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第四十二章「弱き戦士の夜」


---


1


艦橋での会話を終え、第三格納庫でスサノオの装甲を磨きながら「遅いですな」と嘯いた数時間後。自室に戻ったコウタは、誰もいないことを確認してから、ゆっくりと壁にもたれかかった。


「……なんだ、なんだ、なんだ」


気取った微笑は消えていた。額には冷や汗が滲み、手は微かに震えている。第四艦隊が全滅した映像を、彼はしっかりと見ていた。見てしまった。あの速度、あの破壊力、そして何より——あの絶望的なまでの実力差を。


「俺、あれと戦うのか……俺が……あの雑魚の俺が……!」


格納庫では強がった。二人の前で弱音は吐けない。孤高の戦士として、女神たちを不安にさせるわけにはいかない。でも今は一人だ。誰も見ていない。だからこそ、彼は素直な自分を吐き出せた。


「無理だ無理だ無理だ無理だ! ふっ……ふっじゃない! ふっ、じゃないんだよ!」


彼はベッドに突っ伏し、枕に顔を埋めた。


——が。


次の瞬間、彼はハッと顔を上げ、誰もいない部屋を見回した。慌てて目元を拭い、気取った微笑みを貼り付けようとする。口元が引きつっているのは、自分でもわかっていた。


「……ふっ。今のは違う。私は星野コウタ。孤高の戦士だ。怯えるはずがない」


しかし膝は笑っている。手は汗で濡れ、指先が小刻みに震えている。身体がまるで自分のものではないかのように、勝手に恐怖を訴え続けている。


「……くそ。身体だけが正直だ」


彼は自分の手を見つめ、憎々しげに呟いた。壁にもたれかかったまま、ずるずると床にしゃがみ込む。


(誰も見ていない。誰も見ていないから、これくらいは許してほしい)


ポケットの中で、零式の破片が静かに輝いている。彼はそれを取り出し、手のひらに載せた。青白い光を見つめていると、少しだけ呼吸が落ち着いてくる気がした。


「……零式。お前はいつもそうだ。私がみっともない時ほど、温かくなる」


彼は破片を握りしめ、深く息を吐いた。


「ふっ……情けない。こんな自分、誰にも見せられない」


---


2


その時、机の引き出しが目に入った。無造作に開けられたままの引き出しの中に、ユズハから受け取った手紙の束——「読め」と迫られて読み終わった後、そのまま突っ込んだ二百通以上の封筒が詰まっている。


「……艦長」


彼は震える手で手紙の束を取り出し、一番上にあった一枚を開いた。


『コウタくんへ。ユズハね、今日も手紙書いてるよ。コウタくんが読んでくれるから。コウタくんが読んでくれる限り、ユズハはずっと書き続けるからね』


(……こんな私を、そこまで)


次の一枚。次の一枚。


『ユズハは信じてる。コウタくんは絶対に帰ってくる。ユズハのピンチには絶対に来てくれる人だから』


気がつけば彼は床に座り込み、手紙を読み耽っていた。ユズハのまっすぐな文字、時折はみ出した落書き、涙で滲んだ跡——そのすべてが、彼の心の鎧を静かに溶かしていく。


彼の目から、一筋の涙がこぼれた。


「……これは、違う」


彼は慌てて目元を拭った。


「違う。涙じゃない。目にゴミが入っただけだ。ふっ……私は孤高の戦士。涙など流すわけがない」


でも、拭っても拭っても溢れてくる。ユズハの文字を目で追うたびに、胸の奥が熱くなり、視界が滲む。彼は手紙を胸に抱き、零式の破片を握りしめ、声を押し殺して震え続けた。


「……くそ。なんでだ。私は、こんなにも誰かに必要とされているのに。なんで、こんなに怖いんだ」


(こんな姿、艦長にも少尉にも見せられない。私は孤高の戦士だ。怖くない。怖くないんだ)


彼は自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返した。でも身体は正直だった。涙は止まらず、肩は震え、手紙を持つ手がかすかに揺れている。


