謎の密売人と幻
レオンは魔女の呪いがかけられてから夜眠ることはなかった。しかし、イドニラに手を出してから謎の声も聞こえなくなり少し眠れるようになっていた。
その後、レオンは座ったまま二時間ほど眠りについた。レオンにとって二時間の睡眠は多い方だった。そして、二時間経って目が覚めた。先程まで照らし出していた月の光は無くなっており辺りは真っ暗になっていた。レオンは驚いた。
大量の蜘蛛が自分の腕を登ってきていたのだ。大きさは自分の拳ほどある大きな蜘蛛だった。
「はっ! はっ! はっ!」
必死に振り払うが腕に登ってきている蜘蛛をレオンの腕は通り抜けていく、蜘蛛は何も遮るものがなく、さらにレオンの腕を登って首の辺りまで登り始めていた。レオンは首の辺りを手で払って蜘蛛を叩くような動作もするが、蜘蛛は前進を止めることはなかった。
レオンに見えている蜘蛛の数は二十匹ほどだった。片腕だけではなくもう片方の腕からも大量の蜘蛛がレオンの体を登り始めていた。
当然、この蜘蛛が見えているのはレオンだけだった。レオンが座っている場所の状況は眠りにつく二時間前と月の光が差す位置以外何も変わっておらず、ただ荒廃した学校が存在しているだけだった。レオン以外の他者から見れば大量の蜘蛛など存在していない。それどころか虫一匹いない。
しかし、レオンは蜘蛛がまとわりつく腕で頭を抱えて助けを呼ぶため叫ぼうとした。しかし、声が出ない。「はぁ! はぁ! はぁ!」と掠れた小さい息が発せられるだけだった。
今度はレオンはガタガタと体を震わせ始めた。震える手を抑えようともう片方の震える手でなんとか握って止めようとしたが、震えが止まらない。震えは全身に来ており上の歯と下の歯がカチカチと音を立てて震えていた。もう自分の体をコントロールできない。その時だった。
「…もし」
小さく囁くような声が聞こえた。それは消えそうな程弱々しい声だった。
塞ぎ込んでいたレオンは声のする方に視線を向けた。そこには廊下から外に通じるドアがあった。声はその向こうから聞こえていた。
レオンは立ち上がり恐る恐るドアを開ける。すると、一人の老人が立っていた。
老人は年齢は七十歳くらいで頭頂部は禿げ上がっており、鼻から下は布で顔を覆っており目から上しか顔の情報量は無かった。
「もしもし」
「あなたは…」
その老人はフォンツ王国でレオンにイドニラを渡した老人だった。
「な、なぜあなたがここに?」
老人はニコニコと笑いながら答える。
「あの時言ったはずじゃ、『あなたが私を必要としたとき、私はいつでもあなたの前に現れますから』と」
「で、でも、ここはルベリア王国ですよ! どうして僕の居場所がわかるんですか。ここは迂回ルートで魔女討伐隊しかここを通るって知らないはずなのに…」
老人はフォッフォッフォと笑った。
「まあまあ、細かいことは気にせずに。お主が欲しいのはこれじゃろ」
老人はレオンが持っていたものと同じケースを腰にぶら下げていた麻袋から取り出してレオンに見せた。
「そ、それは」
「イドニラじゃ」
老人はそのケースの蓋を開けてレオンに黒い球状の物体、イドニラが三つ入っていることを見せた。
「そ、それをください! い、いくらなら売ってくれますか?」
レオンは手を伸ばしてそのケースを老人から奪い取ろうとまでしたが、老人はそのケースをレオンの手の届かないところまでひょいと持ち上げた。
「代金はいらない。その代わり…」
老人はイドニラを持っていない方の手を挙げた。
「あなたのカルマを知りたい」
そう言って老人は急にレオンの額に手を当てるとレオンの額が光り始めた。すると、
バチンッ!
