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第四十四章「英雄の胃腸」
1
三個体のドリフターを単機で殲滅した翌日。ツクヨミ艦内は、久しぶりの勝利に沸き立っていた。コウタは一夜明けてもなお英雄扱いで、食堂に行けば整備兵たちから拍手が起こり、通路を歩けばすれ違うクルー全員に「星野さん、すげえっす!」と声をかけられる始末だった。
しかし、孤高の戦士は孤高であるがゆえに、こうした喧騒に少し疲れてもいた。彼は逃げ込むように第三格納庫へ向かい、スサノオの足元でいつものように一人、静かに紅茶をすすっていた。戦いの後、アイリが「特別に」と置いていった特製ブレンドである。
「ふっ……平和とは、かくも騒がしいものですか。しかし、やはり少尉の紅茶は格別ですな」
彼が二杯目を淹れようとした時、背後からユズハの声が飛んできた。
「コウタくん! 何してるの! こんなところで!」
振り返ると、ユズハが両手に何やら大きな鍋を抱えて立っている。湯気と共に、香ばしいような、しかしどこか危険な香りが格納庫に漂い始めた。
「おや、艦長。その鍋は?」
「お祝いの特製シチュー! 第四艦隊の生き残りの人たちにも配ったらすごく喜ばれてね、コウタくんにも持ってきたんだよ!」
「ふっ……それはありがたい」
コウタは優雅に一礼し、差し出されたシチューを一口すする。濃厚な味わいの中に、かすかに酸味と、未知の食感が混ざっていた。
「……艦長、この具材は」
「冷蔵庫にあったものをね、ぜーんぶ入れたんだよ!」
「……ふっ。なるほど」
彼は深く考えないことにした。ユズハの「なんとなく」はよく当たるが、料理においてはまた別の話である。しかし、彼女の笑顔を曇らせるわけにはいかない。コウタは気取った微笑を浮かべ、完食した。完食したのである。
2
その日の午後。コウタはスサノオの点検を終え、自室で一息ついていた。手には今日四杯目となるアイリ特製紅茶。戦いの疲れを癒やすためのブレンドだということで、遠慮なくおかわりを重ねていたのだが——。
「……ふっ?」
突然、腹部に鈍い痛みが走った。彼は優雅に眉をひそめ、紅茶のカップを置く。
「……これは」
昨夜の徹夜。三個体のドリフターとの死闘による極度の緊張と疲労。その後の解放感。今朝からの大盛り上がりによるストレス。ユズハの「冷蔵庫の残り物全部入り特製シチュー」。そして、胃腸に優しいとは言い難い量のアイリ特製濃いめ紅茶。
——それらすべてが、今、彼の腹の中で静かに反乱を起こしていた。
「ふっ……想定内……では、ない、な……」
彼は気取った微笑を浮かべようとしたが、その口元は引きつり、額には冷や汗が滲んでいた。立ち上がろうとした瞬間、腹部に二度目の、より強烈な痛みが走る。
「……少々、厠へ」
彼は壁に手をつきながら這うように部屋を出たが、通路に出たところで膝をついた。ちょうど通りかかった整備兵たちが「星野さん!?」と慌てて駆け寄ってくる。
「ふっ……ご心配なく。私ですから」
「顔真っ青っすよ!? しかも脂汗すごいっすよ!?」
「ふっ……これしきのこと……ぐっ」
三度目の波が彼を襲い、コウタはその場にうずくまった。整備兵たちの慌てふためく声を遠くに聞きながら、彼は思った。
(……ぐ、紅茶の飲みすぎ、だと……? まさか……まさかこの私が……)
3
医務室。コウタは白いベッドに横たわり、天井を見つめていた。
軍医の診断は「過労とストレスとカフェイン過多と、あと何か不衛生な食事による急性胃腸炎」だった。ユズハとアイリはベッドの両脇に立ち、神妙な顔で彼を見下ろしている。
「コウタくん……ごめんね。ユズハのシチュー、なんか変だった?」
「ふっ……いえ。艦長の愛情が、少しだけ強すぎただけです」
「愛情?」
「ええ。愛が胃腸に直撃しました」
ユズハは首を傾げたが、すぐに笑顔でうなずいた。
「そっか! ユズハの愛が強すぎたんだね! じゃあ次はもうちょっと薄めてあげる!」
アイリは腕を組み、複雑な表情でコウタを見下ろしている。
「……紅茶は」
「ふっ……紅茶も、多分です」
「何杯飲んだんですの」
「……六杯」
アイリは深いため息をつき、それから静かに頭を下げた。
「……申し訳ありません。戦いの後であなたが疲れているのを知っていて、あんなに濃いものを何杯も勧めて。私のせいですわ」
「ふっ……違います。私は嬉しかったのです。少尉が私のために紅茶を淹れてくれたことが」
「コウタ……」
「しかし——」
コウタは天井を見つめ、気取った微笑を浮かべた。
「六杯は、さすがに多かったようです」
三人は顔を見合わせ、小さく笑った。
4
その夜。医務室の照明が落とされ、静かな時間が流れる中、コウタは一人、ベッドの上で天井を見つめていた。
ポケットから零式の破片を取り出す。青白い光は、今日はなぜか少しだけ弱々しい。まるで、腹を壊した主を労わるかのようだった。
「ふっ……お前も、私が情けないと思うか」
「……」
「しかしな、零式。私は今日、初めて知った。人に心配されることが、こんなにも温かいものだとは」
彼は破片を握りしめ、静かに目を閉じる。
「戦いに勝って英雄扱いされるより、誰かに『大丈夫か』と声をかけられることの方が、私には応える。私は——孤高の戦士などではなく、ただの人なのかもしれない」
破片は答えない。でも、その光はほんの少しだけ、優しくなった気がした。
翌朝。コウタが目を覚ますと、ベッドの脇にユズハからの新しい手紙と、アイリが淹れた薄めの紅茶が置かれていた。手紙を開くと、たった一言だけ書かれている。
『コウタくん、お腹が治ったら、一緒に軽いご飯を食べようね。重くないやつ』
「ふっ……」
コウタは紅茶を一口含み、それからそっと手紙を胸に抱いた。
「この胃腸が治った暁には、必ず。私ですから」
零式の破片をそっと撫でながら、彼は再び静かに目を閉じたのだった。
第四十四章 了
『彗星の指揮官は今日も無茶を言う』 続く