「……でも」


彼は手紙を見つめながら呟いた。


「艦長が、こんな私を信じてくれている。少尉が、紅茶を淹れて待っていてくれる。だから、私は——」


---


3


どれだけの時間が経ったのか。ユズハの手紙をすべて読み終えたコウタは、静かに立ち上がろうとして——その瞬間、壁に掛けてあったモニターがふと目に入った。


艦内共有の戦術端末。そこには第四艦隊が最後に記録したドリフターの戦闘データが、未処理のまま放置されていた。触手の速度、装甲強度、そして三体による連携パターン。


彼は手を伸ばし、データをスクロールさせた。さっきまであれほど怖がっていた映像を、今度は食い入るように見つめている。


「……この動き。どこかで」


見たことがある。そう思った。でも記憶にはない。なのに、体が覚えている。背筋がぞくりと震え、同時に指先が勝手に動きたがっている。


(怖い。怖いのに。なんで俺の手は、動きたがってるんだ)


その時、ポケットの中の零式の破片が、一際強く輝いた。


「……!」


コウタの視界が一瞬、白く染まる。頭の中に直接響く言葉。


『……それが、本来のドリフターだ』


「零式……!」


彼は破片を握りしめた。手はまだ震えている。でもその震えはもはや恐怖だけのものではなかった。


『思い出せ。お前が戦ってきたのは、こういう敵だ』


「そうか……俺が戦ってたドリフターは、本来もっと強かったのか。スサノオも、たぶんこれより強かったんだな。お前の動きが強すぎるのも、そういうことか。俺だけが、何らかの理由で弱くなってるのか」


彼は声に出して整理しながら、部屋の中を歩き回った。膝はまだ笑っている。でも頭は妙に冴えていた。


そして、彼は立ち止まった。


「……抜け殻」


零式の言葉が蘇る。そうだ。零式は言っていた。自分は抜け殻だと。


「そういうことかよ。俺は抜け殻だから、本来の強さを——そっくりそのまま、どこかに置いてきちまったのか……!」


彼は壁を拳で叩いた。鈍い音。拳がじんと痛む。


「……この痛みが、今の俺の実力か」


彼は赤くなった拳を見つめ、そして笑った。涙の跡が残る顔で、膝を震わせながら、それでも彼は笑った。


「ふっ……ふふ。ふはははは!」


「いいさ! むしろいい! 今の俺が抜け殻だってことは、まだ中身が戻る余地があるってことだ! 怖くて震えて、それでも戦おうとしてる俺は、まだ終わってない! 何せ私は星野コウタ! 孤高の戦士! 抜け殻だって結構! 誰よりも弱いこの俺が、誰よりも強くなってみせる!」


零式の破片の輝きが、少しだけ強くなった気がした。


(……でも、やっぱり怖い)


彼は心の中で付け加えた。怖い。怖くて仕方ない。膝はまだ震えている。手の汗は止まらない。それを隠すように、彼はもう一度だけ「ふっ……」と笑った。


---


4


翌日。ツクヨミ艦内の空気は、前日とは打って変わって張り詰めていた。


ドリフター三個体がツクヨミに向かって進行中——その一報が艦内を駆け巡ると、クルーたちの間にたちまち動揺が広がった。通路では負傷した第四艦隊の生き残りが呆然と座り込み、ある者は震え、ある者は虚空を見つめて何かを呟いている。


「……第四艦隊が全滅したんだ。俺たちも同じ目に遭う」


「死にたくない……俺はまだ死にたくない……!」


誰もが強がりをかなぐり捨て、本音をさらけ出していた。艦の士気は地に落ち、恐慌状態に陥りつつある。


そんな中、ユズハは艦長として全艦放送を入れた。


「みんな、聞いてください。ユズハは艦長の美浜ユズハです」


艦内のざわめきが少しだけ静まる。ユズハの声は震えていなかった。


「第四艦隊のみなさんは、よく戦ってくれました。これからはツクヨミが守ります。だから、少し休んでください。食堂には温かいスープを用意しました。シチューもあります。ハンバーグもあります。ご飯はたくさんあります。お腹が空いてると、怖さも増えちゃうからね」