と、大きな音を立てて破裂した。レオンは傷を負わなかったが、その老人は煙が出る手を押さえていた。
「おお、実に深い闇じゃ。すばらしい」
老人は興奮していた。目を大きくしてレオンを見る。老人は両目とも目の焦点があっておらず黒目が両方とも外側を向いている。
「自分の顔をよく見てみなさい」
レオンは荒廃した学校のドアのガラスに反射する自分の顔を見た。大量の汗をかいており、何より唇が真っ青で、だらしなくよだれまで垂らしていた。
「欲に従うのは良いことじゃ」
それから老人は「快楽はええじゃろう快楽はええじゃろう」と老人は頷きながら笑みを浮かべた。
老人は「ほれ」と言ってレオンにケースを渡した。
レオンは老人から再び三個入りのイドニラの入ったケースを受け取り、即、蓋を開けて一粒口に運んだ。それはまるで餌に飢えてる野犬がゴミの中の生肉を漁るときのようだった。
「おじいさん、ありが…」
レオンはそう言いかけて後ろを振り返ったら老人はすでに姿を消していた。
夜はまだ続く。
レオンは荒廃した学校から野営地に戻ろうとしてレオンの身長ほどの草が生える茂みの中を歩いている時だった。レオンはこの静かな空間から誰かの足音を聞き取った。
「また来る!」
レオンは一目散に足音が聞こえると思われる方向と逆方向に走り始めた。
「ハァ! ハァ!」
息を荒げてまだ走るとバシャッ! と水を踏む音がした。レオンの靴にじわりと水が染み込んでくる。沼に入り込んでしまったのだ。
それでもレオンは歩を進める。
レオンの中で何かの足音がどんどん大きくなってくる。
沼に生えるレオンと同じくらいの背の高い草をかき分けながら必死に走った。夜、明かりもない場所をただただ追われている誰かから逃げようと走った。しかし、レオンはまだ誰かに追われている様子でしきりに後ろを気にしている。
沼も深くなり腰の辺りまで水が来ており、少し草がなくなって空間が開いていたところで、レオンは前方にある人物を見た。
「ルワンナ!」
赤いドレスを着たルワンナが沼の中に立っていたのである。
「ルワンナ! どうしてここに? 急いで僕と逃げよう」
レオンはルワンナにめがけて走って、ルワンナの手を引こうとした時だった。
ルワンナは泥人形のようにどろっと解けて沼に溶けていってしまった。
「はっ? え?」
慌てるレオン。しかし、後ろから何者かが追ってくる。
レオンは必死にルワンナが溶けた後、水の中をかき分けてルワンナを探そうとしたが見つかるのは沼に生える草のみだった。
ルワンナを見つけることを諦めたレオンは再び後ろから追ってくる人物から逃げようと歩を進めた。その時だった、レオンの体が消えた。沼の中に体が沈んでいったのである。
沈んでゆく、沈んでゆく深く体が沈んでゆく。
この時、レオンはあることを思い出していた。
レオンの母についてだった。
レオンの母はレオンが生まれてすぐに亡くなってしまった。
執事であるカスパリーニョからは母の生前とても命を大切にする人だと聞いていた。庭で傷ついた小鳥を見つければ、朝から晩まで看病し、育てている花が一本枯れるだけでも悲しそうな顔をするお方でした、と。そして、母がよく言っていた言葉があったそうだ。
「命に大きも小さいもありません。生きたいと願う心は皆同じです」と。
その言葉を聞くたびにレオンは思っていた。
母はどんな人だったのだろうか? もし生きていたら、母に抱きしめてもらえただろうか?
答えは闇の中。永遠に分かることがない。
しかし、レオンは母をどこかルワンナに重ねているところがあったのかもしれない。
命に対する考え方や行動がカスパリーニョから聞く、母の姿そのものだったからだ。
レオンを追っていた何者かはもう追ってこない。このまま深く深く沈んでしまおう。レオンはゆっくりと瞼を閉じて少しずつ少しずつ視界が暗闇に支配されつつある時だった。
「レオン王子!」
誰かが自分を呼ぶ声が聞こえる。
「レオン王子! レオン王子!」
一気に腕を引かれレオンは水中から顔を出した。光が見えた。松明の光だった。
そして、地面に足がついた。
レオンはさっきまで体ごと沈んでいたはずだった沼は自分の腰くらいの高さしかなかったのだ。
そして、自分を引っ張り出した人物の顔が手に持った松明で照らされていた。
「ルワンナ…どうしてここが」
「レオン王子がいないってみんなで探し回っていたのよ。そしたら、沼で浮いてるのを発見したの」
「…そっか」
レオンはそう呟いて何か思い出したように後ろを振り返った。
「どうしたの? また、誰か追ってきてたの?」
ルワンナはレオンの顔を覗き込むようにしてそう言った。
「うん」
「それはレオン王子と同じ姿をしているの?」
レオンは頷く。
「ごめん、こんな頼りない王子で」
「何言ってるの、こうやって無事でいるんだから何も問題なしよ」
ルワンナはニッと笑った。こんな暗闇でも松明の光でルワンナの笑顔が一際輝いて見える。
「ルワンナには助けられてばかりな気がする」
「そうかしら? 私、レオン王子に何かしたかしら」と顎に指を乗せて首を傾げるルワンナ。
「いや、いいんだ」
そして、ルワンナは真剣な顔つきに変わった。
「今、大変なことになってるのよ! レオン王子!」
「え?」
「野営地に魔女の手下が攻めてきたの!」
「そんなこっちは迂回ルートで魔女たちにはバレてないはずなのに…」
「そうなの、急いで戻りましょ!」
「わかった」




