01話:娘の誕生日、夫は知らない女性を連れてきました
蜂蜜のケーキを、三つに切った。
夫と、私と、今日で四歳になるニナの分だ。
少し、左へ傾いている。
普段、料理は厨房に任せている。今日は、自分で焼きたかった。
傾いた原因の分析は済んでいる。窯の火が、左の奥だけ強かったのだ。次は途中で型を四分の一回せばいい。
――次があれば、だが。自分の料理の腕について、私はあまり楽観していない。
向かいで、ニナが匙を両手で握っている。
椅子にはクッションが二つ。それでも、卓から出ているのは胸から上だけだ。丸い頬と、今日のために乳母のターラが結んだ緑のリボン。
匙は、この子の小さな手にはまだ重い。
先週は右手だけで持って落とした。今週は左手を添えている。誰にも教わっていないのに、ちゃんと工夫している。
「上手に持てていますね」
褒めるとニナは得意そうに匙を持ち上げた。
その先で、ケーキを指す。
「かあさまが、やいたの?」
「はい。少し傾きました」
「ニナ、かたむいてるの、すき」
そう言って、ニナもこてんと首を傾けた。ケーキと同じ左側へ。
「では、次も傾けます。角度は覚えました」
「また、つくってくれる?」
そちらを訊かれるとは、思わなかった。
「……はい。もちろん」
次ができた。
窯の扱いはあとで厨房に教わろう。
ニナはケーキに顔を近づけ、すん、と匂いを嗅いだ。
「かあさまも、してみて」
言われるままに身を屈めると、ケーキ越しに目が合った。
「ね。いいにおい」
「はい。これは、うまくいきました」
ニナが、肩をすくめて笑った。
柔らかい亜麻色の髪が揺れる。髪は私に似た。青い目は父親に似た。この笑い方はニナだけのものだ。
ニナは声が出るより先に、小さな肩がぴょこんと上がる。
それに気づいたのは二歳の冬で、それ以来、これを見ると、その日の計算が全部合った気がして幸せになる。
熱い型に触れた指先が、まだ少しひりついていた。でもニナのぴょこんが見られるなら、多少、傾いていても焼いてよかったと思える。
ニナは匙を握ったまま、目だけを扉へ向ける。
「……とうさま、ほんとに、かえってくる?」
「帰ります。誕生日には戻ると約束しました」
政務で行った東国から王都までは、馬で三日。
出発前に、視察の日程も帰りの行程も確かめた。誕生日には間に合う。本人にも、そう確認した。
だからケーキは三つに切ったのだ。
父親の皿に載っているのは、いちばん形のよい一切れだ。ニナが選んだ。
「とうさまには、おっきいの」
切り分ける間もそう言って、私の手元を見ていた。自分の分を大きくしてほしいとは、一度も言わなかった。
「もうすぐですよ」
ニナはこくりと頷いた。
「じゃあ、まってる」
そう言ったあとで、ニナはジッとケーキを見ている。
匙の先がケーキにほんの少し近づいて、止まる。ニナは扉を見て、またケーキを見た。
なかなか、厳しい戦いらしい。
「先にひと口食べても、お祝いは減りません」
「へらない?」
「減りません。私が保証します」
「かあさまも、おなか、すいた?」
「はい。少しだけ」
「ニナも、すこしだけ」
そう言うわりに、視線はケーキから動かない。
それでもニナは少し考えて、それから、きゅっと匙を握り直した。
「とうさまが、おめでとうっていったら、たべる」
順番まで、決めてあるらしい。
食べたいのに待つ。四歳のこの子には、その一言のほうが大事なのだ。
「分かりました。では、おめでとうを聞いてから」
ニナはこくりと頷き、小さな声で一度だけ、練習した。
「……ありがとう。とうさま」
言われたら、そう返すつもりらしい。
匙は両手で握ったままだ。
あの人の第一声を、私も予測しておく。
外套を脱ぐ。ケーキを見る。たぶん、「傾いているな」。それから、ニナの頭に手を置いて——。
三人でこのケーキを食べる。ニナが笑う。多少開始が遅くなっても、悪くない誕生日になる気がする。
廊下で足音がした。
ニナの背筋が、ぴんと伸びた。
緑のリボンが揺れる。
足音は二人分だった。
片方は知っている。踵を強く鳴らす夫の歩き方。もう片方は知らない。軽くて、細い踵の音。
客だろうか。けれど、夫は客を食堂へ通したことがない。
扉が開いた。
夫が立っていた。旅の外套のまま。栗色の髪は、一週間の旅のあととは思えないほど、きれいに整っている。
その手が知らない女性の手を引いていた。
ニナが小さく息を吸った。練習した言葉のために。
夫は、卓を見なかった。
ケーキも、ニナも。
私だけを見て、言った。
「今日から、この人と一緒に住むことになった」
ニナが匙を置いた。




