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第四十五章「英雄の不在」
1
コウタが急性胃腸炎で医務室に運ばれた、その翌日のことだった。
ツクヨミ艦橋に警報が鳴り響いたのは、朝の交代勤務が始まったばかりの静かな時間だった。オペレーターが血相を変えて叫ぶ。
「ドリフターです! 数は五個体! 方位〇七五、急速接近中!」
「なに……!?」
鬼丸副長がモニターを睨む。そこには、見慣れた虹色の触手を持つドリフターの群れが映し出されていた。三個体ではなかった。先日の「本来の強さ」を持つ個体でもなかった。しかし——数が多い。五個体。これまで通りの「通常のドリフター」であっても、三個体で第四艦隊が全滅した直後である。戦力は疲弊し、何よりコウタがいない。
「星野は……まだ動けんのか」
「はい。医務室で点滴中です。あと数時間は絶対安静と軍医が」
鬼丸は一瞬だけ目を閉じ、それから静かに命令を下した。
「……全艦、戦闘配置。時間を稼ぐ。星野が復帰するまで、持ち堪えるんだ」
2
戦闘は、開始直後から劣勢だった。
スサノオを欠いたツクヨミの戦力は、数だけならば揃っていた。しかし、通常のドリフター五个体を相手に、正規パイロットたちは必死に食い下がったものの、第四艦隊の壊滅を知る彼らは、最初からどこか怯えていた。
「数が多すぎる……!」
「三個体で第四艦隊が全滅したんだぞ……勝てるわけがねえ……!」
通信には悲鳴と混乱が溢れ、パイロットたちは統率を失って各個に撃破されていく。機体が次々と火球と化し、脱出ポッドすら射出できない者もいた。
「左翼、潰走! 戦線が持ちません!」
「ドリフター、本艦に接近中!」
艦橋のモニターには、刻々と悪化する戦況が映し出されていた。ユズハは唇を噛みしめ、艦長席で必死に耐えている。
「……撤退だ。全艦、後退せよ」
鬼丸が重い声で命令を下した時には、すでにツクヨミの戦力は半減していた。
3
撤退戦は地獄だった。
殿を務めた駆逐艦二隻は、わずか数分でドリフターの触手に絡め取られ、爆散した。逃げ遅れた機動兵器は為す術もなく撃破され、パイロットたちは脱出する間もなく宇宙の塵と化す。艦内には被弾の衝撃が断続的に響き、あちこちで火災が発生していた。
ユズハは艦長席で、涙をこらえながら撤退の指示を出し続けた。
「艦長!」
オペレーターの一人が叫んだ。
「第一格納庫に被弾! 機動兵器、半数以上が出撃不能です!」
「……私のせいだ」
ユズハは誰にも聞こえない声で呟いた。
「私がもっと早く判断していれば……私がもっと強ければ……!」
「艦長!」
アイリがユズハの肩を掴んだ。
「今は耐える時ですわ。あなたが折れたら、この艦は終わりです」
「……アイリちゃん」
「コウタがいないから負けた。それは事実です。でも、あなたのせいじゃない。今は逃げ切ることだけを考えなさい」
ユズハは涙を拭い、うなずいた。二人の手が固く握り合わされる。
4
医務室。艦内に響く爆発音と振動の中、コウタはベッドの上で天井を見つめていた。艦が被弾するたびに照明がちらつき、遠くでサイレンが鳴り響いている。
「……ふっ」
なんとか起き上がろうとしたが、そのたびに腹が痛む。情けなかった。三個体のドリフターを単機で倒した英雄が、今はたかが腹の具合で戦えない。ツクヨミが負けている。みんなが戦っている。艦長が、少尉が、必死に耐えている。なのに、自分はここで寝ているだけだ。
「うそだろ……」
彼は点滴の管を引き抜き、ベッドから足を下ろした。だが、立ち上がった瞬間に激痛が走る。
「うっ……腹が……!」
彼はその場に膝をついた。冷たい床に手をつき、奥歯を噛みしめる。
「ふっ……情けない……私が……私が戦えないばかりに……!」
零式の破片を握りしめる。青白い光は、今日はひどくかすんで見えた。
5
第三格納庫。スサノオは静かに佇んでいた。右腕の斬魂刀が、ほんのわずかに輝いている。艦の揺れにも、遠くの爆発音にも動じず、ただじっと主を待っているようだった。
(……コウタくん)
艦橋で、ユズハが静かに目を閉じた。彼女の「なんとなく」が告げている。コウタは今、誰よりも悔しい思いで床に膝をついているだろう、と。
(大丈夫。ユズハたちは大丈夫だから。だからコウタくんは、ちゃんと治してから来てね)
それは祈りだった。届くはずのない、それでも彼女が捧げずにはいられない想いだった。
6
数刻後。ツクヨミはかろうじて戦域を離脱し、後方の殖民星近くまで撤退した。艦の損傷は激しく、人的被害も甚大。誰もが言葉を失い、ただ茫然と生き延びた事実だけを噛みしめていた。
艦橋で、鬼丸副長が静かに呟いた。
「……星野はまだ動けんのか」
「はい。軍医の報告では、急性胃腸炎の症状が思ったより重く、あと数時間は絶対安静とのことです」
「そうか」
鬼丸はそれ以上何も言わなかった。
ユズハは艦長席で、アイリは解析コンソールの前で、それぞれが無言で次の戦いに備えていた。医務室では、コウタが壁にもたれながら、零式の破片をじっと見つめている。その光はまだ弱々しいが、確かに彼の手の中で輝き続けていた。
第四十五章 了
『彗星の指揮官は今日も無茶を言う』 続く




