く握ってきた。握り返し、肩をそっと撫でる。
セシリアが、もう一度ニナの前に屈んだ。
今度は、夫に背を向けて。
「お誕生日おめでとう、ニナちゃん」
明るい声でそう言ってから、娘の耳元へ顔を寄せた。
その目が一度だけ私を見た。
続く言葉は、囁くように小さかった。でも、すぐ隣にいる私にははっきり聞こえた。
「これからは、わたくしがあなたの新しいお母さまになるかもしれないわね」
背筋がゾッとした。