放送を終えたユズハは、自ら第四艦隊の生き残りが集まる区画へ向かった。負傷した兵士たちに毛布を配り、一人ひとりに声をかける。


「大丈夫ですか? 寒くないですか? 何か必要なものはありますか?」


彼女は誰よりも怖がりで、誰よりも死にたくなかった。でも、艦長だから。みんなを守らなきゃいけないから。そう自分に言い聞かせて、彼女は笑顔を作り続ける。


「艦長……あんた、怖くないのか」


「怖いよ。すごく怖い。ユズハ、本当は泣きそうだもん。でも、泣いてる場合じゃないから。泣くのはみんなが助かってからにするの」


兵士たちは顔を見合わせ、やがて少しだけ笑みをこぼした。ユズハの無理して作った明るさが、少しだけ場の空気を和らげたのだった。


---


5


一方、艦橋の片隅では、アイリが戦術コンソールにかじりついていた。いつもの紅茶は脇に置かれたまま、とっくに冷めている。彼女は第四艦隊の戦闘記録を解析し、ツクヨミの戦力とスサノオのデータを入力して、ひたすらにシミュレーションを回し続けている。


彼女の目は充血し、指はキーボードを叩きすぎて震えていた。何度も何度も同じ計算を繰り返し、前提条件を変え、戦術を変更し、時にはスサノオのスペックを仮想的に引き上げてみたりもした。無理のある仮定だとはわかっていた。でも、何かに縋らずにはいられなかった。


しかし、どれだけ試行しても、結果は変わらなかった。


「……勝てませんわ」


彼女は震える声で呟いた。


「どの分岐を通っても、確率はゼロに収束します。スサノオがどれだけ奮戦しても、艦隊が援護しても……第四艦隊と同じ結末ですわ」


彼女は顔を上げ、鬼丸副長を見た。


「副長。わたくしからも進言します。全艦、緊急撤退を。戦うだけ無駄です。今すぐ退けば、あるいは——」


鬼丸は腕を組み、モニターを見つめていた。何かを決断しようとしている顔だった。しかし、撤退命令を出したとして、どこへ逃げるというのか。もはや安全な宙域など存在しないのかもしれなかった。


その時だった。


「ふっ……撤退など、歴史に刻めませんな」


艦橋の入り口に、一人の男が立っていた。作業着からパイロットスーツに着替えたコウタである。手には零式の破片が握られている。


彼の足取りはいつも通り気取っていて、背筋は伸び、口元には見慣れた微笑みが浮かんでいる。ただ、握りしめた拳は、昨夜壁を叩いた痣がほんのりと青く滲んでいた。


(……ふっ。やっぱり震えてるな、俺の手)


彼は心の中で苦笑した。でも顔には出さない。出すわけにはいかない。


「コウタくん……!」


「星野……お前」


「ふっ……歴史の一幕に、私の名を刻む時が来たようですな」


コウタは気取った微笑を浮かべ、優雅に一礼した。膝は震えている。心臓は早鐘のように鳴っている。でもそれを隠すように、彼はゆっくりと、大げさに、いつもより三割増しで「ふっ……」と笑った。


「行ってきます、艦長、少尉。私のロマンをお見せしましょう」


ユズハは唇を噛みしめ、それから笑顔でうなずいた。


「うん。行ってらっしゃい、コウタくん」


「……紅茶、淹れて待っていますわ。冷めないうちに帰ってきなさい、この雑魚」


「ふっ……ご命令とあらば」


コウタは優雅に一礼し、第三格納庫へと歩き出した。その背中を見つめる二人には、彼が昨夜どんな夜を過ごしたのか、知る由もない。


(……行くか)


彼は心の中で呟いた。


(怖いけど。震えてるけど。でも、二人が待ってる)


(抜け殻だって、戦える。この震えは、まだ戦える証拠だ)


彼はポケットの中で零式の破片を握りしめ、気取った微笑みを貼り付けたまま、通路を進んでいった。


---


第四十二章 了


『彗星の指揮官は今日も無茶を言う』 続く

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